発達保障をめざす理論と実践応援プロジェクト

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読後感想 田中昌人著「人間発達の科学」における矛盾についてついて(補足)~古い交流(交通)の手段「桎梏」(しっこく)論は誤り

「関係」の発展と、つながる「手段」の発展 ――前回ブログの後半で、気がついたことをまとめてみた

             

                   山田優一郎(人間発達研究所会員)

補足の前座(前回の続き)

 個体の「内」と、個体と他者とのつながりの「中」は同一ではないわな。「内」と「外」なんやから。そして、つながりの「中」のことでも可逆操作関係がかわるということと、関係の中でどんな交流手段が使われるのかは別の話しやね。関係の発展とつながる手段の発展の違いは図にするとよくわかる。

         「関係」の発展と、つながる「手段」の発展

  えらい、ちがいやな~

 

 だから、関係の発展と、つながる方法(交流の手段)の発展とは別の原動力がひきおこすことになってる。で、弁証法では、「関係」(A)の発展は、可逆操作力(=生産力)と可逆操作関係(=生産関係)の矛盾による発展ということになっているんや。これが社会科学でいう「~との矛盾」や。

 

 ほなら、(B)をひきおこす矛盾は何やね。

 

 残るはひとつしかない。自然科学でいうところの「内部矛盾」というやつや。両方ごっちゃにしたら、エライことになるぞ。目の前でおきている現実とちがう結論になるんや。

 

 なんでやね?

 

 下図のように「内部矛盾」と「外部(関係)の矛盾」では、質的変化をひきおこすシステムがちがうんや。一方は自然科学でいうところの「内部矛盾」やし、もう一方は、社会科学でいうところの、普通の「矛盾」やから、ちがってあたりまえ。

 

 さっきからいってる、その××科学というのは、何やね。

 

 かんたんにいうと、自然科学というのは、自然がつくりだしたものについて研究する。社会科学というのは、人間と人間の関係から生み出されたものを研究する。

 

 ふ~ん。だから発展の仕組みは、ちがうんか。

 

 そのとおり。

             「内」「外」矛盾の対比図

 で、最初の話しにもどると、「外部(関係)の矛盾」を「内部矛盾」としてしまうと、能力の発達の説明は、上の図の「間柄」のところに(能力)をいれるしか道がなくなる。

 

 上へいくのはそこしかないんやから、しょうがないんちゃう?

 

 そこなんやけど。そうなってしまうと弁証法によって発見されているルールと食い違いが出てくるんや。よく、みてや。能力と能力の対立からは、日々進歩と日々進歩なので、ちっとも矛盾はおこらへん。矛盾がおこらないと発達もせ~へんのや。

 

 えらいこっちゃがな。

 

 関係(A)が発展することと、そこでどんな交流の手段(B)(=能力)を使うのかが、ごっちゃになるのは、「内」と「外」のまちがいがあると避けることができない。というか、それしか道がのこされていなかったともいえる。しかし、相手はギリシャ時代からの伝統を誇る弁証法やから、結果は、見事に現実の子どもの姿とは、ちがう結果になるんや。

 

 へえ~。そんなもんかいな。

 

 ほら、もう時間や。はよう学校いかな、遅刻するで。

 

 どんな子やねん。

 もう、ええわ。

 

ブログ番外④の補足~前段階の古い交流(交通)の手段は、「桎梏」(しっこく)になるのか

 

「階層-段階理論」では、次のように説明する。

 

「子どもが以前に獲得したその(前段階の古い)『交通の手段』を用いるだけでは、自分自身の力をのばしていくことはできない。その意味で『桎梏』となる」

 

 桎梏(しっこく)とは、「自由な行動を妨げるもの.束縛」(「現代国語辞典」.三省堂)のことである。たとえば、書き言葉(文字など)獲得期において「(前段階の古い)交通の手段」、ことばは「桎梏」になるという。

 さて、そのような現実はあるのだろうか。

 世界の多くの国々で義務教育の始まりは6・7才である。世界の各地で書き言葉は、教育によってこの時期に獲得される。

 

 小学校1年生の授業風景はどうだろう。小学校2年生の授業風景はどうだろうか。先生と児童のことばのやりとりは、書き言葉獲得の「桎梏」になるのだろうか。現実をみれば、書き言葉の獲得にとって、ことばは、「桎梏」どころか必要不可欠なものだということがすぐわかる。

 以下は、群馬県教育委員会が提供している小1、「ひらがなをかこう」2時間目の授業紹介である。1)

 

「きょうは、ひらがなを書こう、ということで勉強していきたいと思います。」

 

 「ぜんかいは、あ、い、う、え、お の読み方について勉強しましたね。

 そして、鉛筆のもち方、姿勢、そしていろいろな線を書きました。きょうは、いよいよひらがなをかきます。」

 

「今日勉強したいひらがなは、(文字を示して)、て、く、つ、の三文字です。

それでは、さっそく書いてみましょう。」

 

(黒板を指さして)「このような四つの四角があることに気づきますね。このことを1の部屋2の部屋、3の部屋4の部屋というような言い方をします。それではさっそく て の字を書いてみたいと思います。て の字は1の部屋からスタートします。1の部屋から右上にあがるように書き、中心の線のところをとおり、最後、こうして とめます。」

