発達保障をめざす理論と実践応援プロジェクト

実践現場で働いている方たちを念頭に書き綴ります。間違いに気付いた時に修正・削除できるようブログでのみ公開。資料は自由にお使いください。

階層と段階の視点① 発達の階層、段階という視点(はじめに)

     発達の階層、段階という視点     

                    

                     山田優一郎(人間発達研究所会員)

はじめに

 

「人間社会のありとあらゆるところには、自然発生的あるいは人為的な階層構造が形成されている。この社会の階層構造と同じように生物・非生物を問わず自然界にも自発的に形成される階層構造が多く存在している。」坂口秀、草野完也、末次大輔(2008)1)

 

 歴史をひもとくと、人々は昔から人間が子どもから大人へと育っていく間にいくつかの節目があることに気付いていたことがわかります。元服の始まりは、奈良時代。室井(2011)2)は、 全国調査によって15歳前後の若者に対していわゆる現代版「元服」が昭和の時代まで日本各地に存在していたことを明らかにしています。そして、「元服」を機に青年団などへの加入が許可され、大人社会への参加が認められてきたのです。今でも、義務教育を終え社会で働くことが許される年令は、15、16才です。そして、中学校の始まりも、100年以上も前3)から、現在も12、13才。さらに江戸時代、寺子屋への入門は早くて6・7才4)5)でした。今の小学校入学と同じ年齢です。

 赤ちゃんの「人見知り」が始まり、親が「申し訳ない」という素振りをみせると、回りが「賢い証拠」となぐさめ、1才半頃6)から「イヤ、イヤ」が激しくなると、「3才になったらおさまるから」と励まし、(反抗のおさまりをまって)日本においては、江戸時代から「善悪は4才から教えなさい」7)と、若い母親たちを手引きしてきました。

 

 人間も自然の一部ですから、大人になるまでにいくつかの節目があり階層構造になっていることを人々がなんとなく気付いていたとしても不思議ではありません。しかし、なんとなくわかっていることでも、論理的に説明できないと本当のことにはなりません。アインシュタインは晩年次のように述懐しています。8)

「なんとなくわかるが、説明できないという真実を追い求めて、暗闇の中で手さぐりするような探求の年月」

 こうした人たちの努力のおかげで、私たちは人類の知恵として真実、すなわち「本当のこと」を手にすることができています。日本において、人々がなんとなくわかっていたと思われる人間発達の階層構造を子どもの観察と客観的なデータによって論理的に説明し、発達の「本当のこと」を追い続けた研究者がいます。そのひとりが京都大学の田中昌人(1932~2005)でした。

 田中が明らかにした人間発達における階層構造は、次のとおりです。

            表1

 大きな階層の中に三つの段階が存在します。よくわからない用語が並び、何が何だか・・・ですよね。人々が昔から、子の育ちの節目を大切にしてきたように節目を乗り越えることは、どの子にとっても一定の困難さをともなっています。だからこそ、私たちの社会は、その困難さを乗り越えた年齢を節目として大切にしてきたといえます。人間も自然界の一部ですから、障害を持つ子どもたちも、人として同じすじ道(表1)のどこかの階層,段階にいます。本人が怠けているわけではありません。親の育て方が悪いのでもありません。障害のある子どもたちは、誰にでも存在するどこかの階層、段階の前で障害のために育ちにくさを抱えている子どもたちだということができます。したがって、支援にあたって人間発達の階層構造を理解しておくことは、「今、この子は何が必要な時期なのか」(今の実践が、自然の法則に合致しているのか)を知ることであり、大切なことです。

 しかしながら、実際のところ、田中の上記階層構造の説明は、とても難解で働いている人たちが仕事の合間に勉強して、実践に生かせるようになるのには相当な困難さがあるのです。

 一方、どんな理論でもそれを現場で活用するためには、理論そのものとは別に実践で使うための独自の考え方や技術を必要としています。たとえば、IPS細胞が「本当のこと」として証明されたとしても、その「本当のこと」を新しい網膜、心臓、骨としてどう医療現場で活用していくのか、それぞれに独自の考え方や新しい技術が必要でした。今でもIPS細胞を人間のために生かしていくための研究と実践が各分野で続けられています。

 

