発達保障をめざす理論と実践応援プロジェクト

実践現場で働いている方たちを念頭に書き綴ります。間違いに気付いた時に修正・削除できるようブログでのみ公開。資料は自由にお使いください。

階層と段階の視点⑬ ヒトはどのようにして、大人になるのか~「可逆操作力」と「可逆操作関係」による説明

   ヒトはどのようにして、大人になるのか

          超訳「階層-段階理論」

                   

                     山田優一郎(人間発達研究所会員)

 

はじめに

 

 可逆操作とは何か。

「外界の世界をとり入れ、新しい活動をつくりだし、それを自らの内面にとりこんでいく際の基本操作」田中昌人(1990)「人間発達研究所通信」(6)31.15

 

 本ブログで説明してきた可逆操作の内容は、以下のとおり。

 操作単位ごとの媒介となる活動で外の世界に働きかけ、自らを発達させるための産物を獲得する。基本操作が媒介と産物の間を可逆し、両者は拡大再生産されて発達を遂げる。      

                表1

  

「各操作単位と操作変数をもった可逆性は・・可逆操作の高次化をすすめる過程で認識される」(田中1980P214)2)

 

 ここでは、表1に示した可逆操作によって、可逆性の弁証法的発展過程を説明します。

 

 「弁証法
 弁証法とは、ソクラテスプラトンにはじまる「概念の真の認識に到達する方法」(「広辞苑」.岩波書店)のことです。

 

 人は孤立して生きていく存在ではなく、生まれた瞬間から、人間社会の一員として生きていくことになります。弁証法では、「世界はどのようなものであるか」という問に対して、次のように答えます。

「世界におけるすべての事物・現象は個々ばらばらに孤立して存在しているものではなく、すべて相互に連関しあっている。そしてどの一つの事物・現象も永久普遍なものではなく、すべてが普段に発展している」(西本1967)2)

 まさにひとりでポツンと誕生するのでなく、人間社会の中に生まれ、日々発達をとげていく子どもの姿そのものです。だから、人間の発達も「世界におけるすべての事物・現象」のひとつとして、弁証法で説明することが可能です。

 

 現代の弁証法では、人間社会の発展の歴史をざっくり次のようにとらえます。

 

「社会の歴史は、生産の発展の歴史である」3)
 貝殻の採取や狩りしかできなかった時代から、農耕時代への移行は、生産力を飛躍的に高めました。今では広い田んぼの田植えや収穫も、たったひとりで、数時間で終わらせることができます。林業にしろ、漁業にしろ、各分野の製造業にしろ、ここまでに至る人間社会の歴史は、生産の発展の歴史だったといえます。それは、現代社会の大量生産技術をみれば、疑う余地がありません。

 

「生産力」
 人間社会を生産の発展の歴史とみた時、社会の発展を押し進める力はその社会が内包している「生産力」です。「生産力」とは、「生産において、その社会がもっている能動的な力」4)のことです。
 
「生産関係」
 しかし、人間はひとりで生産活動を行うのではなく、必ず人との関係の中で働きます。ひとりで働いているように見える農民も、年貢を取り立てる殿様との関係から逃れることはできません。ひとりで茶碗をつくる陶芸家も、茶碗を必要としている人たちの元へ茶碗を届けてくれる人との関係を断ち切ることはできません。漁業でも他との物々交換、あるいは、魚を買ってもらう人との関係は常に存在しています。もちろん、工場ではどんな零細であれ、集団労働です。「生産関係」5)は、このような「生産における人間と人間の関係」のことです。「生産関係」は、物々交換の相手のように平等な相互協力・相互援助の場合もあれば、殿様と農民、社長と社員のように支配者と被支配者、雇用主と従業員ということもあります。6)

 

「生産力」と「生産関係」の矛盾
 人間の社会は、生産力の発展にともない生産関係も変化して現在に至っています。これまでの歴史を見た時、生産力は絶えず発展します。それに対し生産関係は、変化しにくく固定した傾向を持っています。実際のところ、いつ何をどこへ種をまいたら大量に収穫できるのか、農民の知識と自然に働きかける技術は年月とともに蓄積され、人間の本性の発揮として生産力は確実に増えていきます。にもかかわらず、年貢をおさめる殿様との関係(「生産関係」)は、何百年と続きました。いつの時代も生産力の日々の発展に比べ、生産関係はそう簡単にはかわりません。

 絶えず進化し、高まっていく生産力と、固定する傾向をもつ生産関係。その矛盾が拡大した時、発展した生産力に照応した新しい生産関係がうまれます。生産力の高まりとともに古い生産関係から、新しい生産関係へ。それを繰り返して現在に至っています。殿様のいない今の時代は、現代の生産力に照応している社会だといえます。
 
1.人間の発達でも同じような法則が働きます。ここから、生産力を=可逆操作力、生産関係=可逆操作関係として両者の関係を考えてみます。

 

 「可逆操作力」(=「生産力」)を表1の①「基本操作」、認識力・思考力とした時、「可逆操作関係」(=「生産関係」)は、表1の➁「媒介」活動を取り巻く人との関係です。人との関係は、生産関係と同じように対等な友だち関係もあれば、親と子という場合もあるし、教師と生徒、コーチと部員、雇用者、被雇用者、近所のおじさんという場合もあります。

 

 表1の➁媒介から予想される「可逆操作関係」は、ざっと次のようになります。

               表2 可逆操作関係

        

 1次元可逆操作期の幼児は、大人との交流活動によって、ことばを拡大していきます。なので、大人との交流活動は、一定期間、認識力を高める役割を果たします。しかし、次の認識力、「想像」世界へと進んだ時、古い可逆操作関係→大人との「交流活動の関係」は桎梏(しっこく)*)に一変7)し、新しい可逆操作関係→全体を想像しながら、部分の~をするための「想像遊びの関係」へと発展します。社会発展の基本法則と同様に、「生産力(=認識力)がいっそう発展するためには、発展した生産力に照応した新しい生産関係(=可逆操作関係)がうまれざるをえない」8)からです。( )内筆者
*桎梏(しっこく)~「自由な行動を妨げるもの」(「現代国語辞典」.三省堂

 

 可逆操作力(①認識・思考力)は、日々進歩しますので、可逆操作関係(媒介活動を巡る人との関係)との間にズレ(矛盾)が出てきます。やがて両者の矛盾が激しくなった時、可逆操作関係は発展を余儀なくされるのです。

 

 これで、「可逆操作力」と「可逆操作関係」は、具体的にイメージできるようになりますよね。

 ここまでをもう一度、かんたんにまとめます。

 

①外界へ働きかけ産物をとり入れ、本性として日々進歩を遂げる可逆操作力(認識・思考)
➁可逆操作力(認識・思考)が高次化した時、可逆操作力をいっそう高めていくために高次化した可逆操作力に照応する新しい可逆操作関係(人との関係)が形成される。

 

  ①の高次化によって、➁が発展し、➁の発展によって、さらに①が高められていく仕組みになっているのです。(下図1)

 

 さて、以上は各階層・段階の可逆性がどのように登場してくるかを弁証法で説明したものでした。ここまでの話しは、子どもの「力」と、子ども囲む人との「関係」の「矛盾」を原動力として、人間関係が「発展」するという話しです。なので、そもそも子どもの内部において知的操作の高次化がどのように進むのかという話しとは別の話しです。

 

 ひとまずここでは、図1のように各段階の知的操作の発展・移行を「高次化」、各段階の人間関係の発展を社会科学の一般的な用法にしたがい「発展」9)として両者を区別しました。

                

                図1

2.では、では、ここからは表1の可逆操作(「基本操作」)の高次化の話しです。今までのオレと回りの人との「関係」の話しではなく、これからの話しは、物質、固体(オレ)内部話しです。田中(1980)は、可逆操作の高次化について次のように説明しました。

 

「1次元可逆操作の獲得期には、2次元の、2次元の獲得期には3次元の、3次元の獲得期には1次変換の最近接領域を・・・・・ふさわしいとり入れかたをして運動・実践を産出する」(P156)
 
 そして、高次化は次のように進みます。

 まずは1次元ことば世界の充実が「漸進的におこなわれる」(田中1980P155)。そして、「(1次元の)量的蓄積をもとに一定の限度を越えると新しい質(2次元)にもとづく飛躍的移行が進む」(田中1980P155)( )内筆者。

 

 「質的変化への転化(=高次化)は、この内部矛盾の発現にほかならない」(田中1980P155)( )内筆者

 

 内部矛盾は、「現実の事物・現象の一つのものの中に互いに相いれない対立したものが統一されつつ、しかし排除し合っている」(中原1965)10)状態をさしています。だから、ここからは「一つのものの中」、つまり、(オレ)の内部の話しです。

 

 上記図の「1次元ことば」は、見える世界のことであり、「2次元想像」は、見えない世界であり、両者は異質なもので対立しています。しかし、「1次元」と「2次元」は、切り離しがたい存在です。「1次元」がなければ、「2次元」もないわけですし、「2次元」がなければ「1次元」もないのです。すぐ隣にある「2次元」へ「1次元」の産物(表1②)が移動しようとします。しかし、自然界の現象、拡散と浸透のル-ルによって、「2次元」世界は「1次元」からの産物を排除します。(本ブログ「可逆操作の相互浸透」)逆のルールも存在し、つまり、対立しあっているのです。

 だからこそ、1才半の節をこえてからもすぐに「2次元」にはならず「1次元」は一定期間続きます。しかしながら、「事物の内部にひそんでいる、この対立している側面の否定しあう関係こそ、そのものの発展の原動力」(中原1965)です。変化の原因は、子どもの外にあるのではなく、「発達に固有な本質をなす内部矛盾」(田中1980)なのです。そして、田中は、前述のように「質的変化への転化はこの内部矛盾の発現」(田中1980)としました。(本ブログ「図解 量から質への転化」)

 子どもは、内部の対立・排除しあう関係の矛盾を解決11)するために質的変化、すなわち高次化を遂げ、自己運動として次のステージへ進みます。
 
 以上の「1次元」「2次元」の話しは、すべての事物・現象にあてはまります。万物の変化・発展を自己運動として理解しないと、なぜ地球上の木々が勝手に成長し、寿命がきたら朽ちて、土にもどるか説明できません。なぜ、人の手が及ばない高いところから雨が降り、人の手が及ばない海上で台風が発生するのかも説明できません。だから弁証法では、自然であれ、社会であれ万物の変化、発展を自己運動としてとらえるのです。
 
 人間も自然の一部ですから、人間の発達も自己運動としてとらえないと、なぜ、日本中の子どもたちが、同じ時期に同じことができるようになるのか合理的に説明することはできません。自己運動なので外から子どもの脳の中を直接操作することができないように「2次元」のところに「3次元」を置いたり、「2次元」を「1次元」と同じにしたりということはできません。また、「2次元」をなくしてはやく「3次元」に到達させることもできません。
 人間の発達は、「1次元」の量的蓄積が「一定の限度」(田中1980P155)をこえた時、異質なものへの段差(矛盾)を乗り越えるためにギアをかえて「2次元」へはいるのです。変わる中味は、移行期における対称性の破れとして自然界の法則、「対称性の原理」*)によって説明することが可能です。「2次元」への移行は4才頃。人間の発達は、量から質への転化も、どのようなものにかわるのかも自然界の法則によって記述できる事象です。
*「対称性の原理」については、本ブログ⑨⑩⑪⑫    

 

 ここまでは子どもの発達に限らず、物事の内部でおこる自己運動の仕組みです。ところで、世界の事物・現象の中で「それだけで孤立して存在しているものは一つもありません」(西本1967)。物事の内部におこる自己運動も外の世界とのつながりがあってのできごとです。植物の双葉から本葉への飛躍的発展は、自己運動としておこりますが、自己運動を引き起こす外部との関係、すなわち、水・栄養・光を吸収する活動は内部の運動にとって成長の条件となります。この時、外の世界からこれらをとり入れる活動が制限されると、成長もとまってしまうのです。このように事物の外の世界「その事物に影響を与え、発展を促したり、ぎゃくに発展をおくらせたりして発展過程に作用」(中原1965)します。ですから、人間の子も外の世界の条件によって、高次化(質的転換)は、うながされたり、おくれたりするのです。

 したがって、私たちは、すべての子に1次元の子には1次元の2次元の子には2次元の活動が生き生きと展開できる外の世界を用意しなければなりません。前述のように外から子どもの内部でおこることに手をつっこむことはできません。私たちの仕事は、子どもが自分の力で発達できるように、どの子にも産物(表1)を吸収できる環境を整えることです。

 

 以上の結果、私たちは次のような結論を得ることができます。 

 教育は「もう獲得されている可逆操作が、もうその力はあるけれど発揮する機会がないところに働きかける」(加藤2018)12)のが基本であり、障害児教育は、子どもが、今持っている可逆操作をうまく発揮できずにいる状態の時、子どもの声を聞きながら、子ども自身が困っていることをみつけ手をさしのべる教育だといえます。

 こうして、私たちがめざすべきは、もうすでにそこにある力の量的蓄積(田中1980)、すなわち各段階における「手持ちの能力の全面的開花」(赤木2018)13)という結論が導かれます。
 
3.さて、子どもの発達過程には、どの段階でも可逆操作が花ひらく人間関係(可逆操作関係)が存在していました。(表2)子どもたちは、どの年令でも、人格*)の基礎を各段階における人との関係によって培っていきます。
*人格~「人間としての精神的な高さや深さ」(「現代国語辞典」.三省堂

 

 表2において4才頃からの可逆操作関係は「想像遊びの関係」でした。今から150年以上も前の子どもたちがしていて、今も同じ年令の子どもの活動内容として保育所や幼稚園で実践されているてっぱんの遊びがいくつかあります。そのひとつは「押しっくら」14)(おしくらまんじゅう)です。
  
 「押しっくら」は、見えない後ろにどういう子がいるのか、その後ろは、土なのか、草むらなのか、溝なのか、池なのか遊びの空間全体を想像しながら、おしり(部分)で押し合います。(表1①「基本操作」)
 この時、後ろに溝があることを想像できないと、どこまでも押し続け、後ろの子にケガを負わせてしまいます。見えない後ろを想像し、溝や池がある時は、小さい子、力の弱い子を押す力を加減しないと遊びとして成立しないのです。その加減ができないと近所の子と遊ぶことができなくなってしまうのですから大変です。「あしたから、遊べなくなるかもしれない」と想像できる認識の力と「遊べなくなるのはイヤ」という人としての感情は、一体のものとして獲得します。だから、子どもは、可逆操作力を発揮するまさにその時、可逆操作関係の中で自分を律し、人格の基礎、弱者への「思いやり」、「やさしさ」を学んでいきます。

