発達保障をめざす理論と実践応援プロジェクト

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階層と段階の視点⑭ 「階層-段階理論」(超訳)による知的発達と人格発達の統一的理解

      人格発達と「階層-段階理論」

 

                     山田優一郎(人間発達研究所会員)

 

 たった10年の研究でピアジェと並び、今でも世界に影響を与え続けている天才ヴィゴツキ-。ヴィゴツキ-は、知的発達と人格的な発達について次のように記述しています。1)

 

「子どものあらゆる心理過程にとって、最も本質的なことは、まさに感情と知能の間の関係の変化なのである」

 

 今回は、ヴィゴツキ-が最も本質的な問題とした発達における知的発達と人格的な発達の関係を、「階層-段階理論」における可逆操作力と可逆操作関係によって説明します。

 

1.「可逆操作力」と「可逆操作関係」

 

「可逆操作」

 可逆操作とは何か。本ブログでは、可逆操作を次のように説明してきました。

「外界の世界をとり入れ、新しい活動をつくりだし、それを自らの内面にとりこんでいく際の基本操作(田中、表1備考)であり、操作単位ごとの媒介となる活動で外の世界に働きかけ、自らを発達させるための産物を獲得していく。基本操作が媒介と産物の間を可逆し、両者は拡大再生産されて発達を遂げる」

 

 まだ、何のこっちゃですが、表1の具体的な内容をみれば、誰でもわかります。 「何々可逆操作」という言葉がでたら、表1で子どもの姿をイメージしてください。担当している子が、どの段階にいるのか、微妙でわかりにくい時は、本ブログ⑯の簡易検査(チェック方法)を参考にしてください。

                 表1

 

弁証法
 弁証法とは、ソクラテスプラトンにはじまる「概念の真の認識に到達する方法」(「広辞苑」.岩波書店)のことです。弁証法では、「世界はどのようなものであるか」という問に対して、次のように説明します。 

「世界におけるすべての事物・現象は個々ばらばらに孤立して存在しているものではなく、すべて相互に連関しあっている。そしてどの一つの事物・現象も永久普遍なものではなく、すべてが普段に発展している」(西本1967)2)

 人は生まれた瞬間から、人間社会の一員として生きていきます。社会とのつながりの中で育ち、日々発達をとげていく子どもの姿は、普段に発展している「世界におけるすべての事物・現象」と同じです。したがって、子どもの発達も世界の事物・現象のひとつとして弁証法で説明することが可能です。

  

 現代の弁証法では、人間社会の発展の歴史をざっくり次のようにとらえます。

 

「社会の歴史は、生産の発展の歴史である」3)
 貝殻の採取や狩りしかできなかった時代から、農耕時代への移行は、生産力を飛躍的に高めました。今では広い田んぼの田植えや収穫も、たったひとりで、数時間で終わらせることができます。林業にしろ、漁業にしろ、各分野の製造業にしろ、ここまでに至る人間社会の歴史は、生産の発展の歴史だったといえます。それは、現代社会の大量生産技術をみれば、一目瞭然です。

 

「生産力」
 人間社会を生産の発展の歴史とみた時、社会の発展を押し進める力はその社会が内包している「生産力」です。「生産力」とは、「生産において、その社会がもっている能動的な力」4)のことです。
 
「生産関係」
 しかし、人間はひとりで生産活動を行うのではなく、必ず人との関係の中で働きます。ひとりで働いているように見える農民も、年貢を取り立てる殿様との関係から逃れることはできません。ひとりで茶碗をつくる陶芸家も、茶碗を必要としている人たちの元へ茶碗を届けてくれる人との関係を断ち切ることはできません。漁業でも物々交換、あるいは、魚を買ってもらう人との関係は常に存在しています。もちろん、工場ではどんな零細であれ、集団労働です。「生産関係」5)は、このような「生産における人間と人間の関係」のことです。「生産関係」は、物々交換の相手のように平等な相互協力・相互援助の場合もあれば、殿様と農民、社長と社員のように支配者と被支配者、雇用主と従業員ということもあります。6)

  

 人間の発達において、生産力にあたるものが「可逆操作力」です。具体的には、表1の①「基本操作」、つまり、その年令期の発達を押しすすめる力(表1では認識力・思考力)のことです。では、「可逆操作関係」とは何か。「可逆操作関係」は、環境から産物をとり入れていく(表1➁媒介)活動において、その時期の基軸となる人との関係です。

