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3次元可逆操作
「基本操作」と「媒介」及び「産物」
山田優一郎(人間発達研究所会員)
次元のの階層(幼児期)は、1次元→2次元→3次元と認識できる世界をひろげていく階層でした。「大きい・小さい」から始まったふたつの世界は、4才の節を越えて眼前の世界ともうひとつ世界、見えない世界(想像世界)を認識できるようになります。
ふたつ(「対」)の世界のあとに待っているのは、「対」の間をうめる認識の広がりです。私たちの住む現実社会は「対」の間にすべて中間が存在し、いわばグラデ-ションなのです。グラデ-ションは、並びつながる系列社会です。ここへきてはじめて本当は並びつながっている現実社会(3次元)を認識できるようになります。物とことば(一語文)がヨコ線で結びつく1次元、タテ(想像)が加わり面となり2次元、そして3次元では奥行きが加わり、私たちが住んでいるリアルな現実世界へと認識をひろげていきます。私たちが住んでいる現実世界には、時間が流れており、時の流れを意識して生活できるようになります。
~と~を準備して学校へ、1時間目は~、2時間目は~。「昨日」の宿題、「明日」の遠足もわかります。そして、今まで無意識に数えてきた「イチ、ニ、サン、シ」の中間を取り出し、「1」「2」「3」「4」と記号にします。さらに2+3=5と中間を「自覚的で随意的」(ヴィゴツキ-)1)に操作するのです。随意的にというのは、思いのまま操作できるということです。今まで無意識におしゃべりしてきたことば「えんぴつ」(音節)の中間を意識しながら「え・ん・ぴ・つ」と書くこともできます。つまりは、学校生活と教科学習の始まりの時期です。
以後、ならびつながる系列、その中間を操作して獲得される文字や数字などの記号、すなわち、「書きことば」を駆使してリアルな現実世界を認識していきます。
その仕組みは次のとおりです。
「頭の中で書きたいことの展開は、まさに内言によって行われる」(ヴィゴツキ-2017)
内言とは何か。「心の中の発話のことであり、意味処理の機能」をもち、「内言は広範な意味連想」(「発達心理学事典」ミネルヴァ書房)を起こします。
つまり、書く時には、意味を考えるのです。人間は「書いて考える。書くことによって考える」2)作業をします。
「書きことばは、書く前にあるいは書いている過程であらかじめ頭の中に書きたいことがあれこれと浮かんでいることを前提にしている」(ヴィゴツキ-2017)
まずは、書く前に「みかん」ということば全体を頭に思い浮かべます。その次に「み・か・ん」とことばの部分を書いていきます。自分との対話なので、思い浮かべる段階で「みかん」の意味を意識します。「みかん」と書きたいのに「りんご」を思い浮かべる人はいません。同じ丸いものでも、「りんご」でもなく「たまご」でもない「みかん」の意味、つまり、すっぱい味を思い浮べしながら「み・か・ん」と書くのです。
したがって、書き言葉の学習過程は、普段何げなく聞いていることば、何げなくみているものごとの意味、いわば中味考えていく連続だといえます。
結果、書きことばの学習は、今まで無意識に見たり聞いたりしていた現実社会(3次元世界)への認識をひろげていくことになります。
このように書きことばは、「あらかじめ全体を想像して、部分の~をする」力を前提にしています。けっきょく、読み書きの修得は、2次元可逆操作期における「森(全体)を見て、木(部分)も見る」力がないとできない相談なのです。この視点からも、江戸時代の寺小屋は、見事な眼力でした。
まとめ
6・7才からは、次の力によって、3次元「現実世界」をよりリアルに認識していきます。。
1.ことばの意識化
「みかん」ということばの中間を「み・か・ん」と一文字ずつに分解してかきます。「りんご」も同じように一文字ずつ「り・ん・ご」とかきます。その時、日頃何げなく見たり、聞いたりしていた「りんご」と「みかん」の意味を考えます。なぜなら、「話しことばでは無意識に行っていることを・・・書き言葉では意識的」(ヴィゴツキ-2017)に行う必要があるからです。
2.数の見える化
数字は、日頃何げなく「イチ」「ニ」「サン」「シ」と唱えていたことばを見える化します。そして、「イチ」と「ゴ」の間の中間を、2+3 4-1と計算します。すなわち、系列の中間を理解し、操れるようになるのです。
3.時間の見える化