 

 同じく2次元可逆操作期の子どもの遊びで何百年も継承されている遊びに「廻りっくら」というのがあります。今のかけっこです。
 「廻りっくら」15)は、街なかを走ります。同じところから左右にわかれて走り、同じコースを、ひと回りして先に帰ってきたほうが勝ちです。知らないところではなく、ご近所の知っている道を走ります。お寺の境内の石畳では、すべらないように慎重に体をコントロールします。ここで、転んだら、結果、全体がどうなるか想像できるからです。崖道もこわいケレドがんばって走ります。ここで歩いたら、結果、全体がどうなるか想像できるからです。ご近所なので近道があることは知っています。近道を走りぬければ勝てることはわかっているのです。しかし、そんな卑怯なことはしません。卑怯な手段で勝っても楽しくないからです。近道を使えば、必ず勝てるという結果を想像できる認識の力には、卑怯な手段を使って勝っても「楽しくない」という人間的な感情も含まれています。だからこそ、子どもは誰も見ていなくても卑怯な手段は使わないのです。だからこそ「かけっこ」は、何百年にわたって世界中で続けられている遊びになっているといえます。

 こうして、子どもは、可逆操作力を発揮するまさにその局面において、可逆操作関係のなかで人としての「正しい道」を形成していきます。

 

 けっきょく、人格の基礎は認識・思考の力と一体のものとして、可逆操作関係の中で形成され、その人格の芽は可逆操作関係に反映され、可逆操作関係を介して、さらに可逆操作力を発揮できる環境を整えていきます。この仕組みは、おそらく今の「おしくらまんじゅう」や「かけっこ」(リレー)でもかわりません。

 

 神戸大学の小川太郎(1975)16)は、かって学校教育について次のような指摘をしました。
「たんに知識・技術・能力・・の形成・発達をはかるばかりでなく、その任務をはたす、まさにそのことにおいて、意思・感情・性格など人格的な諸特性をも形成・発達させるものでなければならない」
 階層と段階の視点は、小川の指摘に発達論から根拠を与えるものになっています。

 

 みてきたように高次化の原動力は、各段階の基本操作の内部矛盾です。そして、高次化は可逆操作関係の発展を余儀なくします。しかし、可逆操作関係は人格の発達にとって不可欠なものではあっても関係の発展が豊かな人格を担保しているわけではありません。人格の発達はどの段階にあっても、可逆操作関係を構成する集団の教育力が関与しており、関係が発展することと、発展した関係の中でどのような人格を形成していくかは別の話しになるからです。
 だから私たちは、小川が指摘するように可逆操作力を発揮するまさに、そのことにおいて、「人格的な諸特性をも形成・発達させる」(小川1975)教育を展開しなければなりません。可逆性の弁証法的発展過程は、教育基本法第一条 17)が定める人格形成をめざす教育の実践的な基礎となるものです。

 

 これで、可逆性のあらわれは、単なる成長の「記載」としてではなく、論理的な根拠をもって職場で「説明」できるのではないでしょうか。

 ところでヴィゴツキ-18)は、知的発達と人格の発達について次のようにのべています。

 

「子どもの心理過程にとって、もっとも本質的なことは、まさに感情と知能の間の関係の変化なのである」

 

 以上の「可逆操作力」と「可逆操作関係」によって、「階層-段階理論」は、ヴィゴツキーのいう「もっとも本質的なこと」、すなわち、知的発達と人格発達の関係の変化を説明することが可能となります。(本ブログ⑭)

 

[参考・引用文献] 
1)田中昌人(1980)「人間発達の科学」.青木書店
2)西本一夫(1967)「史的唯物論入門」.新日本出版社
3)前掲2)
4)前掲2)
5)前掲2)
6)前掲2)
7)前掲2
8)前掲2)
9)前掲2)
10)中原雄一郎(1965)「弁証法唯物論入門」.新日本出版社
11)足立正恒(1984)「唯物論弁証法」.新日本出版社
12)加藤聡一(2018)「可逆操作の高次化における階層-段階理論」は学校教育にどう向き合うか(2)人間発達研究所通信 No.155号 
13)赤木和重(2018)「目からウロコ!驚愕と共感の自閉症スペクトラム入門」.全障研出版部
14)小林忠監修中城正堯著(2014)「江戸時代子ども遊び大事典」東京堂出版
15)中田幸平(2009)「江戸の子供遊び事典」八坂書房
16)小川太郎(1975)「教育と陶冶の理論」.明治図書
17)教育基本法(教育の目的) 第一条 教育は、人格の完成を目指し、平和で民主的な国家及び社会の形成者として必要な資質を備えた心身ともに健康な国民の育成を期して行われなければならない。

18)中村和夫(2010)「ヴィゴツキ-に学ぶ子どもの想像と人格の発達」.福村出版

 

 

 

 

 

 

階層と段階の視点① 発達の階層、段階という視点(はじめに)

     発達の階層、段階という視点     

                    

                     山田優一郎(人間発達研究所会員)

はじめに

 

「人間社会のありとあらゆるところには、自然発生的あるいは人為的な階層構造が形成されている。この社会の階層構造と同じように生物・非生物を問わず自然界にも自発的に形成される階層構造が多く存在している。」坂口秀、草野完也、末次大輔(2008)1)

 

 歴史をひもとくと、人々は昔から人間が子どもから大人へと育っていく間にいくつかの節目があることに気付いていたことがわかります。元服の始まりは、奈良時代。室井(2011)2)は、 全国調査によって15歳前後の若者に対していわゆる現代版「元服」が昭和の時代まで日本各地に存在していたことを明らかにしています。そして、「元服」を機に青年団などへの加入が許可され、大人社会への参加が認められてきたのです。今でも、義務教育を終え社会で働くことが許される年令は、15、16才です。そして、中学校の始まりも、100年以上も前3)から、現在も12、13才。さらに江戸時代、寺子屋への入門は早くて6・7才4)5)でした。今の小学校入学と同じ年齢です。

 赤ちゃんの「人見知り」が始まり、親が「申し訳ない」という素振りをみせると、回りが「賢い証拠」となぐさめ、1才半頃6)から「イヤ、イヤ」が激しくなると、「3才になったらおさまるから」と励まし、(反抗のおさまりをまって)日本においては、江戸時代から「善悪は4才から教えなさい」7)と、若い母親たちを手引きしてきました。

 

 人間も自然の一部ですから、大人になるまでにいくつかの節目があり階層構造になっていることを人々がなんとなく気付いていたとしても不思議ではありません。しかし、なんとなくわかっていることでも、論理的に説明できないと本当のことにはなりません。アインシュタインは晩年次のように述懐しています。8)

「なんとなくわかるが、説明できないという真実を追い求めて、暗闇の中で手さぐりするような探求の年月」

 こうした人たちの努力のおかげで、私たちは人類の知恵として真実、すなわち「本当のこと」を手にすることができています。日本において、人々がなんとなくわかっていたと思われる人間発達の階層構造を子どもの観察と客観的なデータによって論理的に説明し、発達の「本当のこと」を追い続けた研究者がいます。そのひとりが京都大学の田中昌人(1932~2005)でした。

 田中が明らかにした人間発達における階層構造は、次のとおりです。

            表1

 大きな階層の中に三つの段階が存在します。よくわからない用語が並び、何が何だか・・・ですよね。人々が昔から、子の育ちの節目を大切にしてきたように節目を乗り越えることは、どの子にとっても一定の困難さをともなっています。だからこそ、私たちの社会は、その困難さを乗り越えた年齢を節目として大切にしてきたといえます。人間も自然界の一部ですから、障害を持つ子どもたちも、人として同じすじ道(表1)のどこかの階層,段階にいます。本人が怠けているわけではありません。親の育て方が悪いのでもありません。障害のある子どもたちは、誰にでも存在するどこかの階層、段階の前で障害のために育ちにくさを抱えている子どもたちだということができます。したがって、支援にあたって人間発達の階層構造を理解しておくことは、「今、この子は何が必要な時期なのか」(今の実践が、自然の法則に合致しているのか)を知ることであり、大切なことです。

 しかしながら、実際のところ、田中の上記階層構造の説明は、とても難解で働いている人たちが仕事の合間に勉強して、実践に生かせるようになるのには相当な困難さがあるのです。

 一方、どんな理論でもそれを現場で活用するためには、理論そのものとは別に実践で使うための独自の考え方や技術を必要としています。たとえば、IPS細胞が「本当のこと」として証明されたとしても、その「本当のこと」を新しい網膜、心臓、骨としてどう医療現場で活用していくのか、それぞれに独自の考え方や新しい技術が必要でした。今でもIPS細胞を人間のために生かしていくための研究と実践が各分野で続けられています。

 

 本ブログは、田中が明らかにした人間発達の階層構造を障害児の保育、教育、療育、子育ての現場で活用するためのものです。田中の理論そのものは、次の書籍を参考にしてください。

 

 田中昌人(1980)「人間発達の科学」青木書店

 田中昌人(1987)「人間発達の理論」青木書店 

 

1. 田中のいわゆる「階層-段階理論」(「可逆操作の高次化における階層-段階理論」)は、文字通り「可逆操作」を用いて、階層・段階の区切り(茂木1978)としています。9)

 しかし、やっかいなことに階層・段階を説明するための中心概念、「可逆操作」とはどのようなものか、どうしたらわかるのか、いわば理論の肝を理解することが難しいのです。「可逆操作」のわかりにくさは、私の所属する研究会(「全国障害者問題研究会」)でも議論になり、後に田中の後を引き継ぎ、同研究会の委員長となる茂木俊彦(1978)は、次のように指摘しました。

(「可逆操作」と「中核機制」について)「用語が難しいとよく言われるのは、概念規定が不明確で、コミュニケーション可能な内容をもって説明されていないことが主な原因」

 

 本ブログは、「可逆操作」について、実践に関わる人たちが職場で「コミュニケーション可能」なものになるような説明を試みたものです。

 

2.では、田中はどんな説明をしてきたのでしょう。

 以下、実践現場の教師たちを対象にした講演録「健康教育」シリ-ズ10)から田中の具体的な説明を抜き出してみます。次のとおりです。

 

 「幼児期は、『次元』という基本単位をもって『可逆操作』をやり遂げます」(田中1988)

  この説明の主語を「可逆操作」にかえると次のようになります。

 「幼児期の『可逆操作』は、『次元』という基本単位をもっている」

 その「基本単位」の説明は、次のとおりです。

 「『1次元の可逆操作』の基本単位は、『1次元の認識』である」(「健康教育」② の表から)

 主語を入れかえると次のようになります。

 「『1次元の認識』は、『1次元可逆操作』の基本単位である」

「健康教育」シリーズの「~ができる」一覧図(着眼点)でもこのような堂々巡りが続きます。

 「『1次元可逆操作』とは、図(着眼点)の『~ができる』ことを可能にする力である」

 主語を逆転させると次のようになります。

 「『~ができる』ことを可能にする力は『1次元可逆操作』である」

 

 どこまでいっても「同語反復」となって、わかる人にはわかるが、わからない人にはわからないのです。「善人は良い人である」を逆にしても「良い人は善人である」となって、けっきょく善人がどういう人なのか一般の人にはわからないのと同じです。ちなみに善人は、「よい心をもち、おこないが正しい人」(「現代国語事典」三省堂)のことです。

 

3.田中(1990)11)は、茂木の指摘から12年後、やっと「可逆操作」を次のように定義しました。

(可逆操作は)「外界の世界をとり入れ、新しい活動をつくりだし、それを自らの内面にとりこんでいく際の基本操作」
 

 しかし、上記定義でも何と何が可逆するのか、つまり「可逆」としていることの意味がわかりません。発達レベルが異なる障害児たちの「可逆操作」を普通の人が把握するにはどうしたらいいのかもわかりません。

 つまり、このままでは、せっかく田中が明らかにしようとした自然に存在している人間発達の階層構造を実践に生かす道が閉ざされてしまうのです。

 

 したがって、本ブログでは、まずもって田中のいう人間発達の階層構造を理解していくための肝(きも)となる「可逆操作」を、すでに確定している歴史、学術的資料をもとに探っていきます。(②からスタートです。)

 

 以後、本ブログにおいて「可逆操作」の説明する際に使用する用語の意味は、以下のとおりです。

 

「基本操作」=「(可逆操作は)外界の世界をとり入れ、新しい活動をつくりだし、それを自らの内面にとりこんでいく際の基本操作」(田中昌人「人間発達研究所通信(6)31.15」)

 

「媒介」=媒介性と同時に直接性を含んでいないものは、天にも自然にも、精神にもおよそどこにも存在しない」(ヘーゲル倫理学」第1巻)

 

「産物」=「人間は自然や人間社会・・・に働きかけ、新しい活動や産物を創出しつつ自分の本性を発達させていく」(田中昌人「人間発達の科学」)

 

[参考・引用文献]

1)坂口秀、草野完也、末次大輔(2008)「階層構造の科学~宇宙・地球・生命をつなぐ新しい視点」.東京大学出版会

2)室井康成(2011)現代民俗の形成と批判~「成人式」問題をめぐる考察.専修人間科学論集 社会学篇 Vol.8, No.2, pp.065~105

3)「学制120年史」(文部科学省

4)「早くて6才」(江戸東京博物館資料「江戸庶民の教育」)
5)「入門年齢のもっとも幼いのは7才」利根啓三郎著(1981)「寺子屋と庶民教育の実証的研究」.雄山閣出版

6)第一次反抗期は自我の芽生え!子どもの葛藤を受けとめ甘えさせてあげよう|ベネッセ教育情報サイト (benesse.jp)

7)小泉吉永(2007)「江戸の子育て十ケ条」.柏書房

8)フィオナ・マクドナルド著 日暮雅通訳(1994)「伝記アインシュタイン」.偕成社

9)茂木俊彦(1978)発達理論に関する若干の研究課題について~心理学のアスペクトから~「『発達保障論』の成果と課題」.全国障害者問題研究会

10)田中昌人(1988)「子どもの発達と健康教育」かもがわ出版

11)田中昌人(1990)「人間発達研究所通信」(6)31.15

 