 

 弁証法で歴史を分析する際の「生産力」を「可逆操作力」に、「生産関係」を「可逆操作関係」に置き換えることで、人類の歴史と同じように子どもの発達(歴史)を「概念の真の認識に到達する方法」(弁証法)によって分析することが可能になります。(表2)

        表2 「可逆操作力」と「可逆操作関係」

1)中村和夫(2010)「ヴィゴツキ-に学ぶ、子どもの想像と人格の発達」(福村出版)

※ヴィゴツキ-は、1930年代に活躍し、38才でなくなった。研究期間はわずか10年。しかし、彼の先駆的な研究成果は、今でも世界各地の教員養成テキストでとりあげられている。(明神ともこ.2004北海道教育大学釧路校研究紀要第3号)

2)西本一夫(1967)「史的唯物論入門」.新日本出版社
3)前掲2)
4)前掲2)
5)前掲2)
6)前掲2)

 田中(1987)7)は、階層と段階の視点から、人格の形成について次のように指摘しました。

「人格の形成に必要な新しい営みをしていくのは、発達の各階層の2(段階の)形成期に入っていくことによってである」

 もし、田中の指摘が妥当なものだとしたら、表1、2の各階層の第2の段階は人格形成上、何らかのエポックとなっていることが予想されます。

 以下、田中の上記指摘を検証します。この作業によって、発達における知的発達と人格的な発達の関係が浮かびあがってくるからです。

 まずは、認識(次元)の階層、第2の段階(「2次元可逆操作期」)からみていきます。

7)田中昌人・清水寛(1987)「発達保障の探求」(全国障害者問題研究会出版部)

 

2.人格とは「人間としての精神的な高さや深さ」(「現代国語辞典」.三省堂)と定義されています。人として身につけるものなので、他者(人)が存在しないと身につけようがありません。子どもたちは、どの年令でも、人格の基礎をその時期、その時期の人との関係によって培っていきます。
 

 認識の層の第2の段階、2次元可逆操作期の基軸となる人との関係=可逆操作関係は「遊び」活動の関係でした。(表2)

 今から150年以上も前(江戸時代)から2次元可逆操作期の子どもたちがしていて、今も同じ年令期の子どもの活動内容として保育所や幼稚園で実践されているてっぱんの遊びがいくつかあります。そのひとつは「押しっくら」8)(おしくらまんじゅう)です。
  
 「押しっくら」は、見えない後ろにどういう子がいるのか、その後ろは、土なのか、草むらなのか、溝なのか、池なのか遊びの空間全体を想像しながらおしり(部分)で押し合います。この時、後ろに溝があることを想像できないと、どこまでも押し続け、後ろの子にケガを負わせてしまいます。見えない後ろを想像し、溝や池がある時は、小さい子、力の弱い子を押す力を加減しないと遊びとして成立しません。その加減ができないと近所の子と遊ぶことができなくなってしまいます。「あしたから、遊べなくなるかもしれない」と想像できる認識の力と「遊べなくなるのはイヤ」という人としての感情は、一体のものとして獲得します。だから、子どもは、全体を想像することができるその時期に、可逆操作関係の中で「お友だちにケガをさせてはいけない」という、他者へのやさしさや思いやりを学びます。他者へのやさしさや思いやりの育ちは、さらに可逆操作力を発揮できる遊びの環境をひろげ、豊かにしていきます。

 

 同じく2次元可逆操作期の子どもの遊びで何百年も継承されている遊びに「廻りっくら」というのがあります。今のかけっこです。
 「廻りっくら」9)は、街なかを走ります。同じところから左右にわかれて走り、同じコースを、ひと回りして先に帰ってきたほうが勝ちです。知らないところではなく、ご近所の知っている道を走ります。お寺の境内の石畳では、すべらないように慎重に体をコントロールします。ここで、転んだら、結果、すなわち全体がどうなるか想像できるからです。崖道もこわいケレドがんばって走ります。ここで歩いたら、結果、全体がどうなるか想像できるからです。ご近所なので近道があることは知っています。近道を走りぬければ勝てることはわかっているのです。しかし、そんな卑怯なことはしません。近道を使えば、必ず勝てるという結果を想像できる認識の力は、卑怯な手段を使って勝った時、もし、それがバレたらどんな結果になるのかも想像できるのです。もはやその時、自分もちっとも楽しくない結末になることを想像できるのです。だから、どの子も結果を想像できる認識の力によって、「人としての正しい道」を選択します。「人としての正しい道」を選択できた子どもは、また、明日からも「廻りっくら」ができるし、同じ仲間で遊びの巾をどんどんひろげていくことができます。