 

「みなさん、書いてみましょう。」

 

書けるのを待ってから)

「どうですか?(まちがいの手本を書いて)このような て の字を書いている人はいませんか?」

 

 ここで、「先生、これでいいですか?」と自分のノートを見せる子がいるかもしれない。字を書き始めたばかりの子どもたちは、ボクもボクもと次々、先生にみてもらいたがる。まちがいを指摘されたいからではなく、誉めてもらいたいからである。

 

 もう、これで、書き言葉の獲得には、ことばを理解し、ことばを発することが必要不可欠だということがわかる。おそらく、寺子屋の「手習い」から学校教育の「授業」まで、昔も今も書き言葉の獲得期にことばのやりとりなしでは、文字の学習は進まなかったのではないだろうか。

 

 大人のように読み書きができるようになりたいというのは、子どもの内からわきおこる自然の摂理である。ところがその時、「ことばを用いるだけでは、自分自身の力を伸ばしていくことはできない」と感じる子どもはいるのだろうか。逆である。みてきたように子どもたちは、まだことばを必要としている。

 

 「自然は弁証法の試金石である。」(エンゲルス2)

 

 この局面におけることば「桎梏」論は、子どもたちの現実(自然)を反映していない。以下、なぜ、こんな結果になったのかをみていく。

           

           「内」「外」矛盾の対比図

 田中は図右「外部(関係)の矛盾」も「内部矛盾」(「科学」P181)とした。それには、時代的な背景があってのことであった。3)

 結果、図の「間柄」4)のところに能力である「ことばの段階」をいれることになる。これで、書きことばの段階への発展が説明できるからである。

 すると、どうなるか。

①対立物は、日々進歩する能力と日々進歩する能力になり、矛盾はおこらない。したがって、発達はしないことになる。

②図右で示しているように「外部(関係)の矛盾」における矛盾の拡大は、可逆操作力と可逆操作関係の矛盾の拡大である。そして、「間柄」のところにいれたことばの活動は、固定する傾向をもつことになる。そうでないと日々進歩する可逆操作力との矛盾が生じないからである。つまり、ことばの量的拡大はすすまないことによってのみ矛盾が拡大するという大変な事態に陥る。

③さらに桎梏の対象になるのは、2次元可逆操作期における人と人との関係であり能力ではない。発達における能力は、一度獲得したら不可逆的に獲得される。弁証法では、図で示されているように大切に育ってきた能力は、桎梏の対象にならない仕組みになっている。桎梏になるのは、関係(間柄)である。

④そもそも笑顔、喃語、ことばなど交流の手段は、日々進歩していく能力であり、「間柄」のところにいれることはできない。それはなぜか。能力は、「ものごとを成し遂げることのできる力」5)であり、立場の違いとして示される関係(間柄)ではないからである。「おはしをもてる間柄」「歩ける間柄」「ことばを話せる間柄」などという日本語は存在しない。なぜなら、おはしを使えるのも、歩けるのも、ことばが話せるのも「ものごとを成し遂げることのできる力」(=能力)だからである。

⑤同じ理由で書き言葉も、世界の子どもたちが同じ年令期に獲得する能力であり、字がかける関係(間柄)ではない。「書き言葉の段階」として表現される能力である。

 

 自然を試金石とする弁証法の核心部分のまちがいは、子どもの現実(自然)と大きくかけ離れた結果を導く。その結果が、ことば=「桎梏」だったといえる。

 

おわりに

 みてきたように関係(「間柄」)のところに「能力」をいれざるを得なかったのは、「内」と「外」の誤認からくる必然的なものだった。(「前座」)

 そして、それは時代的な背景があってのことだった。

 きっと、「階層-段階理論」は、田中が生きた時代の時代的制約を乗り越えることができる。ことばから書き言葉への移行も、田中自身が「科学」第1章で説明してきたもうひとつの「必須矛盾」(図左)6)によって説明可能だと思われるからである。

 

1)YouTube授業「ひらがなをかこう(2)」国語/小1 群馬県

2)エンゲルス著、寺沢恒信訳(1970)「空想から科学へ」.大月書店

3)本ブログ番外④

4)「関係」は=「間柄」と同義である。(「現代国語辞典」.三省堂

5)前掲4)

6)「当該可逆操作の操作変数をもうひとつ増やしたものを発達にとっての必須矛盾として・・たとえば、1次元可逆操作の獲得期には2次元の、2次元の可逆操作の獲得期には3次元の、3次元可逆操作の獲得期には、1次変換の・・・ふさわしいとりいれかたをして運動・実践を産出する」

 田中昌人(1980)「発達の科学」.青木書店.P155~156

 

▲読んでいただいた皆さんへ

 前回から、田中昌人の「人間発達の科学」について、わかりにくさの原因は著者にあるという前提にたって、収録されている論文の一部を検討しています。今回の検討で長いあいだ抱いていた違和感がストンッと胸に落ちました。私のほうの誤解、まちがいがあった時(誤字・脱字含む)は、その都度修正削除の予定です。ご指摘をいただけると有り難いです。