 

※「階層と段階の視点①」に以下の資料を追加しました。(2023・7・17)

 

資料    

可逆操作の「媒介」について

   何が、何と何の間で可逆するのか    

 

1.退職後、ヴィゴツキ-を読む機会があり、次の一文に衝撃を受けた。

「子どもと大人のコミュニケーションが発達するにつれて、子どもの一般化も拡大する」(ヴィゴツキ-著柴田義松訳「思考と言語」上.1979.明治図書P283)

 上記、ヴィゴツキーの一文で、ことばがひろがるためには「大人とのコミュニケーション」が「媒介」となることに気がついた。これは衝撃の一文だった。というのも、私たちは、一語文の子には、今持っている一語文の力をヨコへひろげることを目標にしてきた。その目標はまちがいではなかった。しかし、どうしたらいいのかという議論になると、「伝えたいものがないのだから、彼が伝えたくなるような興味・関心のある世界をひろげよう」としてきた。これも間違いではない。が、そのための糸口をみつけることはできなかった。

 しかし、ヴィゴツキーはずっと前から、ことばは「大人とのコミュニケーション」とともに発達することを明らかにしていた。これに気がついていれば、私たちの実践はずいぶん違ったものになっていた。つまり、今持っている一語文で、もっと、大人との交流がひろがる実践をすればよかったのである。ヴィゴツキーの記述は、その結果として、ことばがひろがる可能性を示唆している。まさに、「大人とのコミュニケーション」は、ことばをひろげる「媒介」となる活動であった。

 

 この時点で私は、ひょっとしたら、どの段階にも、子どもが新しい力を獲得するためには「媒介」となるような活動があるのではないのだろうか、と考えはじめた。そして、それはきっと、教育実践にとって、とてつもなく大切なことではないだろうかと思われた。

 

 最初、弁証法の「媒介」からヒントを得ようとした。 というのも、20才代に読んだ「哲学ノート」1)に「媒介」ということばがあったことを思いだしたからである。「哲学ノート」は、(当時の赤線をひいたままの状態で書棚にあった。)

 

「媒介性と同時に直接性を含んでいないものは、天にも自然にも、精神にもおよそどこにも存在しない」(ヘーゲル)
 

 つながりの中に天-神を含める限り、神は絶対であり存在するかしないかであるから変化する自然の姿をとらえることはできない。しかし、神を除けばヘーゲルが喝破したように「媒介」によって、あるいは「直接」、つながっていないものは「自然にも精神にもおよそどこにも」存在しない。

 世界は、つながりながら変化、発展している。

 「哲学ノート」をきっかけに、私は弁証法唯物論の古い本を取り寄せて「媒介」を調べたが、そこからヒントを得ることはできなかった。しかし、子どもが何かを獲得する際に、「媒介」となる活動があることは、ヴィゴツキーと「哲学ノート」で確信した。

 

2.2021年、コロナ渦の最中のオリンピックにうんざりした夏。
「媒介」を追い続ける作業は、まさかのオチとなった。丁稚制度の検討から、その「媒介」となる活動はなんと私の足元、「可逆操作」に含まれていることに気付いたからである。丁稚として奉公(10才頃)してから、商売への本格的参加が始まる「半元服」(15・6才)までの間に外の世界に働きかける様式と、獲得する力との間をその段階の思考が「可逆」し、循環、拡大再生産される。室町から、江戸、明治、昭和の初期まで何百年と続いた丁稚制度は、丁稚が人間の本性として「持参」してきた発達の力の「可逆」がなかったら維持できない制度であった。

  
 「可逆操作」については、早くから次のような指摘があった。前述の1978年、茂木俊彦による批判の全文は以下のとおりである。

(「可逆操作特性」「中核機制」という用語に関して)「これを用いる人によって、この両者に込められる意味内容が同一であることのように思えることもあり、異なっているように思えることもある。いずれにせよ、この二つの用語が術語といえる程度には、概念規定を明確にしていかなければならない。用語が難しいとよく言われるのは、概念規定が不明確でコミュニケーション可能な内容をもって説明されていないことが主な原因であろう」2)
 
 しかし、田中は私が知る限り、その後も「可逆操作」を巡るカテゴリ-論の展開3)(1980「人間発達の科学」)をしつつも、「可逆操作」について明確な概念規定をしてこなかった。

 いうまでもなく一般化していない専門用語は、使う側に一義的説明義務がある。

 案の定、以後も、「用語が難解」「抽象的すぎてわからない」「子どもがみえなくなる」と批判が続いた。そして、「けっきょく、可逆操作とは何かは、田中昌人本人にしかわからない」というあきらめの声もあがった。
 

 これらの批判に対し、田中は1988年、次のように応えた。
「これまでは『可逆操作』というものをずいぶん言って、いろんなかたがたから、『そういう言い方をやめたらどうか』『もっとかわいい名前をつけたほうがひろがる』といろいろいわれてきたので、非常にじくじたる思いをしてきましたが、『可逆操作』を使っていたら、いよいよ『可逆操作』というものが発見されることによって、やはりこれでよかったと思っています」4)

 

 「可逆操作」はその後、田中自身によって次のように説明されている。私の手元の資料では、茂木俊彦の指摘から12年後である。

 (可逆操作は)「外界の世界をとり入れ、新しい活動をつくりだし、それを自らの内面にとりこんでいく際の基本操作」(田中1990「人間発達研究所通信6」)
 
 しかし、この説明でも肝心要(かなめ)の何と何が可逆するのかは不明のままとなった。わかる人にはわかるが、わからない人にはわからない。「可逆操作」は、今でも〈同じ鳥を見て、違う鳴き声を聞く〉という状態が続いているといえる。

 

 田中は批判を受けながらもなぜ「可逆操作」を堅持してきたのか。私はこの夏になって、けっきょく「可逆操作」には、子どもが何かを獲得するための「媒介」となる活動が含まれていて、さらにその活動と、その活動によってもたらされる産物との間を該当段階の基本操作が可逆し、拡大再生産の循環となって自己発達をとげていくという人間の本性を内包していたからではないかと考えるに至った。

 前述のように、昔の人たちがなぜ3次変換可逆操作へ到達できたのかというテーマで調べ始めた丁稚制度の検討の途中で偶然に気がついたことである。もし、このような理解でよかったら、私の探しものは目の前にあったことになる。
 
3. 「発達及び発達障害の・・指導過程において、指導者がその対象を認識する際に、対象が可逆操作の高次化における、どの階層のどの段階のそれを、どのように獲得していくかを弁証法的発展法則に基づいて明らかにすることは重要と考える」(田中1980)
 しかし、私も含め多くの現場の、少なくとも教育現場の「指導者」たちは、田中のいう「どの階層のどの段階のそれ」をどうしたら認識できるのか、わからなかったのである。結果、「階層-段階理論」をバックボーンとしているはずの発達保障をめざす国内最大の研究組織、全障研全国大会の実践レポートからも「可逆操作」は消えた。(鹿児島大会前後の3年間の調査結果)
 「階層-段階理論」の中心概念「可逆操作」は、障害児の実践を創造していくコミュニケーションツールとしては使いにくいという実践現場からの意思表示だといえる。

 

 前述のとおり、どの学問領域であれ、一般化していない専門用語は、使う側に一義的説明義務がある。その義務を果たさない限り、よくわからないけど「信じる人」と「信じない人」がいるだけで批判や検討の対象にならない。
 残る謎は、なぜ、田中が「階層-段階理論」の中心概念「可逆操作」について、同門外とも議論できるような概念規定なり、説明をしてこなかったかである。

 わかりにくさの原因は、どこにあるのか。私が一番納得できるのは中村(2016)5)が指摘する「可逆操作」の説明における「同語反復」である。

 というのも、1970年代から80年代にかけて、私たちは「中核機制とは何か→可逆操作である」「可逆操作とは何か→中核機制である」「1次元可逆操作とは何か→1才半の節の~ができるを可能にしている力である」「1才半の節で~ができるためには何が必要か→1次元可逆操作の獲得である」と、迷路になるような議論を職場で繰り返していたからである。私たちは、結論が見えないまま、一応「これでどうだろう」と、グルーピングをして実践したがうまくいかなかった。

 

 本ブログでは、たとえば1次元可逆操作を次のように説明する。これで、ひとまず「同語反復」の迷路からは、脱却できるものと思われるがどうなのだろう。

 

「1次元可逆操作期は、ことば(一語文)を認識する力(基本操作)で、大人との交流活動(媒介)によって、新しいことば(産物)を獲得していく。媒介と産物の間を基本操作が可逆し、循環し、両者は拡大再生産されて発達をとげる」

 

 ちなみに「可逆操作」を上記のように説明したとしても、状態のカテゴリーと様式のカテゴリーを「曖昧にしたり、乖離したり、前者の中に後者を内包させたり」(田中1980)することにはならない。むしろ、両者を一体として捉えた実践の必要性が強調され、乖離することの危険性が警告されることになる。(本ブログ)

 

 私は、全障研の全国委員会で田中の発言を聞いたことがあるが、ひとかけらの傲慢さも感じなかった。むしろ、謙虚さがにじみ出るような発言内容だった。その田中が「現実の姿を説明しようとするとき、その説明が(幾何学との)アナロジーであるがゆえに同語反復的議論になってしまう」(中村2016)「抽象度が高いだけに何をもって、発達段階の高次化を測定するのか困難」6)(赤木2011)と指摘されるような説明をなぜ続けてきたのか、そこには、何らかの理由があるはずである。「可逆操作」について、前述の定義以上の説明は、発達診断などの臨床、あるいは教育学の課題として考えたのか、あるいは、中村(2016)が指摘するようにその説明が幾何学とのアナロジーであるがゆえの宿命だったのか。はたまた、「発達理論の研究がある制約を現段階ではもっている」7)(加藤1990)ためなのだろうか。

  

 次回以降でみていくように「段階ー階層理論」は、「可逆操作」の説明における同語反復あるいは、抽象的な説明から脱することによって、普遍的な教育に相当な示唆を与える。私たちは人間発達の本性から生まれた「可逆操作」概念によって、「何をしたらいいのか」とともに「何をしたらいけないか」を読み解くことができる。  

          (2021・8・16ブログ「可逆操作~何が、何と何の間で可逆するのか」)


1)レーニン・松村一人訳(1956)「哲学ノート」岩波書店
2)茂木俊彦(1978)発達理論に対する若干の研究課題について~心理学のアスペクトから「発達保障の成果と課題」全国障害者問題研究会

3)田中昌人(1980)「人間発達の科学」青木書店

4)京都教職員組合養護教育部編(1988)「田中昌人子どもの発達と健康教育①」かもがわ出版
5)中村隆一・渡部昭男編(2016)「人間発達研究の創出と展開~田中昌人・田中杉江の仕事をとうして歴史をつなぐ」群青社 

6)赤木和重(2011)障害研究論における発達段階論の意義~自閉症スペクトラム障害をめぐって「発達心理学研究」第22号第4号

7)加藤直樹(1990)発達保障理論の総合的発展・創造への研究課題を考える「人間発達研究所通信」VOL.6(2)

                 

 

 

 

 

 

階層と段階の視点④ 中世・近世日本の若者教育に学ぶ2次変換可逆操作~「基本操作」と「媒介」及び「産物」

                           2次変換可逆操作

    「基本操作」と「媒介」及び「産物」

 

                                                                                   山田優一郎(人間発達研究所会員)

 

 日本において中学校のはじまり(旧高等小学校)は、実に1907年1)から今も、100年をこえてなお12歳、13歳です。人々が100年をこえてなお12歳、13歳を中学校の始まりとし続けてきたのには、その区切り方で教育することが合理的だった、つまり、子どもの発達とズレがなかったからにほかなりません。

1)「学制120年史」(文部科学省)。長い歴史と伝統を誇るイギリスのパブリックスクールも、13才入学である。(「ブルタニカ国際大百科辞典」)

 

 一方、世界の研究者たちは、1905年、ビネーの知能検査以来人間の子は、何才の時にどんなことができるのかという研究を永遠と続けてきました。現在、100年を越える歴史の検証をへて、何度も何人の子に検査しても結果がかわらなかった項目だけが生き残っています。

 上記研究において、世界の研究者たちは、12歳頃から、子どもの思考がかわることを発見しています。もちろん、変わり目がはっきりわかる目印を検査項目としても残しているのです。「新版K式発達検査法」2)で12歳頃の思考の変わり目がわかる項目として残っているのは、次の検査です。

 

「へび、牛、スズメはどうにていますか」

 まず、へびと牛はどれどれがにている・・なぜならと考えます。そして、さらに、この年令からは、「なぜ」を繰り返して答えを導くことができるのです。次に牛とスズメは何がにている、なぜならばと考えます。そこから導き出されるものは、三つに共通する「動物」やら「生物」という、より抽象的な概念です。12才頃から、「次になぜなら」、「次は、なぜなら」と、「なぜ」を繰り返して、理由や根拠を「深堀り」3)することができるのです。

 そのため、中学校からの学習は、論理的思考の深掘り期にふさわしい内容になっています。1と2をXとします。なぜなら同じ数字だからです。次に2と3もXとしましょう。なぜなら、3も同じ数字だからです。次にいっそのこと数字はみんなXとすることにします。こうして、抽象的な概念Xを理解し、Xを求める方程式の勉強が始まります。方程式の学習でも「なぜなら・・」を繰り返します。  

    X+7=4

 1.左辺の7をとるために7を引く X+7-7 「なぜなら」(Xだけ残すため)

 2.右辺からも7を引く X+7-7=4-7

                    「なぜなら」(左辺と右辺は等式だから)

 3.計算をする。  「なぜなら」(Xを明らかにする必要があるから)

 4.解を出す      X=-3

 

 つまり、「なぜなら」を繰り返し、理由や根拠を「深堀り」していって、最後に解に辿りつくのです。「なぜなら」を繰り返す思考は、1、2、3、4、と時間ごとに変化する対象に対し、根拠のある段取りでアプローチすることにほかなりません。

2)監修島津峯眞編集者代表生澤雅夫(2003)「新版K式発達検査法」~発達検査の考え方と使い方~.ナカニシヤ

3)東大ケーススタディ研究会偏白木湊著(2022)「伝説の『論理思考』講座」.東洋経済新聞社

 