「ろくじにおきる」「しちじのニュ-ス」「はちじにはおふろ」。毎日何げなく、流れている時間を文字(数字)は見える化します。「1じかんめ こくご 」という字が読めたら「1じかんめ」は、流れずに、ずっとそこにあっていつでも確かめることができます。
このように文字は、「時間を可視化」3)(内田2020)します。なので、子どもたちは、文字の獲得によって時間を頭の中で操れるようになります。
以上のことから、6・7才からの可逆操作は次のように考えることができます。
①系列・中間、時間を認識できる力で②書きことばを学習することによって②3次元、現実世界への認識を深めていきます。そして、①が②と③の間で可逆し、②の学習によって③が深まり、③の深まりによって、さらに②の学習範囲をひろげます。
注
1)中村和夫(2017)「ヴィゴツキ-心理学」新読書社.P37
2)大江健三郎(2007)「『話して考える』と『書いて考える』」集英社文庫
資料
(ブログ階層と段階の視点③「1次変換」から再掲)
旧ソ連において社会主義革命が進みつつあった時代、ウズベキスタンにおいては、イスラム教の伝統的因習の下でその大部分は読み書きができませんでした。しかし、革命後、経済的・文化的な向上がもたらされる。結果、この地域においては
①読み書きができず新しい社会生活の形態にも参加していないグループ゜
②短期の講習を受けて多少の読み書きができる程度のグループ
③職業技術学校において、2~3年の教育を受け読み書きができるつグループ
が併存する状態になりました。
ヴィゴツキ-の発案・計画によって、この地域の調査にあたったのはルーリアでした。1)ルーリアは、これらの住民を被験者にして、知覚・抽象的概念・推論・自己意識などについて実験的調査を行いました。
結論は、以下のとおりです。
①の読み書きができないグループの思考の特徴として「抽象的な一般化された論理的思考ができないこと」
③のグループは、逆の結論になり②のグループには両者が混在していました。
つまり、読み書きができないと「なぜならば・・・」と考える論理的思考ができないという調査結果になっています。
1)中村和夫(2017)「ヴィゴツキ-心理学」新読書社
資料
(ブログ「田中昌人著『人間発達の科学』における矛盾について補足」から再掲)
前段階の古い交流(交通)の手段は、「桎梏」(しっこく)になるのか
「階層-段階理論」では、次のように説明する。
「子どもが以前に獲得したその(前段階の古い)『交通の手段』を用いるだけでは、自分自身の力をのばしていくことはできない。その意味で『桎梏』となる」
桎梏(しっこく)とは、「自由な行動を妨げるもの.束縛」(「現代国語辞典」.三省堂)のことである。たとえば、書き言葉(文字など)獲得期において「(前段階の古い)交通の手段」、ことばは「桎梏」になるという。
さて、そのような現実はあるのだろうか。
世界の多くの国々で義務教育の始まりは6・7才である。世界の各地で書き言葉は、教育によってこの時期に獲得される。
小学校1年生の授業風景はどうだろう。小学校2年生の授業風景はどうだろうか。先生と児童のことばのやりとりは、書き言葉獲得の「桎梏」になるのだろうか。現実をみれば、書き言葉の獲得にとって、ことばは、「桎梏」どころか必要不可欠なものだということがすぐわかる。
以下は、群馬県教育委員会が提供している小1、「ひらがなをかこう」2時間目の授業紹介である。1)
「きょうは、ひらがなを書こう、ということで勉強していきたいと思います。」
「ぜんかいは、あ、い、う、え、お の読み方について勉強しましたね。
そして、鉛筆のもち方、姿勢、そしていろいろな線を書きました。きょうは、いよいよひらがなをかきます。」
「今日勉強したいひらがなは、(文字を示して)、て、く、つ、の三文字です。
それでは、さっそく書いてみましょう。」
(黒板を指さして)「このような四つの四角があることに気づきますね。このことを1の部屋2の部屋、3の部屋4の部屋というような言い方をします。それではさっそく て の字を書いてみたいと思います。て の字は1の部屋からスタートします。1の部屋から右上にあがるように書き、中心の線のところをとおり、最後、こうして とめます。」
「みなさん、書いてみましょう。」
(書けるのを待ってから)
「どうですか?(まちがいの手本を書いて)このような て の字を書いている人はいませんか?」