 この仕組みは、現在の「おしくらまんじゅう」や「かけっこ」でも同じです。

 けっきょく、子どもたちは、発達を押しすすめる可逆操作力(認識の力)によって、可逆操作関係の中で、人格の芽を育て、そこで形成された人格の芽が可逆操作関係に反映され、可逆操作関係を媒介にして、さらに可逆操作力を発揮できる環境を整えていくことになります。

 

 「遊び」活動の関係が展開される時期は、人格の礎(いしずえ)がつくられる時期だといえます。みてきたように子どもたちはこの時期に、全体・結果を想像できる力(可逆操作力)によって、はじめての倫理、コトの善悪を理解することになるからです。

 現在、多くの国で義務教育の始まりを6、7才としています。日本においては江戸時代の寺小屋から、そして、今も小学校の入学は6・7才です。人々は、社会の基本的な倫理、コトの善悪が判断できるようになった子を対象に、その年令になるのをまって、集団学習を開始していたことになります。集団学習の場では、「学び」の関係にふさわしい、より高い倫理が求められるからです。子どもたちは、今も昔も、そして世界中で、義務(集団)教育の前にコトの善悪を学び、人格形成の礎(いしずえ)を築いてから集団学習を始めていたことになります。

倫理=「人として守らなければならない事柄」(「現代国語辞典」三省堂

8)小林忠監修中城正堯著(2014)「江戸時代子ども遊び大事典」東京堂出版

9)中田幸平(2009)「江戸の子供遊び事典」八坂書房

 

2.思考の階層の第2段階、2次変換可逆操作期(中学生)は、「なぜならば」「なぜならば」と理由や根拠を深堀りできる思考で、ものごとの本質を理解していく時期です。(表1)

 もう、子どもではない自分がわかり、しかし、まだ大人でもない自分もわかって、自立に向っての歩みをはじめます。自分のこと(本質)がわかってくる時期は、「はるかに深く広い他者理解」10)(ヴィゴツキ-2017)をもたらします。

 自分のことがわかるようになり、同時に他者理解が進むことによって、「ギャングエージの友人たちとは異なって、親友、本当の友人を求める」(ブロス2010)11)ようになります。また、同じ理由でまだ自分にはできないことを難なくやってみせる「あこがれの大人」「あこがれの先輩」も出てきます。あこがれの大人や先輩のようにしたいけど、まだ、それができない不甲斐ない自分にも気付きます。しかし、いつか、自分もその人たちのようになりたいのです。こうして、自立への基礎が築かれます。

 

 前の階層の第2段階(幼児期)は、倫理の基礎、コトの善悪を修得する時期でした。倫理とは、「人として守らなければならない事柄」12)なので、幼児の時期は、人としてやってはいけないことを学んだ時期だったといえます。しかし、世の中の本質がわかり、自分のことも、他人のこともより深く理解できるようになってきた中学生の思考は、さらに人としてやったほうがいいことを考えることを可能にします。人格は「人間としての、精神的な高さや深さ」13)なので、人格の形成は、誰にとってもいくつになっても永遠の課題です。しかし、誰もがこの時期に「国家及び社会の形成者として必要な資質」(教育基本法)としての人格を形成して社会へ巣立っていきます。おかげで、私たちの社会はそれぞれが、それぞれのアイデンティティにしたがって生きていても、みんなが平和に暮らしていける社会になっています。私たちの社会が崩壊せずに持続していることが、誰もが中学校課程卒業までに、社会の形成者として必要な人格を形成していることの証だといえます。

 

10)中村和夫(2017)「ヴィゴツキ-心理学」新読書社 

11)山本晃(2010)「青年期のこころの発達~ブロスの青年期論とその展開」.星和書店

12)「現代国語辞典」(三省堂

13)前掲12

 