 これでわかりますよね。100年も前から、人々が12、13才を学校制度の区切りとしてきたのには理由があって、その時期から、すでに抽象化されている概念をより抽象化された概念(「二重に抽象化された概念」)に変換する思考が可能となる年令だったのです。

 

 では、中学校(旧高等小学校)がなかった時代、あるいはあっても中学校へ進まなかった子どもたちは、どのようにして二重に抽象化された概念を獲得したのでしょうか。

 前述(本ブログ階層と段階の視点③)のように日本の中世から昭和まで続いた丁稚制度では、12・13才頃から商業労働が加わります。商売は今までの仕事と難しさの質がちがいます。 

「相手もいっしょ」「やることもいっしょ」の仕事とは異なり相手は千差万別、商品も値段も変幻自在です。大人の仕事は農業にしろ漁業にしろ、いくつもの変化する対象を相手に「ひと儲け」します。儲けるのも損するのも自分の「段取り」次第なのですが、それに伴う複雑さがあります。すなわち、いくつもの「なぜなら」が必要になるのです。丁稚が商売する時は、次のようになります。

1.「相手が欲しがっている品は~である。なぜなら・・・だからである」

2.「その品は、いつまでに準備しなければならない。なぜなら・・・だからである」

3.「儲けになる売値を調べておかなければならない。なぜなら・・・だからである」

4.「いつ伺ったらいいのか、知っておく必要がある。なぜなら・・・だからである」

5.「値引きしてもいいのか、出発までに聞いておく必要がある。なぜなら・・・だからである」

6. 「品物の説明でわからないところは、調べておかなければならない、なぜなら・・だからである」

 そして、優先順位をつけ、段取りよく行動してはじめて儲けることができるのです。こうした行動の中で少年たちは「売値」「値引き」という概念を理解し「商売」という概念も掴みます。なので、田中(1967)4)は変換の階層を「新しい行動を創造するかを問題にする」時期としました。商人たちは、丁稚が12・13才になるのをまって、子守や掃除から、「なぜなら」を何度も繰り返して、いくつもの根拠のある段取りが必要な商売に参加させていたのです。丁稚を一人前に育てる商人たちの見事な知恵だったといえます。そして、前述のように現代社会は、丁稚制度における商行為への参加とちがって、大人社会へ参加するための基礎的な知識(中3まで)を国(文部科学省)が示し、義務教育としているのです。

4)田中昌人、田中杉江、長嶋瑞穂(1967)「障害児研究の基底」(「児童心理学の進歩」金子書房)

 

 

「2次変換可逆操作」とはどのようなものか。

 以上のことから、12・13歳頃からの可逆操作は、次のようにまとめることができます。

 ①は②⇔③の間で可逆し、拡大再生産されて発達を遂げていきます。

 

 さて、「なぜ」を繰り返して理解できる抽象的概念というのは、物事の本質の集まりです。わたしたちの社会は、中学校3年までに物事の本質を学ぶ学習によって、進学しようと就職しようと、もう一生普通に生きていくのには不自由しない仕組みになっているのです。そして、物事の本質がわかるということは、自分自身のことも「深堀り」できるようになるということです。同じ思考で他者理解も進みます。ヴィゴツキ-(2017)5)は、「自分自身の内面過程を自覚し、反省が可能になり・・・はるかに深く広い他者理解をもたら(す)」としました。

 

 自分のことがわかるようになり、同時に「はるかに深い他者理解」が進むことによって、「ギャングエージの友人たちとは異なって、親友、本当の友人を求める」(ブロス2010)6)ようになります。

 また、同じ理由でまだ自分にはできないことを難なくやってみせる「あこがれの大人」「あこがれの先輩」も出てきます。あこがれの大人や先輩のようにしたいけど、まだ、それができない不甲斐ない自分にも気付きます。しかし、いつか、自分もその人たちのようになりたいのです。こうして、自立・自律への基礎が築かれます。

5)中村和夫(2017)「ヴィゴツキ-心理学」新読書社

6)山本晃(2010)「青年期のこころの発達~ブロスの青年期論とその展開」.星和書店

 

 以下は、丁稚だった松下幸之助少年の記録です。

 

「幸之助には、早くやってみたいことがありました。これまで店主や番頭さんが、自転車を売るのをさんざん見てきたのですが、そろそろ自分の力で自転車を売ってみたい。そんな日が早く来ないかと心待ちにしていたのです。」

 松下少年についにその日がきました。

 「健気な少年の売り込みが終わると、鉄川の主人は幸之助の頭をなでて、

『良し買ってやろう』

 幸之助はうれしくて胸がおどりました。」

  幸之助少年、満13才の日のできごとでした。

 

 さらに、自分と他者の関係ついてより深く理解できる思考は、親との関係にも変化をもたらします。いつまでも親に異存はできない存在である自分に気付き、「親からの分離を始め、『反抗』が本格的になってくるのですが、反抗は『独立』の現れ」(ピーター・ブロス2010)です。

 

 中学校で用意されている部活動や生徒会などの教科外活動は、自主的、自由な探求によって、教科で得た知識を広げ、技術を磨き、関心を広げ、また、自律的に生活問題を解決していく場です。まさに、部活動や生徒会が「独立」への第一歩として、大きな意義をもってくる時期だといえます。先人たちがつみ重ねてきた「普通教育」の枠組みは実によくできています。しかし、これらの活動も「自主的」「自由」「自律的」でなければ、つまり、子どもが指示に従うだけの活動になると「独立」に向って、大人のようにふるまいたい子どもたちの願いに応えることはできません。

 

 あき君(仮名)は、入学時、言語:社会12.6才。「2次変換操作期」。軽い知的障害、学力不振のため入れる高校がないという理由で当時の養護学校高等部に入学してきました。次の作文はあき君が高等部1年の時のものです。発達は、障害児も基本的に同じ道すじで歩みます。なので、障害を持っていても「2次変換可逆操作」期は、自分のことがわかり、そして「深く広い他者理解をもたらす」(ヴィゴツキ-2017)時期です。

          

          作文 「1年をふりかえって」    

                  高等部1年      上西あき男

 

「僕は、高校なんか行きたくないと思っていました。そして、入学式に行っていろんな友達がいた。僕は、4月から5月29日までは、遅刻ばかりしていました。先生が家にむかえに来てくださったこともありました。そして、親元を離れ5月29日に学園に入所しました。入ってからは友だちとあんまり遊べないけどでも生活リズムも変わり最初は、短気だったけど落ち着いてきました。学校では生徒会にはいりダンスなどみんなに教えたりしました。僕はダンスをするのもすきだし教えるのもすきで最初は、体育大会の時に踊ってって言われた時はすごくうれしかったです。いろんな行事で踊って思ったことは自分が作ったダンスをみんなが踊ってくれるのがうれしかったです。僕は最近思ったことは友達にいろいろな特技があるなぁと思いました。本当はしたいのに心の中でしまっている人がいっぱいいると思います。最後になったけど僕はこの学校に入学して良かったです。」

 

 さて、さて、長い道のりでしたが、これで宇宙語だった「変換可逆操作」の意味がわかりましたよね。

 

現代の子どもたちと「2次変換可逆操作」

 故事に「啐啄(そつたく)の機」ということばがあります。それは、次のような意味です。

 

「啐(そつ)は、鶏卵がふ化しようとするとき、子鶏が殻の中から鳴くこと、啄(たく)は、母鶏が外から殻を口ばしでつつくこと」(故事成語名言大辞典.大修館書店)

 

 ヒナ鳥が殻を破ってまさに生まれ出ようとする時、それに合わせて親鳥が外から殻をつつき、殻が破れて中から雛鳥がでやすいようにするのです。発達を質で把握することができた今、私たちは、大人へとふ化しようとしている子どもたちの啐(そつ)に応える環境を用意しなければなりません。

 

1.時空間の主人公になれる舞台を

 12・3才の子どもたちは、まだ、長いスパン、広い空間を見わたして物事を処理することはできません。丁稚制度において、商業活動に参加する年齢には、いくつもの「なぜならば・・」と考える段取りが必要でしたが、まだ手代の仕事はできません。また、薩摩の郷中(ごじゅう)教育においても日本国の未来について考えるのは二才(ニセ)になってからでした。しかし、長稚児(おさちご)になれば、とりあえず、明日明後日、郷中(ごじゅう)の小稚児たちに何を教えるかのかの段取りは必要でした。(後述)

 同じように現在でも子どもたちの前にはとりあえず、明日の勉強の予習から、少し先の中間試験、期末試験、体育大会、~発表会、生徒会の行事、部活動、また家庭によっては家事労働など短いスパンでごく身近な課題がどの子にも存在しています。

 どの時代であれ、やるべきことは、目前に混沌として存在している状態です。期日までにやり遂げるためには、優先順位をつけて「段取り」よく行動しなければなりません。まさに短いスパンでケリがつく、身近な空間における「時空間操作」です。

 2次変換可逆操作期に身近な日々の暮らしの中に組み込まれている時空間操作の舞台を与えられた子どもたちは、とりあえずすでに獲得している既知の知識や技術を使いこなし、目標達成に向って行動します。大人のように、「なぜならば・・・こうだ」「なぜなちば・・こっちが先」と「なぜならば」をくり返して自分の「段取り」「行動」するのです。「2次変換」期におけるこの経験こそ、「3次変換」へ向う起点だといえます。なぜなら、マニアル(既知の概念「普遍」)の中に時として「特殊」ともいえる状況の変化がおこることを知ることになるからです。目的を達成するためには、状況の変化に対して割りにあう判断と行動が求められます。こうして、彼らは、マニアル(「普遍」)の中にあるもうひとつの普遍「特殊」(状況変化の共通項)があることを学習していきます。したがって、12、3才の節を越えた子どもたちは、どの子も大人のようにプレイヤ-になれる舞台が必要です。大人のように時空間の主役となって、自分の力を自分の「段取り」で発揮できる場所です。プレイヤ-でなければ自分のやり方で実行することができません。行動をともなわない限り、つまり傍観者でいる限り、また、指示されて従うだけの存在である限り、概念は自分の外にあって、「自らの内面にとりこんでいく」(田中1990)7)機会を失います。このように12・3才の子どもたちの身近に存在するいくつもの「段取り」で外の世界への働きかけるやり方(様式)こそ、次の段階における「広々とした歴史的スパンの中で『今』をみる」(内田2020)8)思考への準備だと思われます。

7)(可逆操作は)「外界の世界をとり入れ、新しい活動をつくりだし、それを自らの内面にとりこんでいく際の基本操作」(田中1990)人間発達研究所通信(6)31.15

8)内田樹(2020・2・29付)「今さえよければそれでいい」社会がサル化するのは人類が「退化フエ-ズ」に入った兆候.文春オンライン

 

 今も昔も、中学生になった生徒たちは、大人のようにふるまえる舞台を求めています。勉強、生徒会、部活動、などすべてが「なぜなら」を繰り返して、理由や根拠を深堀りできる思考によって、段取り力を発揮する格好の舞台です。

 学校での活動だけでなく、家事、地域でのボランティア、生き物の世話など、関心や得意を生かし、どこかで大人のように自分の段取り力が発揮できる場所をつくっていきましょう。

 もう、自分の段取りがあるのに他人から段取りを押しつけられることは、彼らには、とてつもなく嫌なことです。もう、子どもではないから、自分の未来を自分で考えている途中に、他人から、自分の未来が押しつけられることも、とっても嫌なことです。

 障害児教育においても、世話されるだけの生活から脱し、自分の段取りで何々ができる活動、プレイヤーになれる場所をどこかにつくっていくことが大切です。

 

資料 ケーキの切れない少年たち

 宮口(2019)9)は、少年院で出会った子どもたちの発言を次のように記録しています。

 

「勉強でいらいらしてしまう。高校に行けと親から言われて塾に通ったけど、全くついていけず、生活もめちゃめちゃになった。・・・それでイライラして悪いことをやった。もし、特別に支援を受けていたら、ストレスがたまらなかったと思う」(16才の少年)

 次のようにも記録しています。

「私の勤務していた医療少年院では、ほぼ例外なく彼らは小学校や中学校でいじめ被害にあっていました。」

  

 このように三等分に「ケ-キの切れない少年たち」は、不幸にして勉強でも部活でも、家庭でもプレイヤ-になれる機会が少なかった子どもたちだったといえます。なぜなら、概念の時空間操作の育ちを前述のように考えた時、プレイヤ-になる経験の少ない少年たちは、既知の知識を時間軸を延長して考えることが苦手だったことが予想されるからです。

 たとえば、クリスマスにケ-キを「食べていいよ」といわれたら、全部食べるか、せいぜい今、同じ空間にいる弟とわけて食べることしか思いつかなったのではないでしょうか。また、クリスマスには、「みんなでそろってケーキを食べる」という概念(知識)は、知っていてもその知識を「自らの内面にとりこんでいく」(田中1990)10)ことができていなかったのかもしれません。

 両者があいまって「『今ここ以外の時間を生きていくおのれ』にありありとしたリアリティを感じること」(内田2010)10)ができなかった子どもたちだったといえます。したがって、「ケ-キの切れない少年たち」も少年院を出て仕事と暮らしでプレイヤーになれた時、見事に更生していきます。彼等は、罰ではなく自分の「段取り」で外の世界へ働きかかける経験、すなわち、時空間の主人公になれる舞台こそ必要だと思われます。

 9)宮内幸治(2020)「ケーキの切れない非行少年たち」新潮社

10)前掲7)

11)内田樹(2020・2・28第一刷発行)「サル化する世界」.文藝春秋

 

2.教科学習~「可逆操作」の解体リスク

さて、前述のように「2次元可逆操作」期は、

①「なぜ」を繰り返して、理由や根拠を深堀りできる思考で ②変化する対象に対し、自分の段取りで働きかける活動によって③二重に抽象化された概念を獲得していく時期でした。 

 「階層-段階理論」において①②③は一体です。実際のところ、概念を①②③一体で獲得しておかないと、生きて働く力にはなりません。生きて働く力にならないということは、②⇔③が可逆し、新しい概念が外に働きかける力を拡大し、拡大した力がさらに概念形成をすすめるという拡大再生産のサイクルにならないということです。早い話しが、結論(答え)だけ教えられて、覚えろといわれても、たとえいわれたとおり覚えたとしても、これではことば(概念)を自分のものとして使うことも、概念が存在する壺を知ることもできないのです。結果、どういうことになるのか。