ここで、「先生、これでいいですか?」と自分のノートを見せる子がいるかもしれない。字を書き始めたばかりの子どもたちは、ボクもボクもと次々、先生にみてもらいたがる。まちがいを指摘されたいからではなく、誉めてもらいたいからである。
もう、これで、書き言葉の獲得には、ことばを理解し、ことばを発することが必要不可欠だということがわかる。おそらく、寺子屋の「手習い」から学校教育の「授業」まで、昔も今も書き言葉の獲得期にことばのやりとりなしでは、文字の学習は進まなかったのではないだろうか。
大人のように読み書きができるようになりたいというのは、子どもの内からわきおこる自然の摂理である。ところがその時、「ことばを用いるだけでは、自分自身の力を伸ばしていくことはできない」と感じる子どもはいるのだろうか。逆である。みてきたように子どもたちは、まだことばを必要としている。
この局面におけることば「桎梏」論は、子どもたちの現実(自然)を反映していない。以下、なぜ、こんな結果になったのかをみていく。
「内」「外」矛盾の対比図
田中は図右「外部(関係)の矛盾」も「内部矛盾」(「科学」P181)とした。それには、時代的な背景があってのことであった。3)
結果、図の「間柄」4)のところに能力である「ことばの段階」をいれることになる。これで、書きことばの段階への発展が説明できるからである。
すると、どうなるか。
①対立物は、日々進歩する能力と日々進歩する能力になり、矛盾はおこらない。したがって、発達はしないことになる。
②図右で示しているように「外部(関係)の矛盾」における矛盾の拡大は、可逆操作力と可逆操作関係の矛盾の拡大である。そして、「間柄」のところにいれたことばの活動は、固定する傾向をもつことになる。そうでないと日々進歩する「力」との矛盾が生じないからである。つまり、ことばの量的拡大はすすまないことによってのみ、「力」との矛盾が拡大する。
③さらに桎梏の対象になるのは、2次元可逆操作期における人と人との関係であり能力ではない。発達における能力は、一度獲得したら不可逆的に獲得される。弁証法では、図右で示されているように大切に育ってきた能力は、桎梏の対象にならない仕組みになっている。桎梏になるのは、関係(間柄)である。
④上の図でわかるように笑顔、喃語、ことばなど交流の手段は、日々進歩していく能力であり、「間柄」のところにいれることはできない。それはなぜか。能力は、「ものごとを成し遂げることのできる力」5)であり、立場の違いとして示される関係(間柄)ではないからである。「おはしをもてる間柄」「歩ける間柄」「ことばを話せる間柄」などという日本語は存在しない。なぜなら、おはしを使えるのも、歩けるのも、ことばが話せるのも「ものごとを成し遂げることのできる力」(=能力)だからである。
⑤同じ理由で書き言葉も、世界の子どもたちが同じ年令期に獲得する能力であり、字がかける関係(間柄)ではない。「書き言葉の段階」として表現される能力である。
自然を試金石とする弁証法の核心部分のまちがいは、子どもの現実(自然)と大きくかけ離れた結果を導く。その結果が、ことば=「桎梏」だったといえる。6)
おわりに
みてきたように関係(「間柄」)のところに「能力」をいれざるを得なかったのは、「内」と「外」の誤認からくる必然的なものだった。そして、それは時代的な背景があってのことだった。
きっと、「階層-段階理論」は、田中が生きた時代の時代的制約を乗り越えることができる。ことばから書き言葉への移行も、田中自身が「科学」第1章で説明してきたもうひとつの「必須矛盾」(図左)7)によって説明可能だと思われるからである。
1)YouTube授業「ひらがなをかこう(2)」国語/小1 群馬県
2)エンゲルス著、寺沢恒信訳(1970)「空想から科学へ」.大月書店
3)本ブログ
4)「関係」は=「間柄」と同義である。(「現代国語辞典」.三省堂)
5)前掲4)
6)但し、田中自身は少なくとも下記論文以降、交流(交通)の手段を「関係(間柄)」から「能力」へと修正したものと思われる
田中昌人(1985)「発達における階層間の移行についてⅢ~次元可逆操作の段階から変換可逆操作の階層へ」.京都大学教育学部紀要31号P50
7)「当該可逆操作の操作変数をもうひとつ増やしたものを発達にとっての必須矛盾として・・たとえば、1次元可逆操作の獲得期には2次元の、2次元の可逆操作の獲得期には3次元の、3次元可逆操作の獲得期には、1次変換の・・・ふさわしいとりいれかたをして運動・実践を産出する」田中昌人(1980)「発達の科学」.青木書店.P155~156