発達保障をめざす理論と実践応援プロジェクト

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階層と段階の視点⑬ ヒトはどのようにして、大人になるのか~「可逆操作力」と「可逆操作関係」による説明

   ヒトはどのようにして、大人になるのか

          超訳「階層-段階理論」

                   

                     山田優一郎(人間発達研究所会員)

 

はじめに

 

 可逆操作とは何か。

「外界の世界をとり入れ、新しい活動をつくりだし、それを自らの内面にとりこんでいく際の基本操作」田中昌人(1990)「人間発達研究所通信」(6)31.15

 

 本ブログで説明してきた可逆操作の内容は、以下のとおり。

 操作単位ごとの媒介となる活動で外の世界に働きかけ、自らを発達させるための産物を獲得する。基本操作が媒介と産物の間を可逆し、両者は拡大再生産されて発達を遂げる。      

                表1

  

「各操作単位と操作変数をもった可逆性は・・可逆操作の高次化をすすめる過程で認識される」(田中1980P214)2)

 

 ここでは、表1に示した可逆操作によって、可逆性の弁証法的発展過程を説明します。

 

 「弁証法
 弁証法とは、ソクラテスプラトンにはじまる「概念の真の認識に到達する方法」(「広辞苑」.岩波書店)のことです。

 

 人は孤立して生きていく存在ではなく、生まれた瞬間から、人間社会の一員として生きていくことになります。弁証法では、「世界はどのようなものであるか」という問に対して、次のように答えます。

「世界におけるすべての事物・現象は個々ばらばらに孤立して存在しているものではなく、すべて相互に連関しあっている。そしてどの一つの事物・現象も永久普遍なものではなく、すべてが普段に発展している」(西本1967)2)

 まさにひとりでポツンと誕生するのでなく、人間社会の中に生まれ、日々発達をとげていく子どもの姿そのものです。だから、人間の発達も「世界におけるすべての事物・現象」のひとつとして、弁証法で説明することが可能です。

 

 現代の弁証法では、人間社会の発展の歴史をざっくり次のようにとらえます。

 

「社会の歴史は、生産の発展の歴史である」3)
 貝殻の採取や狩りしかできなかった時代から、農耕時代への移行は、生産力を飛躍的に高めました。今では広い田んぼの田植えや収穫も、たったひとりで、数時間で終わらせることができます。林業にしろ、漁業にしろ、各分野の製造業にしろ、ここまでに至る人間社会の歴史は、生産の発展の歴史だったといえます。それは、現代社会の大量生産技術をみれば、疑う余地がありません。

 

「生産力」
 人間社会を生産の発展の歴史とみた時、社会の発展を押し進める力はその社会が内包している「生産力」です。「生産力」とは、「生産において、その社会がもっている能動的な力」4)のことです。
 
「生産関係」
 しかし、人間はひとりで生産活動を行うのではなく、必ず人との関係の中で働きます。ひとりで働いているように見える農民も、年貢を取り立てる殿様との関係から逃れることはできません。ひとりで茶碗をつくる陶芸家も、茶碗を必要としている人たちの元へ茶碗を届けてくれる人との関係を断ち切ることはできません。漁業でも他との物々交換、あるいは、魚を買ってもらう人との関係は常に存在しています。もちろん、工場ではどんな零細であれ、集団労働です。「生産関係」5)は、このような「生産における人間と人間の関係」のことです。「生産関係」は、物々交換の相手のように平等な相互協力・相互援助の場合もあれば、殿様と農民、社長と社員のように支配者と被支配者、雇用主と従業員ということもあります。6)

 

「生産力」と「生産関係」の矛盾
 人間の社会は、生産力の発展にともない生産関係も変化して現在に至っています。これまでの歴史を見た時、生産力は絶えず発展します。それに対し生産関係は、変化しにくく固定した傾向を持っています。実際のところ、いつ何をどこへ種をまいたら大量に収穫できるのか、農民の知識と自然に働きかける技術は年月とともに蓄積され、人間の本性の発揮として生産力は確実に増えていきます。にもかかわらず、年貢をおさめる殿様との関係(「生産関係」)は、何百年と続きました。いつの時代も生産力の日々の発展に比べ、生産関係はそう簡単にはかわりません。