 中内敏夫(1983)12)の「学力とは何か」、ファイナルアンサーです。

「カゼをひけばカゼグスリとよばれているものを飲めば良いという学力は、うそではないのだから、ひとつひとつとってみれはこれで結構現実的な能力して有効に働くだろう。しかし、それは現実認識の能力としては、深いものとはいえない。その学力の浅さとそこからくる弱点は、その認識対象としている現実の状況が激変する転換期にはっきりあらわれてくる。なぜそうすればよいのかという「理」(「なぜなら・・」筆者注)の部分を含まないやり方や身のこなし方の学力には、一歩先の未来を予測する能力も、一歩前の過去を記憶する能力もない。だから次に現れてくる環境に適応することができない」

 要は、「階層-段階理論」でいう「可逆操作」(①②③)を解体する教育は、子どもたちにかなりのリスクを負わせることになるのです。全国学力テストの結果を学校ごとに公表し競争させている自治体があります。すると学校はテストに備えて答えだけ覚えさせる教育になりがちです。

 まさに「理」の部分を含まない教育がはびこる危険があるのです。発達のシステム、教育の原則を無視した政治家が、人気を得るために教育に介入することは、子どもたちの未来に対する犯罪だといわなければなりません。「なぜ」と考え、「なぜなら・・」と根拠が説明できる学力を身につけてこそ、子どもたちは自己発達をとげることができるのです。

     教育基本法

  • 第十六条 教育は、不当な支配に服することなく、この法律及び他の法律の定めるところにより行われるべきものであり、教育行政は、国と地方公共団体との適切な役割分担及び相互の協力の下、公正かつ適正に行われなければならない。

  12)中内敏夫(1983)「学力とは何か」岩波新書

 

3.14才は、「教えたがり」~薩摩の郷中(ごじゅう)教育

 「大人ではない自分」、しかし、「もう、子どもではない自分」は、子どもどうしの関係でも変化を与えます。「もう、子どもではない自分」にとって、自分より小さい子は、自分の「段取り」で大人のように「教える」ことができる関係になるからです。まさに、「教える」ことは、自分の「段取り」でできる活動の究極です。すでに自分が知っている知識や技術を、いつ、誰に、どんな方法で「教えるか」、すべて自分の「段取り」次第、自由自在に既知の知識や技術を操れるのです。

  江戸時代、「2次変換期可逆操作」期の少年たちが「教える」力を見事に発揮していた若者組織が薩摩にありました。

 「一.愛敬を旨とし、幼者を丁寧に教諭すべき事」13)

 これは、現在も資料が残っている薩摩出水地方の郷中(ごじゅう)教育組織の会則です。「教諭」は、今でもプロの教師の役職名ですから驚きです。

 

13)神田嘉延(2009)「薩摩の郷中教育の基本的視点」鹿児島大学稲盛アカデミ-研究紀要第1巻

 

 郷中教育14)は、次のように説明されています。

「江戸時代の薩摩藩には、地域に住んでいる武士の子どもたちが互いに結び合い、身心の鍛練と学習に励み、地域の年長者が指導者となって年下の者を教育するという青少年教育のしくみがありました。」

  郷中(ごじゅう)とは、武士が居住する一定の地域のことです。郷中(ごじゅう)では、6・7才から稚児(ちご)とよばれる集団に入ります。稚児(ちご)集団には、小稚児(こちご)長稚児(おさちご)というふたつのグル-プがあり、後者に前者を教育する役割を与えました。年令構成は、以下のとおりです。

         

   稚児(ちご)ーーー小稚児(こちご)6才~10才

            長稚児(おさちご)11才~15才

 

 稚児(こちご)たちは、午前8時前(五ツ)に郷中(ごじゅう)の決められた場所に集合します。そこで稚児頭(長稚児)の指導で身体の鍛練をします。午前10時(四ツ)になると、長稚児がいる座元(ざもと)行き、朝食前に独習したことを復習したり、「いろは歌」「歴代歌」「虎狩物語」などを読みます。午前中に体育と国語(朗読)の学習です。そして、指導にあたるのは長稚児の年長(頭)、今の中2・3年生、満14才頃の少年たちなのです。

 郷中では、15~16才になると元服して二才(ニセ)になります。二才(ニセ)は、青年の意味です。なので「よかニセ」は今でいう「イケメン」のことです。15~16才で元服して若者集団に加わり、大人社会の一翼を担います。丁稚の手代と同じ年令です。二才(ニセ)は、地域(郷中)から長稚児を指導する役割を与えられます。

「まず、稚児に向って問題がだされます。そのとき、稚児がうまく答えられなければ二才(ニセ)が指導し、二才(ニセ)の指導が適切でなければ、長老が訂正します。」

 つまり、「2次変換可逆操作」期の少年たちは、学んできた知識や技術を小稚児たちに教え、わからないことは、二才(ニセ)の指導を仰ぎなら学んでいたのです。教えながら学び、学びなから教える、何か今の中学校の生徒会活動や部活動の先輩と後輩の関係に似ています。薩摩ではこの方法で読み書き算盤、武術を学び、教えていたのです。

 西郷隆盛大久保利通など明治の偉人たちは、長稚児の年長(頭)、満14才になったら下の子を教える活動によって、学んでいたことになります。現代の子どもたちにも、自分の「段取り」でできる活動の究極、「教える」活動がどこかで経験できる環境を整えていきましょう。

 14)郷中教育については「江戸時代人づくり風土記46鹿児島」(1999)農文協

 

4.人格の教育

 小川(1975)15)は、教育には「人格の教育」と「学力の教育」の二側面があるとしています。「2次変換可操作」期にできてくる「自分自身の内面過程を自覚し、反省が可能になり・・・はるかに深く広い他者理解」(ヴィゴツキ-2017)の力は、「他人のために自分はどうすればいいか」「自分はよいと考えているが、他人からみればよくないのではないか」(ブロス2010)などの問いかけを可能とします。

 学校では、教科外の日常的な問題の解決をはかることにおいて、また、教科における文化遺産を体系的に伝える「まさにそのことにおいて」(小川1975)、人間として正しい生き方を学びます。人としての自問が可能となる2次変換期は、「人格の教育」 の適期だといえます。私たちは、啄(たく)となる教育環境を整えなければなりません。

15)小川太郎(1975)「教育と陶冶の理論」.明治図書

 

 

 

 

 

 

 

 

階層と段階の視点⑫ 新しい発達の原動力と「エネルギー保存則」 ~「生後第2の新しい発達の原動力」は、何と何を保存しているか 

    対称性の原理から見えてくるもの

   新しい発達の原動力と「エネルギー保存則」

「生後第2の新しい発達の原動力」は、何と何を保存しているか   

                       山田優一郎(人間発達研究所会員)                           

 

「エネルギーは、無から生じることも、なくなることもない。『エネルギー保存則』と呼ばれるこの法則は、物理学でもっとも重要な1つだ。エネルギー保存則は、私たちの身の回りで起こるあらゆる現象を支配している。地球は太陽の回りを回り続け、コーヒーは熱を加えると温まり、木々は光を浴びて酸素を作りだし、私たちは食事を摂って心臓の鼓動を維持している。私たちは食べずには生きられないし、車は燃料なしでは、動かない」1)

 

 自然界の法則は、「生後第2の発達の原動力」が、次の階層へ渡る船の操縦桿(能力)だけでなく、燃料(人・物への活動エネルギー)も保存して次へ向うことを予想させる。果たして、そうだろうか。以下、検討する。

 

 物理学における「運動」は「活動」に置き換えた。使用する物理学上の定理、法則、公式は、以下の四つである。また、「階層-段階理論」における「可逆操作」を表1に示した。物理学でいう「変換」は、子どもに対する回りからの一般的な働きかけであり、「可逆操作」は、子どもから外の世界へ働きかける活動である。

 

定理 「ネーターの定理」(1915.エミー・ネーター)2)

「物理法則の何か一つの連続対称性があれば、それにともなって、一つの保存則が存在するはずである。」

時間対称性=時間に対する不変があれば、エネルギーという量を保存する。3)

 

法則 「エネルギー保存の法則」(19世紀中頃.ジュール)4)5) 

 何らかの方法で与えられたエネルギーの総量は変化することはない。したがって、どこかでエネルギーが減少したら他のどこかで増加しなければならない。

*この原則により対人交流エネルギーと対物交流エネルギーの関係は、次のようになる。

       外界と関わる活動系エネルギーの総量

    f:id:sirayurinohana:20211229083037j:plain 

公式1 ニュートン力学における運動エネルギー

    1/2mv  m:質量 v:速度

公式2 特殊相対性理論における運動エネルギー

     E=mc2  c光速度の二乗で一定値

 

 ここで扱う子どもの活動は、以下のとおり。

                         表1

 

 

1.「生後第2の新しい発達の原動力」の発生と、時間対称性

                   図1  

      

 世界の研究者たちは、「バイ・バイ」への反応(+)を9ケ月越としている。6)反応とは「刺激に応じて、生体におこる変化」7)であるから、大人(a)からの刺激→←子ども(S)からの反応である。ここで示される反応は、赤ちゃんがはじめて大人と積極的に交流する活動の一局面である。この局面において赤ちゃん(s)と大人(a)は、常に対対称(s―a)として現れる。

 そして、発達の力は不可逆的であることから、同じ生体なら、一度(+)になった変化は、1秒後でも、1時間後でも、1日後でも1年後でも(+)の反応を示す。

 以上のことから、(s―a)の対称性は、時間に対し不変であり、時間対称性をもっているといえる。したがって、「ネーターの定理」によって、エネルギー量が保存されていることが予測できる。

 

2.エネルギー量の測定

 エネルギーは量なので測定できる。エネルギー量を測定することによって同じ(+)であっても、その「でき方」を推定することが可能である。

 

公式1 ニュートン力学における運動エネルギー

     1/2 mv  m:質量 v:速度

[エネルギー量の計算]

 「バイバイ」に反応する(9ケ月越)は、「人見知り」(7ケ月越)からの大きな質の変化であり、赤ちゃんは地球上どこに生まれても対人交流活動エネルギーをここで発揮する。その際の対人交流活動エネルギー量は、公式1によって、次のように算出することができる。

 

例)モデルS sーa s=主体(赤ちゃん)、a=大人 

  質量mを体重とみなす。8.7kg(日本の9ケ月の男児平均体重)

 

 aによる「バイバイ」が終了してから、sが声や動作によって反応を開始するまでの速度vを0.05m/sと仮定したとき、S児のこの局面における対人交流活動エネルギー量(J)は次のように算出できる。

  1/2  mv   mv=0.0109(J)

 

3.エネルギー量は、保存されているか

 上記公式1から、エネルギー量は質量(m)と比例することがわかる。したがって、体重が増えれば人のエネルギー総量も増える。大人の心臓に赤ちゃんの活動エネルギーしか与えられないと人は生きていけない。そして、今日も明日も活動するものの必要なエネルギー量は、保存されているからこそ自然はうまくいく。自然界の法則、「ネーターの定理」によって、時間に対する不変があれば、エネルギー量を保存するからである。(南部2009)

 では、モデルS児の対人交流活動エネルギーは、無事に保存されて、発達を遂げられるようになっているのだろうか。

                  表2

f:id:sirayurinohana:20211229083647j:plain

*エネルギー総量は、特殊相対性理論における運動エネルギー(公式2)により算出し、光速cは定数なので1に置き換えた。

         E=mc2  c光速度の二乗で一定値8)  

 

 表2からわかるようにモデルS児の9ケ月における対人交流活動エネルギーは、以後、10ケ月の新しい発達の原動力の発生時期から次元階層への移行期まで見事に100%保存され、発達を遂げられるような仕組みを自然は作りあげている。もちろん、対人交流活動エネルギーは、心臓の活動エネルギーと同じように、4才以降も保存されて、おかげで私たちの対人活動は枯渇することなく維持されている。

 

4.活動意欲の偏り

 秋葉(1981)9)は、「人・子ども・人間の活動をうながす力・エネルギーをわれわれは活動意欲とよぶ」とした。そして、活動意欲は、常に事物か人間に向って始動する。(秋葉1981)

 みてきたように自然界の法則は、「生後第2の新しい発達の原動力」が能力だけでなく対人交流活動エネルギー量を保存して次の階層へ進むことを示した。

 

 「バイバイ」に対する9ケ月の子どもの反応は同じ(+)であっても個性的である。そこで、モデルSを標準(0.05m/s)として、反応がもっとも速い子(0.01m/sからの4段階)から遅い子(0.09m/sまで4段階)の対人交流活動エネルギー量を算出すると表3のようになる。

 その際、対物交流活動エネルギーは、ジュールの「エネルギー保存の法則」(外界に関わる活動エネルギ-総量は一定)によって自動的に決定されるものとみなした。

                 表3

f:id:sirayurinohana:20211229083714j:plain

 「普通」を取り囲む周辺は個性の範囲である。その個性ある人たちで社会は成り立っている。対人関係得意の人たちは営業や接客の仕事を担い、対物が得意な人は、ひとりで物に向う仕事を選択する。そして、普通の人はどちらに対しても中立である。

 しかし、LLやHHのエネルギー量が保存されると、その後の発達に影響を与える。なぜなら、人との交流で「普通」の3倍ものエネルギーを必要とする子どもたちの活動は、できるだけエネルギーを使わずにすむ方へ流れることになるからである。すなわち、人との交流を避け、人以外の「物」(自分の体も含む)に偏ることになる。逆に人との交流が度を越えてHHになる子は、「物」への操作は苦手を越えて避けるようになる。いずれも、「エネルギーが低くて安定」(南部2009)することが自然の流れだからである。決してこの時期の母親たちの接し方に起因するものではない。

 

 では、表3モデルのH児やA児のようにエネルギー量の保存に偏りをもつ子どもたちは、実際に存在しているのであろうか。

 

 広く知られている「自閉症スペクトラム」といわれる人たちは、対人交流活動エネルギーLL状態にあるといえる。そしてエネルギーは、対人LLのまま保存されている。

 

人LL≪物HH ASD10)

 「社会的コミニケーション及び相互関係における持続的障害」(つまり保存されている)

 「同一性へのこだわり」(人以外の特定の物・事象へHHのエネルギ―も保存されている)

 