 本ブログは、田中が明らかにした人間発達の階層構造を障害児の保育、教育、療育、子育ての現場で活用するためのものです。田中の理論そのものは、次の書籍を参考にしてください。

 

 田中昌人(1980)「人間発達の科学」青木書店

 田中昌人(1987)「人間発達の理論」青木書店 

 

1. 田中のいわゆる「階層-段階理論」(「可逆操作の高次化における階層-段階理論」)は、文字通り「可逆操作」を用いて、階層・段階の区切り(茂木1978)としています。9)

 しかし、やっかいなことに階層・段階を説明するための中心概念、「可逆操作」とはどのようなものか、どうしたらわかるのか、いわば理論の肝を理解することが難しいのです。「可逆操作」のわかりにくさは、私の所属する研究会(「全国障害者問題研究会」)でも議論になり、後に田中の後を引き継ぎ、同研究会の委員長となる茂木俊彦(1978)は、次のように指摘しました。

(「可逆操作」と「中核機制」について)「用語が難しいとよく言われるのは、概念規定が不明確で、コミュニケーション可能な内容をもって説明されていないことが主な原因」

 

 本ブログは、「可逆操作」について、実践に関わる人たちが職場で「コミュニケーション可能」なものになるような説明を試みたものです。

 

2.では、田中はどんな説明をしてきたのでしょう。

 以下、実践現場の教師たちを対象にした講演録「健康教育」シリ-ズ10)から田中の具体的な説明を抜き出してみます。次のとおりです。

 

 「幼児期は、『次元』という基本単位をもって『可逆操作』をやり遂げます」(田中1988)

  この説明の主語を「可逆操作」にかえると次のようになります。

 「幼児期の『可逆操作』は、『次元』という基本単位をもっている」

 その「基本単位」の説明は、次のとおりです。

 「『1次元の可逆操作』の基本単位は、『1次元の認識』である」(「健康教育」② の表から)

 主語を入れかえると次のようになります。

 「『1次元の認識』は、『1次元可逆操作』の基本単位である」

「健康教育」シリーズの「~ができる」一覧図(着眼点)でもこのような堂々巡りが続きます。

 「『1次元可逆操作』とは、図(着眼点)の『~ができる』ことを可能にする力である」

 主語を逆転させると次のようになります。

 「『~ができる』ことを可能にする力は『1次元可逆操作』である」

 

 どこまでいっても「同語反復」となって、わかる人にはわかるが、わからない人にはわからないのです。「善人は良い人である」を逆にしても「良い人は善人である」となって、けっきょく善人がどういう人なのか一般の人にはわからないのと同じです。ちなみに善人は、「よい心をもち、おこないが正しい人」(「現代国語事典」三省堂)のことです。

 

3.田中(1990)11)は、茂木の指摘から12年後、やっと「可逆操作」を次のように定義しました。

(可逆操作は)「外界の世界をとり入れ、新しい活動をつくりだし、それを自らの内面にとりこんでいく際の基本操作」
 

 しかし、上記定義でも何と何が可逆するのか、つまり「可逆」としていることの意味がわかりません。発達レベルが異なる障害児たちの「可逆操作」を普通の人が把握するにはどうしたらいいのかもわかりません。

 つまり、このままでは、せっかく田中が明らかにしようとした自然に存在している人間発達の階層構造を実践に生かす道が閉ざされてしまうのです。

 

 したがって、本ブログでは、まずもって田中のいう人間発達の階層構造を理解していくための肝(きも)となる「可逆操作」を、すでに確定している歴史、学術的資料をもとに探っていきます。(②からスタートです。)

 

 以後、本ブログにおいて「可逆操作」の説明する際に使用する用語の意味は、以下のとおりです。

 

「基本操作」=「(可逆操作は)外界の世界をとり入れ、新しい活動をつくりだし、それを自らの内面にとりこんでいく際の基本操作」(田中昌人「人間発達研究所通信(6)31.15」)

 

「媒介」=媒介性と同時に直接性を含んでいないものは、天にも自然にも、精神にもおよそどこにも存在しない」(ヘーゲル倫理学」第1巻)

 

「産物」=「人間は自然や人間社会・・・に働きかけ、新しい活動や産物を創出しつつ自分の本性を発達させていく」(田中昌人「人間発達の科学」)