 絶えず進化し、高まっていく生産力と、固定する傾向をもつ生産関係。その矛盾が拡大した時、発展した生産力に照応した新しい生産関係がうまれます。生産力の高まりとともに古い生産関係から、新しい生産関係へ。それを繰り返して現在に至っています。殿様のいない今の時代は、現代の生産力に照応している社会だといえます。
 
1.人間の発達でも同じような法則が働きます。ここから、生産力を=可逆操作力、生産関係=可逆操作関係として両者の関係を考えてみます。

 

 「可逆操作力」(=「生産力」)を表1の①「基本操作」、認識力・思考力とした時、「可逆操作関係」(=「生産関係」)は、表1の➁「媒介」活動を取り巻く人との関係です。人との関係は、生産関係と同じように対等な友だち関係もあれば、親と子という場合もあるし、教師と生徒、コーチと部員、雇用者、被雇用者、近所のおじさんという場合もあります。

 

 表1の➁媒介から予想される「可逆操作関係」は、ざっと次のようになります。

               表2 可逆操作関係

        

 1次元可逆操作期の幼児は、大人との交流活動によって、ことばを拡大していきます。なので、大人との交流活動は、一定期間、認識力を高める役割を果たします。しかし、次の認識力、「想像」世界へと進んだ時、古い可逆操作関係→大人との「交流活動の関係」は桎梏(しっこく)*)に一変7)し、新しい可逆操作関係→全体を想像しながら、部分の~をするための「想像遊びの関係」へと発展します。社会発展の基本法則と同様に、「生産力(=認識力)がいっそう発展するためには、発展した生産力に照応した新しい生産関係(=可逆操作関係)がうまれざるをえない」8)からです。( )内筆者
*桎梏(しっこく)~「自由な行動を妨げるもの」(「現代国語辞典」.三省堂

 

 可逆操作力(①認識・思考力)は、日々進歩しますので、可逆操作関係(媒介活動を巡る人との関係)との間にズレ(矛盾)が出てきます。やがて両者の矛盾が激しくなった時、可逆操作関係は発展を余儀なくされるのです。

 

 これで、「可逆操作力」と「可逆操作関係」は、具体的にイメージできるようになりますよね。

 ここまでをもう一度、かんたんにまとめます。

 

①外界へ働きかけ産物をとり入れ、本性として日々進歩を遂げる可逆操作力(認識・思考)
➁可逆操作力(認識・思考)が高次化した時、可逆操作力をいっそう高めていくために高次化した可逆操作力に照応する新しい可逆操作関係(人との関係)が形成される。

 

  ①の高次化によって、➁が発展し、➁の発展によって、さらに①が高められていく仕組みになっているのです。(下図1)

 

 さて、以上は各階層・段階の可逆性がどのように登場してくるかを弁証法で説明したものでした。ここまでの話しは、子どもの「力」と、子ども囲む人との「関係」の「矛盾」を原動力として、人間関係が「発展」するという話しです。なので、そもそも子どもの内部において知的操作の高次化がどのように進むのかという話しとは別の話しです。

 

 ひとまずここでは、図1のように各段階の知的操作の発展・移行を「高次化」、各段階の人間関係の発展を社会科学の一般的な用法にしたがい「発展」9)として両者を区別しました。

                

                図1

2.では、では、ここからは表1の可逆操作(「基本操作」)の高次化の話しです。今までのオレと回りの人との「関係」の話しではなく、これからの話しは、物質、固体(オレ)内部話しです。田中(1980)は、可逆操作の高次化について次のように説明しました。

 

「1次元可逆操作の獲得期には、2次元の、2次元の獲得期には3次元の、3次元の獲得期には1次変換の最近接領域を・・・・・ふさわしいとり入れかたをして運動・実践を産出する」(P156)
 