 対人交流活動エネルギーHHの子はどうだろうか。

 

人HH≫物LL 

 「・注目されたい行動・叱られるか試し比較・愛情試し行動・愛情欲求エスカレート現象」(「愛着障害」チエック項目)11)いわば、尋常でない「かまってちゃん」状態。

 

 ここまでの検討からは、親は普通なのに上記傾向を示す子どもたちがどの段階にも存在することが予想される。(表3)

 

 以上のことから、次のことが確認できる。

 対人交流活動エネルギーLL群に関して、自然のまま、すなわちことば獲得に向って何らかの教育(保育)による関与がない限り、ことばの意味を汲み取ることも、ことばを獲得することもできない。12)また、対人HH群に関しても同じように何らかの教育(保育)による関与がない限り、物の操作が進まず知的発達を遂げることが困難になる。

 つまり、両者とも、早期・長期にわたる教育-学習の支援を必要としている。

 その際、私たちは、対人交流活動エネルギーLL群にたいしては、「短時間、多回数介入(関与)の原則」13)を、対人HH群にたいしては「トンネル学習の原則」14)を提案している。(図2)

               

                 図2

f:id:sirayurinohana:20211229090504j:plain

 

5.結論

①第2の新しい発達の原動力は、s・a・p三項関係の成立という能力だけでなく、活動エネルギー量も保存して次の階層へ向う。

②自然界を支配している法則(「ネーターの定理」)に従い、活動エネルギー量が保存されることによって、子どもたちの活動意欲は枯渇することなく、次の階層へ向うことができている。その際は、得意、不得意も個性として維持される。すでに1960年代には、対人積極性の高い学習者は、「教師による授業」(処遇)から、対人積極性の低い学習者は、「映画による授業」(処遇)からより多くのことを学ぶことが実験で確かめられている。15)

③s―a関係の対発生時における対人交流活動エネルギー量に著しい偏りがある時、その状態が「新しい発達の原動力」の発生時に保存されて、以後、偏りのまま維持される。

④対人交流活動LLの状態は、子どもを対物交流活動(「こだわり」「固執」)へと向かわせる。

⑤対人交流活動HHの状態は、物の操作をLL状態へと導く。

⑥両群とも自然界の法則により記述されることであり、「親の育て方の問題」という見方は〈両群ともに〉否定される。

⑦両群とも、そのままの環境では源泉を取り込むことができず、特別な教育-学習ルートの助けを求めている子どもたちだといえる。私たちの経験では、「もう、遅い」ということはなく、何才からでも教育による関与(支援)は可能であった。16)その際は、子どもたちの生きにくさ、学びにくさに考慮した学習方法の工夫が求められる。

 

 以上、段階の違いを越え、どこの学校にもいる活動エネルギーに著しい偏りを示す子どもたちは、自然界の法則と発達の段階論によって説明が可能である。結果、子どもたちの生きにくさ、学びにくさへの理解がひろがることが期待される。そして、共通理解を土台にした対人LLの状態にたいする、あるいは、対人HHの状態にたいする保育・教育現場における支援方法の検討、創造、交流が実現できるものと思われる。

 

[参考・引用]

1)T.M.デイビス(2013)宇宙のエネルギー保存則は破れているか.「別冊日経サイエンス196~宇宙の誕生と終焉」

2)レオン・レーダーマン小林茂樹訳(2008)「対象性~レーダーマンが語る量子から宇宙まで」.白揚社

3)南部陽一郎(2009)「自然法則の対称性とその破れ」.仁科記念講演

4)山田克哉(2018)「E=mcのからくり~エネルギーと質量はなぜ『等しい』のか」.講談社

5)エンゲルス著菅原仰訳(1970)「自然の弁証法」(1).国民文庫

6)嶋津峯眞監修生澤雅夫編集者代表(2003)「新版K式発達検査法」.ナカニシヤ

7)三省堂(2016)「現代国語辞典」

8)前掲4)

9)秋葉英則(1981)「乳幼児の発達と活動意欲」.青木書店

10)DSM-5

11)米沢好史(2018)「やさしくわかる愛着障害~理解を深め、支援の基本を押さえる」.ほんの森出版 

12)私たちが遭遇した事例は下記に収録されている。

 山田優一郎・國本真吾著(2019)「障害児学習実践記録~知的障害児・自閉症児の発話とコトバ」.合同出版

13)前掲12)

14)前掲12)

15)滝沢武久・東洋偏(1991)「教授・学習の行動科学」.福村出版

16)前掲12)

 

 

階層と段階の視点⑪ 対称性の原理によって説明できる 「生後第2の新しい発達の原動力」

見直し途中!  

 「生後第2の新しい発達の原動力」を対  称性の原理で説明してみた

                     山田優一郎(人間発達研究所会員)                

 

「私たちが法則を発見できるのは、自然界に対称性があるからだが、それだけでなく、自然のもつ階層性のおかげである。」(板東昌子1996「物理と対称性」みすず書房

 

 対称性と「破れ」の原則は、「破れ」る前の対称性を予測可能にする。すでに明らかになっている「階層-段階理論」における階層内の法則に従い、ここでは、「対称性を仮定していく方法」(加藤2017)1)で「生後第2の新しい発達の原動力」について検討した。結果、①田中によって発見された10ケ月頃に発生する「生後第2の発達の原動力」は、対称性の「破れ」としても説明できるものであった。②「破れ」によって発生した「生後第2の発達の原動力」は、次の階層(次元)まで保存され、次の階層で発達を主導する力(可逆操作)の基礎になっていることが確認できた。③上記作業によって、連結の階層、第3段階の「可逆操作」の基本操作、媒介、産物を仮定することができた。

 

 使用した物理学上の定義は、以下のとおり。物理学でいう「変換」は、子どもに対する回りからの一般的な働きかけであり、「可逆操作」は、子どもから外の世界へ働きかける活動である。

 

定義1 「対称性」2)自然法則の対称性は、ある対象に対してある変換を行った時、その自然法則が変わるか変わらないかであり、変わらない時、その法則は対称性をもっていると言う。

定義2 「対称性の破れ」3)=「対称性が壊れている」「対称ではなくなる」という意味である。

定義3 「並進対称性」4)=空間の並行移動という変換を行っても法則は変わらないことをいう。例)東京で実験をやろうが大阪で実験をやろうが物理の法則は同じ。

 

1.階層と段階の視点によって、対称性の発生(対発生)の時期と「破れ」の時期はすでに明らかである。すなわち、新しい発達の力は、各階層の第2の段階の対発生にはじまり、その段階の終りに「破れ」が生じ新しい発達の力が誕生する。

 

2.赤ちゃんにたいする「バイバイ」にあたる語は、世界110ケ国以上に存在する。バイバイは赤ちゃんが積極的に大人と交流を実現する世界共通の事象である。そして、

世界の研究者たちは、「バイバイ」の獲得を「9ケ月越」であるとしている。

 

 「バイ・バイ」に反応(9ケ月越)~バイバイという言葉や身振りに対して、声や動作で反応する。5)

 

 s=主体(赤ちゃん)、a=大人としたとき、大人からの働きかけを受け止めて、そして、相手に意思を届ける活動の関係は、次のように対称性をもっている。

  s――a

 

 赤ちゃんと、大人との関係におけるs――aの法則は、保育園でも、田舎のおばあちゃんの家でも発揮され、空間を選ばない。したがって定理3の並進対称性があるといえる。

 

3.やがて、対称性の「破れ」によって、新しい力が発生することが予想される。すなわち、「破れ」によって、s――aの法則でない別の法則が働く。

①田中(1988)6)は、10ケ月頃に発達の新しい力が発生するとした。

②ウェルナ-(1974)は、ことばの獲得のまえに幼児と母親、対象物の間に「原初的な共有状態」7)(「三項関係」)8)が生ずるとした。P=対象物9)としたとき、s――aの法則は、ここで次のように変化する。

            

                    

                           

③標準化された発達検査は、ウェルナー(1988)のいう三項関係の成立を10ケ月越としている。

 

 「指さしに反応」(10ケ月越)~検査者の指さしに反応して、指さしたほうを見る。10)

 

4.すでに内訳が確定している1次元可逆操作期は、「ことばを認識できる力で、大人との交流活動よって、新しいことばを獲得していく」時期であった。したがって、1次元可逆操作においては、L=ことば(手話などを含む)とした時、三項関係は次のように変化する。      

              

 

5. 田中(1987)は、10ケ月頃に発生する新しい力を「第2の新しい発達の原動力」とした。発達の原動力には、「そこに生ずる子どもの内的矛盾をのりこえようとしてとりくむ能動的活動」11)というすでによく知られた定義が存在する。したがって、先に定義されている意味と異なる意味に使う時は、使う側に説明責任が生じる。そうでないとよく知られた定義どおりに理解する他者とのコミュニケーションが成立しないからである。

 以下検討する発達の原動力は、上記、子どもが外の世界との関係で生じる原動力ではなく、子どもの個体内部で次への発展を引き起こす原動力のことである。

 生後第3の新しい発達の原動力について本ブログでの説明は、以下のとおりである。

 

 ①発達の原動力は、各階層の第3段階への移行をひきおこす。②各階層の第3段階において、新しい交流の手段が獲得される。③新しい交流の手段は、次の階層において「発達を主導」(「理論」P79)する。

 なぜ「新しい」がつくのか。新しい発達の原動力がひきおこす、各層第3の段階において「新しい」交流の手段が獲得されるからである。そして、新しい交流の手段こそが、次の階層で発達を主導することになるからである。

 「新しい」がつく発達の原動力は、成人までの間に4回発生することが田中によって発見されている。

 

 果たして、生後第2の新しい発達の原動力は、次の階層(次元)の発達を主導することになっているのだろうか。以下検証する。

 

①ウェルナー(1974)は、対象が共有されるような対人関係の中では、〈触れて示すために手を伸ばす〉という行為と人にいわれたものを〈見るために体を向ける〉という行為の中には密接な類比関係があるとしている。そして、人からいわれたものに体を向けるという運動が、指示活動に利用されるようになると、完成した指さし行動までほんの僅か(ウェルナー1974)なのである。要するに、s・a・pの三項関係の中で対象に手を伸ばしたり、触れたり、そのものの方を向いたり、といった活動は、すべて最終的には「指さし」になる。そして「指さし」こそが次の階層への入り口(「絵指示」12))であった。したがって、s・a・pの三項関係ぬきには、次の階層へすすめない。子ども(s)は、大人(a)と対象(p)を共有する活動の中でことばの意味を汲み取って13) 「指さし」によるコミュニケーションを可能にしていく。以上の結果、s・a・pの三項関係は、連結の第3段階まで保存され、次元階層への先導役を果たしているといえる。

 

②子どもは、1才半頃にことばを話し、二足歩行をし、道具を使う。ヒトから人への第一歩である。だから、人間にもっとも近いチンパンジーと比較することによって、この時期の発達の特徴がわかる。友永(2011)14)は、「チンパンジ-の母親は、『自己-他者-物』の三者関係を構築するような積極的な働きかけを子どもに対してすることはほとんどない」とし、山本(2011)15)は、チンパンジーには「積極的に教える教育がみられない」「手取り足取り教えることはない」としている。

 しかし、人間の大人は、幼児と接する時、本性として、子どもの一言に「そうそう」と頷き、ほほえみ、頭をなでては「かしこい」とほめ、「これは何々」と教え、できないことはことばといっしょに手をそえて教える。

 以上のことからわかるように、人間の子どもは、「大人とのコミュニケ-ションが発達するにつれて、子どもの一般化も拡大する」16ヴィゴツキ-・1979)ことば(一語文)を頭の中で操れるようになった子どもたちが、その力を拡大するのは、「大人との交流活動」によってなのであり、新しい階層「次元」でも、s・a・pの三項関係は、保存され、ことば拡大の条件となっている。

 

③一語文のひろがりは、やがて二語文へと進む。二語文の獲得は「おおきい、ちいさい」「ながい、みじかい」「きれいな、きたない~」など「対」、ふたつの世界をひろげながら進んでいくことになる。ふたつの世界は、常に相対的なモノの比較である。人間であるボクは象さんよりは小さいのだが、アリさんより大きい。ふたつの世界は、今、そこには存在しない象さんやアリさんとの比較の上に成り立っている。これまでを具体的な事象とことばが直線で結びつく「具体世界」とすれば、4才の節を越えた時、もうひとつ(2次元)の世界、今現実には与えられていない世界を頭の中で思い描くこと、すなわち「想像」の世界を完成させる。その際、コトバこそが宇宙の果てまで認識をひろげるツールであり、この時期から、子ども(s)は、コトバによって、たくさんの人(a)とコミュニケーションし、事象(p)について認識をひろげていくことになる。したがって、ここでも、s・a・pの三項関係は、保存され認識を広げるために必須の道具となる。

 

 ただし、2次元可逆操作期以降、コトバ・人・モノは、永遠に続く直線であり、対称性は失われ、以降は対人・対物交流系における「破れ」は生じない。結果、コトバは不可逆的に獲得されることになる。そして、2次元可逆操作期の終りに「第3の新しい発達の原動力」が、変換の階層へのパスポートとして発行される。

 

 以上のことから、田中(1988)のいう10ケ月に発生した新しい発達の原動力(s・a・pの三項関係)は、次元の階層まで保存され、力を発揮していることが確認できる。(図1)

                  図1     

                                             

3.まとめ

①前述のように物理学は、自然現象を学問の対象としている。人間も、自然の一部であり、人間の発達も、物理学が明らかにしている一般法則によって説明可能である。ここでは、田中(1987)が発見した「生後第2の新しい発達の原動力」の発生を「対称性の破れ」によって説明した。

②「生後第2の新しい発達の原動力」が次の階層で発達を主導する力になっているかについて検討した。結果、10ケ月に発生した新しい力は、2次元可逆操作期まで保存され、発達を主導する力(可逆操作)の基礎になっていることが確認できる。(図1)

③以上の作業によって、連結の階層の第3段階の可逆操作の基本操作、媒介、産物は、表1のように仮定できる。

                  表1

[参考・引用]