 

[参考・引用文献]

1)坂口秀、草野完也、末次大輔(2008)「階層構造の科学~宇宙・地球・生命をつなぐ新しい視点」.東京大学出版会

2)室井康成(2011)現代民俗の形成と批判~「成人式」問題をめぐる考察.専修人間科学論集 社会学篇 Vol.8, No.2, pp.065~105

3)「学制120年史」(文部科学省

4)「早くて6才」(江戸東京博物館資料「江戸庶民の教育」)
5)「入門年齢のもっとも幼いのは7才」利根啓三郎著(1981)「寺子屋と庶民教育の実証的研究」.雄山閣出版

6)第一次反抗期は自我の芽生え!子どもの葛藤を受けとめ甘えさせてあげよう|ベネッセ教育情報サイト (benesse.jp)

7)小泉吉永(2007)「江戸の子育て十ケ条」.柏書房

8)フィオナ・マクドナルド著 日暮雅通訳(1994)「伝記アインシュタイン」.偕成社

9)茂木俊彦(1978)発達理論に関する若干の研究課題について~心理学のアスペクトから~「『発達保障論』の成果と課題」.全国障害者問題研究会

10)田中昌人(1988)「子どもの発達と健康教育」かもがわ出版

11)田中昌人(1990)「人間発達研究所通信」(6)31.15

 

 

※「階層と段階の視点①」に以下の資料を追加しました。(2023・7・17)

 

資料    

可逆操作の「媒介」について

   何が、何と何の間で可逆するのか    

 

1.退職後、ヴィゴツキ-を読む機会があり、次の一文に衝撃を受けた。

「子どもと大人のコミュニケーションが発達するにつれて、子どもの一般化も拡大する」(ヴィゴツキ-著柴田義松訳「思考と言語」上.1979.明治図書P283)

 上記、ヴィゴツキーの一文で、ことばがひろがるためには「大人とのコミュニケーション」が「媒介」となることに気がついた。これは衝撃の一文だった。というのも、私たちは、一語文の子には、今持っている一語文の力をヨコへひろげることを目標にしてきた。その目標はまちがいではなかった。しかし、どうしたらいいのかという議論になると、「伝えたいものがないのだから、彼が伝えたくなるような興味・関心のある世界をひろげよう」としてきた。これも間違いではない。が、そのための糸口をみつけることはできなかった。

 しかし、ヴィゴツキーはずっと前から、ことばは「大人とのコミュニケーション」とともに発達することを明らかにしていた。これに気がついていれば、私たちの実践はずいぶん違ったものになっていた。つまり、今持っている一語文で、もっと、大人との交流がひろがる実践をすればよかったのである。ヴィゴツキーの記述は、その結果として、ことばがひろがる可能性を示唆している。まさに、「大人とのコミュニケーション」は、ことばをひろげる「媒介」となる活動であった。

 

 この時点で私は、ひょっとしたら、どの段階にも、子どもが新しい力を獲得するためには「媒介」となるような活動があるのではないのだろうか、と考えはじめた。そして、それはきっと、教育実践にとって、とてつもなく大切なことではないだろうかと思われた。

 

 最初、弁証法の「媒介」からヒントを得ようとした。 というのも、20才代に読んだ「哲学ノート」1)に「媒介」ということばがあったことを思いだしたからである。「哲学ノート」は、(当時の赤線をひいたままの状態で書棚にあった。)

 

「媒介性と同時に直接性を含んでいないものは、天にも自然にも、精神にもおよそどこにも存在しない」(ヘーゲル)
 

 つながりの中に天-神を含める限り、神は絶対であり存在するかしないかであるから変化する自然の姿をとらえることはできない。しかし、神を除けばヘーゲルが喝破したように「媒介」によって、あるいは「直接」、つながっていないものは「自然にも精神にもおよそどこにも」存在しない。

 世界は、つながりながら変化、発展している。

 「哲学ノート」をきっかけに、私は弁証法唯物論の古い本を取り寄せて「媒介」を調べたが、そこからヒントを得ることはできなかった。しかし、子どもが何かを獲得する際に、「媒介」となる活動があることは、ヴィゴツキーと「哲学ノート」で確信した。

 