 そして、高次化は次のように進みます。

 まずは1次元ことば世界の充実が「漸進的におこなわれる」(田中1980P155)。そして、「(1次元の)量的蓄積をもとに一定の限度を越えると新しい質(2次元)にもとづく飛躍的移行が進む」(田中1980P155)( )内筆者。

 

 「質的変化への転化(=高次化)は、この内部矛盾の発現にほかならない」(田中1980P155)( )内筆者

 

 内部矛盾は、「現実の事物・現象の一つのものの中に互いに相いれない対立したものが統一されつつ、しかし排除し合っている」(中原1965)10)状態をさしています。だから、ここからは「一つのものの中」、つまり、(オレ)の内部の話しです。

 

 上記図の「1次元ことば」は、見える世界のことであり、「2次元想像」は、見えない世界であり、両者は異質なもので対立しています。しかし、「1次元」と「2次元」は、切り離しがたい存在です。「1次元」がなければ、「2次元」もないわけですし、「2次元」がなければ「1次元」もないのです。すぐ隣にある「2次元」へ「1次元」の産物(表1②)が移動しようとします。しかし、自然界の現象、拡散と浸透のル-ルによって、「2次元」世界は「1次元」からの産物を排除します。(本ブログ「可逆操作の相互浸透」)逆のルールも存在し、つまり、対立しあっているのです。

 だからこそ、1才半の節をこえてからもすぐに「2次元」にはならず「1次元」は一定期間続きます。しかしながら、「事物の内部にひそんでいる、この対立している側面の否定しあう関係こそ、そのものの発展の原動力」(中原1965)です。変化の原因は、子どもの外にあるのではなく、「発達に固有な本質をなす内部矛盾」(田中1980)なのです。そして、田中は、前述のように「質的変化への転化はこの内部矛盾の発現」(田中1980)としました。(本ブログ「図解 量から質への転化」)

 子どもは、内部の対立・排除しあう関係の矛盾を解決11)するために質的変化、すなわち高次化を遂げ、自己運動として次のステージへ進みます。
 
 以上の「1次元」「2次元」の話しは、すべての事物・現象にあてはまります。万物の変化・発展を自己運動として理解しないと、なぜ地球上の木々が勝手に成長し、寿命がきたら朽ちて、土にもどるか説明できません。なぜ、人の手が及ばない高いところから雨が降り、人の手が及ばない海上で台風が発生するのかも説明できません。だから弁証法では、自然であれ、社会であれ万物の変化、発展を自己運動としてとらえるのです。
 
 人間も自然の一部ですから、人間の発達も自己運動としてとらえないと、なぜ、日本中の子どもたちが、同じ時期に同じことができるようになるのか合理的に説明することはできません。自己運動なので外から子どもの脳の中を直接操作することができないように「2次元」のところに「3次元」を置いたり、「2次元」を「1次元」と同じにしたりということはできません。また、「2次元」をなくしてはやく「3次元」に到達させることもできません。
 人間の発達は、「1次元」の量的蓄積が「一定の限度」(田中1980P155)をこえた時、異質なものへの段差(矛盾)を乗り越えるためにギアをかえて「2次元」へはいるのです。変わる中味は、移行期における対称性の破れとして自然界の法則、「対称性の原理」*)によって説明することが可能です。「2次元」への移行は4才頃。人間の発達は、量から質への転化も、どのようなものにかわるのかも自然界の法則によって記述できる事象です。
*「対称性の原理」については、本ブログ⑨⑩⑪⑫    

 