1)加藤聡一(2017)「可逆操作の高次化における階層-段階理論」における3つの法則性の区別と連関.「人間発達研究紀要」第30号

2)小林誠(2009)ノーベル受賞記念講演~対称性の破れとは.「学術の動向」弟14号6号

3)前掲2

4)前掲2

5)嶋津峯眞監修生澤雅夫編集者代表(2003)「新版K式発達検査法」.ナカニシヤ

6)田中昌人(1988)「子どもの発達と健康教育①」.かもがわ出版

7)ウェルナー著柿崎祐一監訳(1974)「シンボルの形成」.ミネルヴァ書房

8)岡本夏木ほか監修(1994)「発達心理学辞典」.ミネルヴァ書房

9)P=ポイエ-シス~外に所産を生み出すプロセス(アリストテレス

 塚本明子(2008)「動く知フロネーミス~経験に開かれた実践知」ゆみる出版

10)前掲5

11)大村恵子(1976)発達の源泉と原動力.心理科学研究会編「児童心理学試論」.三和書房

 発達の原動力は、「そこに生ずる子どもの内的矛盾をのりこえようとしてとりくむ能動的活動である」

12)前掲5

13)前掲8

14)友永雅己(2011)松沢哲郎編「人間とは何か~チンパンジー研究から見えてきたこと」.岩波書店

15)山本真也(2011)「チンパンジーと人の共通点・相違点~社会的知性を中心に」.京都大学人文學報(2011)100 

16)ヴィゴツキ-著柴田義松訳(1979)「思考と言語」上.明治図書

 

 

階層と段階の視点⑩ 「生後第3の新しい発達の原動力」は、存在するか~「対称性の原理」による説明

「生後第3の新しい発達の原動力」は、存在するか~「対称性の原理」による説明

                                   山田優一郎(人間発達研究所会員)                    

 

 田中(1987)1)は、対称性の原理によって「生後第3の新しい発達の原動力」の発生を説明した。物理学における運動は、人間発達においては活動におきかえることができる。したがって、発達における対称性は、子どもが外の世界へ働きかける活動、すなわち可逆操作の中に存在する。ここでは、可逆操作をツールに自然界の法則「対称性の原理」による「生後第3の新しい発達の原動力」についての説明を試みる。この作業によって、これまで検討してきた可逆操作の妥当性について検証する。

 

 そもそも「対称性の『破れ』」とは何か。本日のブログから読みはじめる人のために前回ブログの導入部分の再掲からはじめる。

 

1.なぜ、対称性なのか

①すべてのものごとのはじまり、「それは対称性の破れ」

 いかにして地球の素になる物質ができたかは、物理学においてもっとも魅力的なテーマであった。長い年月の研究を経て、今、その謎がとかれつつある。概要は以下のとおり。

ーーー話しは、地球誕生のはるか前、物質誕生の1秒前にさかのぼる。ポツンと点として生まれた宇宙は、直後、超高温、超高密度のビックバンとなる。→超高温、超高密度の高いエネルギーによって、物質の素になる粒子(物質粒子)と反粒子反物質粒子)が放出された。→粒子と反粒子は、電気的な性質が逆であり、鏡に写したような動きをする。→そのため、出会うと衝突し光となって消滅する。→しかし、対生成・対消滅たったはずの粒子(物質粒子)が消滅せずに1つ残った。その確率は10億分の1と計算できる。→対なのに10億分の1の差はどこからきたのか→それを説明するのが「対称性の破れ」の法則である。ともあれ、この「破れ」が存在したおかげで、1粒の粒子から物質ができ長い年月かけて、地球が誕生し、水が生まれ、生命が誕生した。現在は、なぜ「破れ」が生ずるのかも記述できている。したがって、すべてのものごとのはじまりには、「対称性の破れ」があるとみていい。そして、対称性があるもの何らかの変換でいずれ「破れ」が生じる。

 https://www.youtube.com/watch?v=s8DgxXQf6aI

 

②対称性の破れが支える世界

 鏡の中の自分を見つけられますか?左右反対でも顔の手入れは困りません。でも鏡の中のあなたが鏡の外に出てきたら大変です。 自分に似た人間がいて腹が立つかもしれません。そんな時、ホクロのように対称でない特徴が重要になります。鏡の外の世界も、実は対称性が破れているおかげで安定して存在できるのです。

高エネルギー加速器研究機構 https://www2.kek.jp/ja/newskek/images/menubar.gif

 

 人間も自然の一部なので次のようにいうことができる。

対称性が破れ、新しい発達の原動力が発生するおかげで人間は発達できる」

 

③人間は数千年にわたって、本能的に対称性を完全性と同一視

 ーーー自然現象が、対称性を含む理論によって説明できれば、その説明はもっと満足のいくものになると考えられた。そうすれば、その理論は自然についてさらに奥深い真実を明らかにするだろう。理論そのものが、さらに信頼のおけるものになるはずである。

 レオン・レーダーマン、クリストファー・ヒル小林茂樹訳(2008)「対称性~レーダーマンが語る量子から宇宙まで」.白揚社

  

2.人間の発達におけるコトのはじまり、それは「新しい発達の原動力」

 本稿では、人間の発達におけるコトのはじまりのひとつ、「第3の新しい発達の原動力」について、自然の法則「対称性の破れ」を根拠に説明する。

 ここでは、以下の四つの物理学上の定義を使用した。「階層-段階理論」における「可逆操作」を表1に示した。物理学でいう「変換」は、子どもに対する回りからの一般的な働きかけであり、「可逆操作」は、子どもから外の世界へ働きかける活動である。

 

定義1 「対称性」2)自然法則の対称性は、ある対象に対してある変換を行った時、その自然法則が変わるか変わらないかであり、変わらない時、その法則は対称性をもっていると言う。

定義2 「対称性の破れ」3)=「対称性が壊れている」「対称ではなくなる」という意味である。

定義3 「対称性の破れ」4)=「ある対象にある変換をおこなったとき、法則が変わってしまうこと」

定義4 「並進対称性」5)=空間の並行移動という変換を行っても法則は変わらないことをいう。例)東京で実験をやろうが大阪で実験をやろうが物理の法則は同じ。

 

 ここで扱う子どもの活動は、以下のとおり。

                  表1

 

3.子どもの活動における対称性の存在と「新しい発達の原動力」の発生

 2次元可逆操作期の可逆操作は、「想像世界を認識できる力で、全体を想像しながら、部分の~をする」活動(表1)である。したがって、「全体」と「部分」がたえず対発生する。全体をA、部分をpとしたとき次のように表すことができる。       

            

①A-pの法則は、この時期、外の世界へ働きかける際の基本操作であり、4才頃に想像世界を獲得するという発達の質から導かれている故に絶えずA-pの対として現れる。したがって定義1の対称性があるといえる。

②また、A-pの法則は、室内でお絵描きをしていても、外で鬼ごっこをしていても、おうちでおばぁちゃんから、昔話しを聞いていてもかわらない。すなわち、空間移動があっても変わらない法則であるから定義4の並進対称性があるといえる。

③以上から、やがて、対称性の「破れ」によって、新しい力が発生することが予想される。すなわち、「破れ」によってA-pの法則でない別の法則が働く。

④田中(1988)6)は、5才半頃に発達の新しい力が発生するとした。

⑤研究者たちは、A(全体の想像)とp(眼前の部分)という対ではなく、全体(A)も部分(P)も(P)も一体として同水準のものとして認識できる力が6才頃までに育つことを明らかにしている。認識とは、想像ではなく「ものごとをはっきりととらえる」(「現代国語事典」三省堂)ことである。すでに標準化されている発達検査、「新版K式発達検査」7)の中に「絵の叙述(じょじゅつ)」という項目がある。「絵の叙述」は、背景と人物が描かれた「絵の内容を叙述し、表現する能力を見る」8)ためのものである。背景だけみていたら、人物が語れないし、人物が「いる」ことだけ見ていたら叙述ができない仕組みになっている。この検査は、ビネー、ゲゼル、ピアジェなどの発達理論をもとに作成9)されており、世界の研究者たちが子どもの発達をみる指標として発見し、これまで何千人、何万人という子どもに検査を実施してもなお生き残っている項目である。6才越の項目として「絵の叙述」が配置されているという事実は、子どもたちが5才半頃から6才頃までに全体(A)も部分(P)も一体として認識できる力が育つことを証明している。すなわち、「Ap」という対の法則はくずれ、ここへきて「APP」と、現実世界を一体のものとしてリアルに認識できる法則へと変化する。

 5才半~6才頃までのフェーズの変化を記号で表すと次のようになる。

  

        5才半頃~  ⇒   6才頃   

      

         対         一体                  

                      

 5才半頃からの対称性の「破れ」(「法則が変わってしまうこと」定義3)は、図1のようになる。

                       図1

                     A=全体 p=部分    

                     

4.田中(1987)は、5才半頃に発生する新しい力を「第3の新しい発達の原動力」とした。発達の原動力には、「そこに生ずる子どもの内的矛盾をのりこえようとしてとりくむ能動的活動」10)というすでによく知られた定義が存在する。したがって、先に定義されている意味と異なる意味に使う時は、使う側に説明責任が生じる。そうでないとよく知られた定義どおりに理解する他者とのコミュニケーションが成立しないからである。

 以下検討する発達の原動力は、上記、子どもが外の世界との関係で生じる原動力ではなく、子どもの個体内部で次への発展を引き起こす原動力のことである。

 生後第3の新しい発達の原動力について本ブログでの説明は、以下のとおりである。

 

 ①生後第3の新しい発達の原動力は5才半頃から発生する。➁生後第3の新しい発達の原動力は、3次元可逆操作への移行をひきおこす。③3次元可逆操作期において、新しい交流の手段(「書き言葉」)が獲得される。④新しい交流の手段は、次の階層において「発達を主導」(「理論」P79)する。

 なぜ「新しい」がつくのか。新しい発達の原動力がひきおこす、各層第3の段階において「新しい」交流の手段が獲得されるからである。そして、新しい交流の手段は、次の階層で発達を主導する。

 「新しい」がつく発達の原動力は、成人までの間に4回発生することが田中によって発見されている。

 

 果たして、5才半頃から獲得される新しい力、「全体も部分も認識できる」力は、変換の層まで保存されて、発達を主導することになっているのだろうか。以下検証する。

 

①6・7才頃からはじまる3次元可逆操作期の子どもは、書きことばによって、3次元現実世界への認識を深めていく(表1「可逆操作」)時期であった。

 

「書きことばは、書く前にあるいは書いている過程であらかじめ頭の中に書きたいことがあれこれと浮かんでいることを前提にしている」(ヴィゴツキ2017)11)

 

 したがって、書きことばは、たとえば、「みかん」の形全体も、色や味、つまり部分も認識できる力がないと「みかん」という文字を獲得できないといえる。なぜなら、全体の形だけならたまごだってリンゴだって同じ〇(マル)であり、現実の「みかん」を「あらかじめ思い浮かべること」ができないことになるからである。

 

 現在、日本において読み書き、計算をはじめる年令は、北海道でも、東京でも大阪でも九州でも6・7才。世界の多くの国々においても義務教育の開始は6・7才である。すなわち「全体も部分も認識できる」力は、「空間の並行移動という変換を行っても法則は変わらない」(定義4)のであり、この時期の子どもたちには「全体も部分も認識できる」力が、並進対称性をもって存在しているといえる。しかし、対称性があるもの、子どもの活動(=運動)によって、いずれは「破れ」次の法則へと変化する。 

 

②9・10才頃からはじまる1次変換可逆操作期は、「事象の共通を抜き出して、新しいことばに変換」(表1「可逆操作」)していく時期である。ものごとの部分の本質的でないものを捨て去り、本質となる部分を共通項でくくり科学的概念を獲得していく。きゅうりとナスは「野菜」である。「なぜなら・・畑でとれる食べるものだから」と、形や色を捨て去り、食べ物という本質部分の共通でくくり「野菜」(概念)ということば(C)を獲得していく。したがって、「全体も部分も認識できる」力は、1次変換可逆操作期においても保存され、力を発揮しているといえる。だからこそ、子どもたちは、きゅうりやナスと形(全体)は、まるでちがう、かぼちゃも白菜も本質(部分)で認識して「野菜」の仲間にいれることができる。そして、「事象の共通を抜き出して、新しいことばに変換」していく思考は空間を選ばず、どこでも、同じ法則で働く思考なので並進対称性をもって存在している。しかし、ここでも、子どもの活動によって対称性があるものいずれ「破れ」、次の法則へと変化する。 

 

③12・3才頃からはじまる2次変換可逆操作期は、「『なぜ』を繰り返して」(表1「可逆操作」)二重に抽象化された概念(ことば)を理解していく時期である。たとえば、朝顔とひまわりは「花」である。「なぜなら(1回目)・・・」、部分の共通を抜き出し→「花をさかせるから」。

 花と樹木は「植物」である。「なぜなら(2回目)」と両者の部分を抜き出し→「両方とも根があるから」。こうして、「なぜなら・・」をくり返しながら、共通部分を見つけ、より抽象度の高い概念(ことば)、「植物」(C2)を自分のものにしていく。したがって、ここでも「全体も部分も認識できる」力は保存され、力を発揮している。

 

 ただし、2次変換可逆操作活動の結果として得られる産物(C2)は、もはや、本質(部分)の集まりであり、全体が本質(部分)となり、本質(部分)が全体となる。したがって、対称性が失われ、以後、全体-部分系における「破れ」は必要とせず、C2(二重に抽象化された概念)を形成する力は、不可逆的に生涯にわたって維持されることになる。

 

 みてきたように5才半頃から発生する発達の新しい力(「全体も部分も認識できる」)は、2次変換可逆操作期まで保存され、可逆操作を発揮する素(もと)になっている。以上をまとめると図2のようになる。

 そして、可逆操作こそ発達を主導する力であるから、5才半頃から発生する発達の新しい力は、次の階層において「発達を主導」(「理論」P79)しているといえる。

                 図2

5.まとめ

①前述のように物理学は、自然現象を学問の対象としている。人間も、自然の一部であり、人間の発達も、物理学が明らかにしている一般法則によって説明可能である。ここでは、田中(1987)が発見した「生後第3の新しい発達の原動力」の発生とその役割を「対称性の破れ」によって説明することを試みた。

②今回の検討によって、「生後第3の新しい発達の原動力」(5才半頃~)は、2次変換可逆操作期まで保存され、階層間にまたがって力を発揮していることが確認できた。田中(1988)は5才半頃に発生する新しい力を「理(ことわり)をしりそめていく力」としたが、言い得て妙。新しい発達の原動力は、論理的思考、まさに、「理(ことわり)」へのパスポートになる力であった。