2.2021年、コロナ渦の最中のオリンピックにうんざりした夏。
「媒介」を追い続ける作業は、まさかのオチとなった。丁稚制度の検討から、その「媒介」となる活動はなんと私の足元、「可逆操作」に含まれていることに気付いたからである。丁稚として奉公(10才頃)してから、商売への本格的参加が始まる「半元服」(15・6才)までの間に外の世界に働きかける様式と、獲得する力との間をその段階の思考が「可逆」し、循環、拡大再生産される。室町から、江戸、明治、昭和の初期まで何百年と続いた丁稚制度は、丁稚が人間の本性として「持参」してきた発達の力の「可逆」がなかったら維持できない制度であった。

  
 「可逆操作」については、早くから次のような指摘があった。前述の1978年、茂木俊彦による批判の全文は以下のとおりである。

(「可逆操作特性」「中核機制」という用語に関して)「これを用いる人によって、この両者に込められる意味内容が同一であることのように思えることもあり、異なっているように思えることもある。いずれにせよ、この二つの用語が術語といえる程度には、概念規定を明確にしていかなければならない。用語が難しいとよく言われるのは、概念規定が不明確でコミュニケーション可能な内容をもって説明されていないことが主な原因であろう」2)
 
 しかし、田中は私が知る限り、その後も「可逆操作」を巡るカテゴリ-論の展開3)(1980「人間発達の科学」)をしつつも、「可逆操作」について明確な概念規定をしてこなかった。

 いうまでもなく一般化していない専門用語は、使う側に一義的説明義務がある。

 案の定、以後も、「用語が難解」「抽象的すぎてわからない」「子どもがみえなくなる」と批判が続いた。そして、「けっきょく、可逆操作とは何かは、田中昌人本人にしかわからない」というあきらめの声もあがった。
 

 これらの批判に対し、田中は1988年、次のように応えた。
「これまでは『可逆操作』というものをずいぶん言って、いろんなかたがたから、『そういう言い方をやめたらどうか』『もっとかわいい名前をつけたほうがひろがる』といろいろいわれてきたので、非常にじくじたる思いをしてきましたが、『可逆操作』を使っていたら、いよいよ『可逆操作』というものが発見されることによって、やはりこれでよかったと思っています」4)

 

 「可逆操作」はその後、田中自身によって次のように説明されている。私の手元の資料では、茂木俊彦の指摘から12年後である。

 (可逆操作は)「外界の世界をとり入れ、新しい活動をつくりだし、それを自らの内面にとりこんでいく際の基本操作」(田中1990「人間発達研究所通信6」)
 
 しかし、この説明でも肝心要(かなめ)の何と何が可逆するのかは不明のままとなった。わかる人にはわかるが、わからない人にはわからない。「可逆操作」は、今でも〈同じ鳥を見て、違う鳴き声を聞く〉という状態が続いているといえる。

 

 田中は批判を受けながらもなぜ「可逆操作」を堅持してきたのか。私はこの夏になって、けっきょく「可逆操作」には、子どもが何かを獲得するための「媒介」となる活動が含まれていて、さらにその活動と、その活動によってもたらされる産物との間を該当段階の基本操作が可逆し、拡大再生産の循環となって自己発達をとげていくという人間の本性を内包していたからではないかと考えるに至った。

 前述のように、昔の人たちがなぜ3次変換可逆操作へ到達できたのかというテーマで調べ始めた丁稚制度の検討の途中で偶然に気がついたことである。もし、このような理解でよかったら、私の探しものは目の前にあったことになる。
 
3. 「発達及び発達障害の・・指導過程において、指導者がその対象を認識する際に、対象が可逆操作の高次化における、どの階層のどの段階のそれを、どのように獲得していくかを弁証法的発展法則に基づいて明らかにすることは重要と考える」(田中1980)
 しかし、私も含め多くの現場の、少なくとも教育現場の「指導者」たちは、田中のいう「どの階層のどの段階のそれ」をどうしたら認識できるのか、わからなかったのである。結果、「階層-段階理論」をバックボーンとしているはずの発達保障をめざす国内最大の研究組織、全障研全国大会の実践レポートからも「可逆操作」は消えた。(鹿児島大会前後の3年間の調査結果)
 「階層-段階理論」の中心概念「可逆操作」は、障害児の実践を創造していくコミュニケーションツールとしては使いにくいという実践現場からの意思表示だといえる。