 ここまでは子どもの発達に限らず、物事の内部でおこる自己運動の仕組みです。ところで、世界の事物・現象の中で「それだけで孤立して存在しているものは一つもありません」(西本1967)。物事の内部におこる自己運動も外の世界とのつながりがあってのできごとです。植物の双葉から本葉への飛躍的発展は、自己運動としておこりますが、自己運動を引き起こす外部との関係、すなわち、水・栄養・光を吸収する活動は内部の運動にとって成長の条件となります。この時、外の世界からこれらをとり入れる活動が制限されると、成長もとまってしまうのです。このように事物の外の世界「その事物に影響を与え、発展を促したり、ぎゃくに発展をおくらせたりして発展過程に作用」(中原1965)します。ですから、人間の子も外の世界の条件によって、高次化(質的転換)は、うながされたり、おくれたりするのです。

 したがって、私たちは、すべての子に1次元の子には1次元の2次元の子には2次元の活動が生き生きと展開できる外の世界を用意しなければなりません。前述のように外から子どもの内部でおこることに手をつっこむことはできません。私たちの仕事は、子どもが自分の力で発達できるように、どの子にも産物(表1)を吸収できる環境を整えることです。

 

 以上の結果、私たちは次のような結論を得ることができます。 

 教育は「もう獲得されている可逆操作が、もうその力はあるけれど発揮する機会がないところに働きかける」(加藤2018)12)のが基本であり、障害児教育は、子どもが、今持っている可逆操作をうまく発揮できずにいる状態の時、子どもの声を聞きながら、子ども自身が困っていることをみつけ手をさしのべる教育だといえます。

 こうして、私たちがめざすべきは、もうすでにそこにある力の量的蓄積(田中1980)、すなわち各段階における「手持ちの能力の全面的開花」(赤木2018)13)という結論が導かれます。
 
3.さて、子どもの発達過程には、どの段階でも可逆操作が花ひらく人間関係(可逆操作関係)が存在していました。(表2)子どもたちは、どの年令でも、人格*)の基礎を各段階における人との関係によって培っていきます。
*人格~「人間としての精神的な高さや深さ」(「現代国語辞典」.三省堂

 

 表2において4才頃からの可逆操作関係は「想像遊びの関係」でした。今から150年以上も前の子どもたちがしていて、今も同じ年令の子どもの活動内容として保育所や幼稚園で実践されているてっぱんの遊びがいくつかあります。そのひとつは「押しっくら」14)(おしくらまんじゅう)です。
  
 「押しっくら」は、見えない後ろにどういう子がいるのか、その後ろは、土なのか、草むらなのか、溝なのか、池なのか遊びの空間全体を想像しながら、おしり(部分)で押し合います。(表1①「基本操作」)
 この時、後ろに溝があることを想像できないと、どこまでも押し続け、後ろの子にケガを負わせてしまいます。見えない後ろを想像し、溝や池がある時は、小さい子、力の弱い子を押す力を加減しないと遊びとして成立しないのです。その加減ができないと近所の子と遊ぶことができなくなってしまうのですから大変です。「あしたから、遊べなくなるかもしれない」と想像できる認識の力と「遊べなくなるのはイヤ」という人としての感情は、一体のものとして獲得します。だから、子どもは、可逆操作力を発揮するまさにその時、可逆操作関係の中で自分を律し、人格の基礎、弱者への「思いやり」、「やさしさ」を学んでいきます。

 

 同じく2次元可逆操作期の子どもの遊びで何百年も継承されている遊びに「廻りっくら」というのがあります。今のかけっこです。
 「廻りっくら」15)は、街なかを走ります。同じところから左右にわかれて走り、同じコースを、ひと回りして先に帰ってきたほうが勝ちです。知らないところではなく、ご近所の知っている道を走ります。お寺の境内の石畳では、すべらないように慎重に体をコントロールします。ここで、転んだら、結果、全体がどうなるか想像できるからです。崖道もこわいケレドがんばって走ります。ここで歩いたら、結果、全体がどうなるか想像できるからです。ご近所なので近道があることは知っています。近道を走りぬければ勝てることはわかっているのです。しかし、そんな卑怯なことはしません。卑怯な手段で勝っても楽しくないからです。近道を使えば、必ず勝てるという結果を想像できる認識の力には、卑怯な手段を使って勝っても「楽しくない」という人間的な感情も含まれています。だからこそ、子どもは誰も見ていなくても卑怯な手段は使わないのです。だからこそ「かけっこ」は、何百年にわたって世界中で続けられている遊びになっているといえます。