 西郷隆盛大久保利通など明治の偉人たちが育った薩摩藩では、15~16才になると元服して二才(ニセ)14)になります。二才(ニセ)になったら、若者集団に加わり、大人社会の一翼を担います。薩摩だけではありません。室井(2011)15)は、 全国調査によって15歳前後の若者に対していわゆる現代版「元服」が昭和の時代まで日本各地に存在していたことを明らかにしています。そして、「元服」を機に青年団などの加入が許可され、大人社会への参加が認められてきたのです。

 また、 日本の中世から昭和まで続いた丁稚(でっち)制度では、15~16才頃に半元服と称して商売に本格的に携わるようになります。半元服になると、本名の頭字に「吉」や「松」のつけて呼ばれる16)のでわかりやすい大人への第一歩だったといえます。

 そして、今も義務教育(中学校)を終え、大人社会への参加が許されるのは15才を越えてから。すなわち、今も昔も中学校の年令期に人格形成が充実期を迎え、社会にでるための人格的な資質をこの時期に一気に修得するのです。それは、ずっと昔から、子どもの発達の自然の姿だったといえます。

 人格形成の充実期には、当然のことながら、その年令期に誰もが到達する思考の力、可逆操作力と、その年令において必然となる人との関係、すなわち、可逆操作関係(家族・教師・知人、クラスメイト・生徒会・部活の仲間や先輩など)が存在しています。(表2)

 私たちの社会は、社会参加に必要な能力だけでなく、人格の形成も実を結ぶ年令をまって、まるでそれを祝福するかのように、大人社会への第一歩を準備してきたといえます。

 

14)「江戸時代人づくり風土記46鹿児島」(1999)農文協

15)室井康成(2011)現代民俗の形成と批判~「成人式」問題をめぐる考察.専修人間科学論集 社会学篇 Vol.8, No.2, pp.065~105

16)竹中靖一・川上雅(1965)「日本商業史」(ミネルヴァ書房

 

 さて、次の作文は、宮崎県の中学3年生、藤原凛華さんのものです。タイトルは「星塚のじぃやん」。第39回全国人権作文コンクールにおいて法務大臣賞に輝いた作文です。17)

 

――――「星塚のじぃやんと言ってくれ」かつて、「私にさわらない方がいい」と言って握手を拒んだあなたがそう言ってくれた時、本当にうれしかった。

 あの時、私たちは本当の家族になれたのだ。 私には、キティちゃんと阪神タイガースが好きなとってもおちゃめなおじぃちゃんがいる。彼とは血のつながりはないけれど、それ以上の絆を感じられるすてきな人だ。

 私は、おじぃちゃんに年一回会えるのをいつも楽しみにしている。そのおじぃちゃんが暮らしているのは,鹿児島県にある国立療養所星塚敬愛園。そ う、おじぃちゃんは、国の非道な政策によって家族も故郷も自由に選ぶ人生もすべてうばわれた元ハンセン病患者である。

 ハンセン病とは、らい菌に感染することで起きる病気だ。感染力はとても弱く、 現代の日本で感染し発病することはほとんどない。しかし、有効な治療法や薬がなかった時代には、顔や手足が変形するというような外見に症状が表われてしまうことから忌避されてきた。また,感染を防止するには患者を隔離する以外にないとも考えられていた。

 日本では、一九三一年の癩予防法によってハンセン病患者をハンセン病療養所に強制的に入所させ一生に渡って世間から隔離する政策を行なっていた。それだけでなく子どもを持てなくさせたり、患者の出た家を消毒し たり、無らい県運動を進めるなどしてハンセン病は恐ろしい不治の病という誤った認識を国民に植え付けた。この政策のために、治療薬ができ,ハンセン病が治る病気だとわかった後も、ハンセン病患者やその家族は極端な偏見と激しい差別に苦しむことになった。しかもこの政策が終ったのは一九九六年。そんなに古い 話ではないのだ。――

 

 ハンセン病について調べ、考え、そして、事実がわかる過程を経て、藤原さんの思考する力は次のような人格をうみます。

 

―――これまでのあまりに過酷な経験が彼につけた心の傷は消えることはないでしょう。失った時間や家族をとり戻すことはできないけれど、私たちと新しい時間を重ねることで、おじぃちゃんの人生が少しでも笑って過ごせる時間になるようにしていきたいと思う。

 それは私たち家族にとってもかけがえのないすてきな時間になるでしょう。おじぃちゃんが私にくれた喜びを私も家族もそれ以上の喜びにしておじぃちゃんにこれからも返していきたい。 おじぃちゃん、あなたに会えて本当によかった。――