 

 前述のとおり、どの学問領域であれ、一般化していない専門用語は、使う側に一義的説明義務がある。その義務を果たさない限り、よくわからないけど「信じる人」と「信じない人」がいるだけで批判や検討の対象にならない。
 残る謎は、なぜ、田中が「階層-段階理論」の中心概念「可逆操作」について、同門外とも議論できるような概念規定なり、説明をしてこなかったかである。

 わかりにくさの原因は、どこにあるのか。私が一番納得できるのは中村(2016)5)が指摘する「可逆操作」の説明における「同語反復」である。

 というのも、1970年代から80年代にかけて、私たちは「中核機制とは何か→可逆操作である」「可逆操作とは何か→中核機制である」「1次元可逆操作とは何か→1才半の節の~ができるを可能にしている力である」「1才半の節で~ができるためには何が必要か→1次元可逆操作の獲得である」と、迷路になるような議論を職場で繰り返していたからである。私たちは、結論が見えないまま、一応「これでどうだろう」と、グルーピングをして実践したがうまくいかなかった。

 

 本ブログでは、たとえば1次元可逆操作を次のように説明する。これで、ひとまず「同語反復」の迷路からは、脱却できるものと思われるがどうなのだろう。

 

「1次元可逆操作期は、ことば(一語文)を認識する力(基本操作)で、大人との交流活動(媒介)によって、新しいことば(産物)を獲得していく。媒介と産物の間を基本操作が可逆し、循環し、両者は拡大再生産されて発達をとげる」

 

 ちなみに「可逆操作」を上記のように説明したとしても、状態のカテゴリーと様式のカテゴリーを「曖昧にしたり、乖離したり、前者の中に後者を内包させたり」(田中1980)することにはならない。むしろ、両者を一体として捉えた実践の必要性が強調され、乖離することの危険性が警告されることになる。(本ブログ)

 

 私は、全障研の全国委員会で田中の発言を聞いたことがあるが、ひとかけらの傲慢さも感じなかった。むしろ、謙虚さがにじみ出るような発言内容だった。その田中が「現実の姿を説明しようとするとき、その説明が(幾何学との)アナロジーであるがゆえに同語反復的議論になってしまう」(中村2016)「抽象度が高いだけに何をもって、発達段階の高次化を測定するのか困難」6)(赤木2011)と指摘されるような説明をなぜ続けてきたのか、そこには、何らかの理由があるはずである。「可逆操作」について、前述の定義以上の説明は、発達診断などの臨床、あるいは教育学の課題として考えたのか、あるいは、中村(2016)が指摘するようにその説明が幾何学とのアナロジーであるがゆえの宿命だったのか。はたまた、「発達理論の研究がある制約を現段階ではもっている」7)(加藤1990)ためなのだろうか。

  

 次回以降でみていくように「段階ー階層理論」は、「可逆操作」の説明における同語反復あるいは、抽象的な説明から脱することによって、普遍的な教育に相当な示唆を与える。私たちは人間発達の本性から生まれた「可逆操作」概念によって、「何をしたらいいのか」とともに「何をしたらいけないか」を読み解くことができる。  

          (2021・8・16ブログ「可逆操作~何が、何と何の間で可逆するのか」)


1)レーニン・松村一人訳(1956)「哲学ノート」岩波書店
2)茂木俊彦(1978)発達理論に対する若干の研究課題について~心理学のアスペクトから「発達保障の成果と課題」全国障害者問題研究会

3)田中昌人(1980)「人間発達の科学」青木書店

4)京都教職員組合養護教育部編(1988)「田中昌人子どもの発達と健康教育①」かもがわ出版
5)中村隆一・渡部昭男編(2016)「人間発達研究の創出と展開~田中昌人・田中杉江の仕事をとうして歴史をつなぐ」群青社 

6)赤木和重(2011)障害研究論における発達段階論の意義~自閉症スペクトラム障害をめぐって「発達心理学研究」第22号第4号

7)加藤直樹(1990)発達保障理論の総合的発展・創造への研究課題を考える「人間発達研究所通信」VOL.6(2)