 こうして、子どもは、可逆操作力を発揮するまさにその局面において、可逆操作関係のなかで人としての「正しい道」を形成していきます。

 

 けっきょく、人格の基礎は認識・思考の力と一体のものとして、可逆操作関係の中で形成され、その人格の芽は可逆操作関係に反映され、可逆操作関係を介して、さらに可逆操作力を発揮できる環境を整えていきます。この仕組みは、おそらく今の「おしくらまんじゅう」や「かけっこ」(リレー)でもかわりません。

 

 神戸大学の小川太郎(1975)16)は、かって学校教育について次のような指摘をしました。
「たんに知識・技術・能力・・の形成・発達をはかるばかりでなく、その任務をはたす、まさにそのことにおいて、意思・感情・性格など人格的な諸特性をも形成・発達させるものでなければならない」
 階層と段階の視点は、小川の指摘に発達論から根拠を与えるものになっています。

 

 みてきたように高次化の原動力は、各段階の基本操作の内部矛盾です。そして、高次化は可逆操作関係の発展を余儀なくします。しかし、可逆操作関係は人格の発達にとって不可欠なものではあっても関係の発展が豊かな人格を担保しているわけではありません。人格の発達はどの段階にあっても、可逆操作関係を構成する集団の教育力が関与しており、関係が発展することと、発展した関係の中でどのような人格を形成していくかは別の話しになるからです。
 だから私たちは、小川が指摘するように可逆操作力を発揮するまさに、そのことにおいて、「人格的な諸特性をも形成・発達させる」(小川1975)教育を展開しなければなりません。可逆性の弁証法的発展過程は、教育基本法第一条 17)が定める人格形成をめざす教育の実践的な基礎となるものです。

 

 これで、可逆性のあらわれは、単なる成長の「記載」としてではなく、論理的な根拠をもって職場で「説明」できるのではないでしょうか。

 ところでヴィゴツキ-18)は、知的発達と人格の発達について次のようにのべています。

 

「子どもの心理過程にとって、もっとも本質的なことは、まさに感情と知能の間の関係の変化なのである」

 

 以上の「可逆操作力」と「可逆操作関係」によって、「階層-段階理論」は、ヴィゴツキーのいう「もっとも本質的なこと」、すなわち、知的発達と人格発達の関係の変化を説明することが可能となります。(本ブログ⑭)

 

[参考・引用文献] 
1)田中昌人(1980)「人間発達の科学」.青木書店
2)西本一夫(1967)「史的唯物論入門」.新日本出版社
3)前掲2)
4)前掲2)
5)前掲2)
6)前掲2)
7)前掲2
8)前掲2)
9)前掲2)
10)中原雄一郎(1965)「弁証法唯物論入門」.新日本出版社
11)足立正恒(1984)「唯物論弁証法」.新日本出版社
12)加藤聡一(2018)「可逆操作の高次化における階層-段階理論」は学校教育にどう向き合うか(2)人間発達研究所通信 No.155号 
13)赤木和重(2018)「目からウロコ!驚愕と共感の自閉症スペクトラム入門」.全障研出版部
14)小林忠監修中城正堯著(2014)「江戸時代子ども遊び大事典」東京堂出版
15)中田幸平(2009)「江戸の子供遊び事典」八坂書房
16)小川太郎(1975)「教育と陶冶の理論」.明治図書
17)教育基本法(教育の目的) 第一条 教育は、人格の完成を目指し、平和で民主的な国家及び社会の形成者として必要な資質を備えた心身ともに健康な国民の育成を期して行われなければならない。

18)中村和夫(2010)「ヴィゴツキ-に学ぶ子どもの想像と人格の発達」.福村出版