 

 藤原さんは、きっと「おじぃちゃんが笑ってすごせる」ために、私や家族、社会はどうすればいいのか、「もっと、こうしたほうがいい(なぜならば・・)」と、さらに思考を深めていったことでしょう。ひょっとしたら大人になった今も考え中なのかもしれません。

 藤原さんも、発達を押しすすめる可逆操作力(思考する力)によって、可逆操作関係の中で人格を形成し、豊かに実った人格は可逆操作関係に反映され、可逆操作関係を媒介に、さらに可逆操作力(思考する力)を発揮できる環境を整えていったということができます。 

 

 中学3年生の人権作文は、どの作文も涙なしでよむことはできません。そこには、どの生徒の文章にも豊かに実った人格の花が咲いているからです。昔の人だけでなく、現代社会でも、ものごとの本質がわかる論理的思考ができる時期に、どの子も人格形成の充実期を迎えています。

 

17)法務省(1989)「第39回全国中学生人権作文コンテスト中央大会入賞作文集」

 

まとめ

①冒頭で紹介したようにヴィゴツキ-(2010)は、「子どものあらゆる心理過程にとって、最も本質的なことは、まさに感情と知能の間の関係の変化なのである」としました。検討の結果、両者の関係は、次のように説明することができます。

 

 可逆操作力によって、可逆操作関係の中で人格を形成し、形成された人格は可逆操作関係に反映され、可逆操作関係を媒介に、さらに可逆操作力を発揮できる環境を整えていく。

 

 ヴィゴツキ-が指摘した感情(人格)と知能の関係でいうと、次のようになります。

 

 知的発達によって、人格を形成し、形成された人格は知的能力を発揮できる環境を整え、知的発達の促進に寄与する。

 

 エンゲルス18)は、次のような名言を残しました。

「個々の場合を世界全体との全般的連関の中で考察するや否や・・・そこでは、原因と結果とは絶えずその位置を取り替え、いままたはここでは結果であったものが、あちら、またあとでは原因になり、その逆にもなる」

 

 知的発達と人格の関係も、まさに、「いままたはここでは結果であったものが、あちら、またあとでは原因になり、その逆にもなる」関係だといえます。知的発達(原因)によって可能となった人格の形成(結果)は、「あちら、またあとでは」、その形成された人格が原因となって知的発達が促進(結果)されるのです。人が知的発達も人格の形成もすすめながら、人格の完成をめざして大人になっていく姿はこうして自然を試金石とする弁証法によって説明できる事象です。

 

 以上、みてきたように「階層-段階理論」は、可逆操作関係という人格が育つ土壌を記述できるアイテムを有するが故に、また、可逆操作力の段階が知的発達によって区切られているが故に、ヴィゴツキ-のいう最も本質的なことを説明することができる理論だといえます。

 

➁次元の階層と変換の階層を検討した結果、田中(1987)のいう各階層の2(段階の)形成期からはじまった人格の形成に必要な新しい営みは、第2の段階において、1、3段階とは区別される人格形成の拡張を引き起こしていることがわかります。(表3)

                 表3

③子どもたちは、どの段階であっても、他者との関係が存在し、可逆操作関係の中で人格を形成していきます。そして、教育はどの段階にあっても「人格の完成」(教育基本法第1条)をめざして行われます。神戸大学の小川太郎(1975)19)は、学校教育について次のような指摘をしました。

「(教育は)たんに知識・技術・能力・・の形成・発達をはかるばかりでなく、その任務をはたす、まさにそのことにおいて、意思・感情・性格など人格的な諸特性をも形成・発達させるものでなければならない」

 したがって、私たちはすべての段階において、知的発達を促す、まさにその中で、人格の形成もすすめていかなければなりません。一方、ここまでの検討からは、各階層の人格形成の拡張期(第2の段階)に可逆操作関係にゆがみがあったり、貧困なものであったりすると、知的発達と人格発達の乖離が生じる可能性が予測されます。どの子も豊かで安心できる人間関係の中で第2段階の暮らしや学びができる環境を整えることが求めらています。 

 

18)エンゲルス著、寺沢恒信訳(1970)「空想から科学へ」.大月書店

19)小川太郎(1975)「教育と陶冶の理論」.明治図書