③「破れ」が生じないと次の認識・思考の段階へ移行できないのであるから、「破れ」は移行期に発生する。「ある対象にある変換をおこなったとき、法則が変わってしまうこと」(定義3)が「破れ」の定義であり、ここでいう変換は、今受けている働きかけのことである。したがって、昨日も今日も同じ暮らしの中で次の段階の法則で働く認識や思考の活動が出てきたら「破れ」がおきているのであり移行期だといえる。「対称性が変化する時は、見えない内部・深部で何かがおこっていることを示している」(加藤2017)13)からである。

④「破れ」が発生するのは移行期ということがわかれば、障害児の教育実践は、なぜ「破れ」が生じないかを考えることができる。私たちの仕事は、自然界の法則にしたがい、表1の可逆操作を各段階で発揮できるようにすることである。いわゆる「発達保障論」生成期の「教室でできたことを舞台でも」「体育の時間にできたことを運動会でも」「音楽の時間にできたことを教室でも」「学校でできたことを家庭でも」・・・と、今できることを充実させていくためのスローガンは、人間の本性に則ったものだったといえる。今、そこにある力を把握し、今そこにある力が発揮できない状況にある時、その原因をさぐり、どうしたら力を発揮できるのか、子どもの声を聞きながら、子どもといっしょに活動をつくりあげることによって、教育実践は、可逆操作の発揮へ正面から向きあうことができる。

⑤本ブログでは、「変換」「次元」の可逆操作について検討してきたが、対称性は、子どもが外の世界へ働きかける活動、すなわち可逆操作の基本操作、媒介、産物のなかに存在していた。結果、この夏に検討してきた可逆操作(表1)は、自然界の法則によって発達を説明する際にも有効性をもつものと思われた。

 

[参考・引用]

1)田中昌人(1987)「人間発達の理論」.青木書店

2)小林誠(2009)ノーベル受賞記念講演~対称性の破れとは.「学術の動向」第14号6号

3)前掲2

4)「デジタル大辞泉」(小学館

5)前掲2)

6)田中昌人(1988)「子どもの発達と健康教育①」.かもがわ出版

7)嶋津峯眞監修生澤雅夫編集者代表(2003)「新版K式発達検査法」.ナカニシヤ

8)前掲7)

9)前掲7)

10)大村恵子(1976)発達の源泉と原動力.心理科学研究会編「児童心理学試論」三和書房

 発達の原動力は、「そこに生ずる子どもの内的矛盾をのりこえようとしてとりくむ能動的活動」

11)中村和夫(2017)「ヴィゴツキ-心理学」新読書社.

12)加藤聡一(2017)「可逆操作の高次化における階層-段階理論」における3つの法則性の区別と連関.「人間発達研究紀要」第30号

13)前掲12)

 

 

階層と段階の視点⑨ 自然界の法則「対称性の原理」によって「自制心」の誕生は説明できるか

          対称性の原理によって、

   「自制心」の誕生を説明してみた

                       山田優一郎(人間発達研究所会員)

 物理学は、自然現象を学問の対象としている。人間も、自然の一部であり、物理学が明らかにしている一般法則によって、人間の発達も説明可能である。

 

1.すべてのものごとのはじまり、「それは対称性の破れ」
 いかにして地球の素になる物質ができたかは、物理学においてもっとも魅力的なテーマであった。長い年月の研究を経て、今、その謎がとかれつつある。概要は以下のとおり。

 

 話しは、地球誕生のはるか前、物質誕生の1秒前にさかのぼる。ポツンと点として生まれた宇宙は、直後、超高温、超高密度のビックバンとなる。→超高温、超高密度の高いエネルギーによって、物質の素になる粒子(物質粒子)と反粒子反物質粒子)が放出された。→粒子と反粒子は、電気的な性質が逆であり、鏡に写したような動きをする。→そのため、出会うと衝突し光となって消滅する。→しかし、対生成・対消滅だったはずの粒子(物質粒子)が消滅せずに1つ残った。その確率は10億分の1と計算できる。→対なのに10億分の1の差はどこからきたのか→それを説明するのが「対称性の破れ」の法則である。ともあれ、この「破れ」が存在したおかげで、長い年月かけて、地球が誕生し、水が生まれ、生命が誕生した。現在は、なぜ「破れ」が生ずるのかも記述できている。したがって、すべてのものごとのはじまりには、「対称性の破れ」があるとみていい。つまり、対称性があるもの何らかの変換でいずれ「破れ」が生じる。
https://www.youtube.com/watch?v=s8DgxXQf6aI
 
2.田中(1987)1)は、「人間発達の理論」において対称性原理によって「自制心」の生成を説明した。しかし、「可逆操作」も「対称性」も、その「破れ」についても定義の紹介がなく、超難解なものになっている。(詳細は、本ブログ 田中昌人「人間発達の理論」における対称性の原理について(1)(2)

 

 ところで、物理学における運動は、人間発達において活動におきかえることができる。したがって、発達における対称性は、子どもが外の世界へ働きかける活動、すなわち可逆操作の中に存在する。私たちがこれまで検討してきた可逆操作を図1に示した。さて、図1に示した「階層-段階理論」の中心概念、可逆操作は、自然界の法則によって発達を説明する際に有効な概念として使えるのであろうか。以下(⑨⑩⑪⑫)検証する。また、この作業によっていくつかの実践的知見が得られたので報告する。

 

 ここでは、三つの物理学上の定義を使用した。物理学でいう「変換」は、子どもに対する回りからの一般的な働きかけであり、「可逆操作」は、子どもから外の世界へ働きかける活動であった。 

 

定義1 「対称性」2)自然法則の対称性は、ある対象に対してある変換を行った時、その自然法則が変わるか変わらないかであり、変わらない時、その法則は対称性をもっていると言う。
定義2 「対称性の破れ」3)=「対称性が壊れている」「対称ではなくなる」という意味である。
定義3 「並進対称性」4)=空間の並行移動という変換を行っても法則は変わらないことをいう。例)東京で実験をやろうが大阪で実験をやろうが物理の法則は同じ。

 ここで扱う子どもの活動は、以下のとおり。
                 図1

 

3.「自制心」の誕生
 人間には2回の反抗期とよばれる時期がある。反抗期は、英語でもドイツ語でも訳されているので、世界の子どもたちに存在する。その第1期は、幼児期に訪れ、1才から3才頃まで続くとされている。5)この時期の子どもたちは、NO!-YESの選択世界に生きている。
 NO!が、先にくるのは、自我の誕生によってNO!を選択する局面が多いからである。田中(1987)がいうように「第1反抗期」は自我の拡大・充実6)真っ最中である。そこからいかにして自制心が生まれてくるのか、その謎を自然界の法則で説明するのが本稿の目的である。

 前述のようにこれまでの研究は、「第1反抗期」をおよそ、3才頃までとしている。なぜ4才頃から、反抗を抑制する自制心が育ってくるのか記述される必要がある。その謎解きをすることによって、私たちは子育て、保育、教育の極意を知ることができるからである。
 
 この時期の子どもの活動は、図1の「1次元可逆操作」である。人はこの活動によって外の世界へ働きかけ自らを発達させる産物を取り込む。大人たちとの交流において「第1反抗期」の子どもたちは常にNO!-YESの対対称の世界にいる。この法則は、空間を移動させてもかわらない。だからこその「反抗期」であるから、保育園でもおばあちゃんの家でも電車の中で「NO!」なのである。したがって、対称性の態様は、定義3の並進対称性だと位置づけることができる。

 さて、前述のとおり、物理学は対称性のあるものいずれ「破れ」が生じることを証明してきた。幼児期の子どもたちは、NO!を選択してもYESを選択しても、1次元可逆操作期の媒介となる活動、「大人との交流」は活発におこなわれている。そこでは並進対称性をもった活動、すなわち、物理学における運動が激しく繰り返されている。したがって、やがて、〈NO!-YES〉の対称性は「破れ」、「イヤダケレドモ~スル」〈N f:id:sirayurinohana:20211004111819p:plainY〉場面(田中1988)が登場する。つまり、対称性が壊れる。(定義2)こうして、自制心の誕生は、対称性の「破れ」として説明できる。(図2)
                

                図2

 4才の節への移行期に誕生した自制心、新しい法則〈N f:id:sirayurinohana:20211004111819p:plainY〉は、次の段階で充実する。すなわち、「イヤダケレドモ~スル」の充実期こそが4才頃からはじまる2次元可逆操作期なのである。だから、世界の人たちは第1反抗期を「3才頃まで」とした。ここまでの自然の法則は、アメリカの人も、フランスの人もエジプトの人も、そして、基本的には障害をもつ人たちもかわらない。自然界の法則による「破れ」であるから当然のことである。

 

 天保10年(1840年)、日本において小川保麿(やすまろ)の「養育往来」7)が出版されている。今でいう子育ての教訓書である。そこには、「善悪は4才から教えなさい」と江戸の人たちに教えている。江戸の人々は、経験的に「対称性の破れ」という自然の法則に則り子育てをしていたことになる。

 

4.それにしても、イヤ、イヤを連続して繰り出す子どもの子育て(以下保育、教育含む)は大変である。しかし、ここまでの自然の法則を知った私たちは、イヤ、イヤの内実を知ることができる。自然の法則を知ることは、子育てにゆとりをもたらす。

 

⑴イヤ、イヤを繰り出す局面というのは、大人と交流している局面である。図1のとおり、この時期の子どもは、大人との交流によって、発達の糧をとり入れる。(「1次元可逆操作」)
「くつ、はこう」「イヤ!」
 この時、「あっ、この子は今日も発達しようとしている」と、みることができれば、きっと、だだをこねている子を抱きしめたくなるはずである。

 

⑵田中は、この時期「二つの重みの一方に自我を関与させて選びとっていく」活動を提案した。具体的には次のようなことである。8)
―――肋木(ろくぼく)の高いところに登っていく幼児。「そんなところへあがって危ない。降りなさい」(母)
 ところが、子どもは「イヤ!」。さて、どうするか。
―――「お母さんと手をつないで降りるの?自分で降りるの?」
 つまり、物事を自分で決めさせていく活動のことである。 

 

「くつした、はいて」「イヤ!」
 →二つのくつしたを用意して「どっち はく?」
「おふろはいろう」「イヤ!」
 →「きょうは、どの子といっしょに入る?アヒルさん?カエルさん?」 
 
 これで子どもの自我を育てながら、うまくコトを運ぶことができる。ただし、いつも成功するとは限らない。私たちの提示が、子どもからみたら、ふたつとも、嫌いなものであったり、比べようがないものであったりするからである。私の経験では成功率6割くらい。ただ、すっと成功したときは、快感となってクセになる。

 

⑶長い間、1次元可逆操作期に留まっている障害児は、イヤ、イヤ期も長くなる。しかし、自制心誕生の自然法則を知った私たちは、①イヤ、イヤにも意義があることがわかる。すなわち、1次元可逆操作における新しいことばを獲得するための活動、「大人との交流」という意義である。②自制心は、対称性の「破れ」という自然界の法則によって誕生するのであり、体罰や脅しや強要では育たないことも知ることができる。③そして、自然の法則にしたがい1次元の活動を豊かに膨らませることこそが「イヤ、イヤ期」に最も大切なことだとわかる。
 
 けっきょく、加藤(2018)9)がいうように、「もう、獲得されている可逆操作が、もうその力をあるけれど、発揮する機会がないところに働きかけることが教育の基本」なのである。

 

⑷1次元可逆操作期において、新しいことば(産物)を獲得するためには媒介となる「大人との交流」が必要条件となる。(図1)「大人との交流」がうまくいかない時、なぜうまくいかないかを考え、そこに手を当てることが必要となる。ことばは認識できているのにコミュニケーション手段が獲得されていない場合は、コミュニケーション手段の獲得が課題となる。一語文を持っているのに広がらない場合は、大人との交流がひろがる生活や学習をつくりだすことが必要となる。それぞれ、子どもが立ち止まっている原因に目を当て、手を当てることこそ障害児教育の神髄だといえる。

 

⑸「自制心」が育つ前の子どもたちの「結果として、がんばる」活動をどう引き出すか。私たちが1985年の全障研職場サークルでまとめた事例10)は、下記のとおり。
 事例①自己主張ができる力を生かして選択させる。事例②見通しがあれば、結果としてがんばれる。事例③少しの努力でできる教材を準備する。事例④補助具の効果で結果として、がんばれた。事例⑤遊び相手になって、結果として1.5㌔を、笑いながら完走。事例⑥「・・・・のつもりで」、結果として、がんばれた。

 

まとめ
 子どもに活動がある限り、いずれ「破れ」が生じて自制心が誕生する。永遠に続く今ではないことがわかれば、気持ちにゆとりが出てくる。田中(1984)11)は、自制心を育てていく発達的前提として、2才前半の自我の充実は、必要不可欠としている。充分「イヤ!」をいわせることである。「イヤ」の数だけ、大人との交流は生じているから発達の糧はとり入れられている。「今日は、この手でいこう」「あの手はどうか」と、「イヤ」を起点にして交流を楽しむことである。その栄養が、いずれ「破れ」を作り、「イヤダケレドモ~スル」(田中1988)場面を登場させる。イヤ、イヤの嵐は自然界の法則にしたがって、次の節ではおさまる。
 対称性の「破れ」という法則は、嵐がいずれやむことを教えている。

 

[参考・引用]
1)田中昌人(1987)「人間発達の理論」青木書店
2)小林誠(2009)ノーベル受賞記念講演「対称性の破れとは」「学術の動向」弟14号6号 
3)前掲2)
4)前掲2) 
5)「発達心理学辞典」ミネルヴァ書房
6)前掲1)
7)小泉吉永(2007)「江戸の子育て十ケ条」.柏書房
8)田中昌人・田中杉恵(1984)「子どもの発達と診断3.幼児期Ⅰ」.大月書店
9)加藤聡一(2018)「可逆操作の高次化における階層-段階」理論は、学校教育にどう向き合うか(2)「人間発達研究所通信」Vol.34(3)
10)山田優一郎・國本真吾(2019)「障害児学習実践記録~知的障害児・自閉症児の発話とコトバ」.合同出版
11)前掲8)

参照動画

#障害児 #支援 #教育 #方法 君のがんばる先に希望はあるか。 - YouTube