発達保障をめざす理論と実践応援プロジェクト

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英語(単語)学習の記録⑤ Tanaka's Criticism of Piaget's Theory 

 ピアジェ理論は、「記載」(description)なのか。ビアジェは、可逆性の成立を一つの段階の問題として捉えているか。ピアジェの発達理論は、連続説なのか。                                 

   

                    山田優一郎(人間発達研究所会員)                                                                     

 

第4節 連続的進歩によって可逆性は成立するか。

全文は以下のとおり。

参考資料

 ピアジエがこの可逆性成立の過程を連続的進歩ないし漸進的構造化の過程においてみていたことは明らかである。即ち, 「労多き構築の経過の中で,それは不可逆的な行動から 始まって,主体が主体自身の諸活動についてなす模索と経験を経た後で,初めて可逆的な諸操作 の域に達する」「漸進的な諸協働と可逆性とによって性格づけ られる連続的な過程 (processuscontinu)の最終的な均衡の形態として現われる」と述べ,「先ず 長い間にわたり不可逆的なままに留まり」「これらの諸操作は長い進展の流れの中で,このように可逆的になる」, 「操作的な可逆性は,ゆっくりとした進展の所産」,「もろもろ な諸調整の漸進的な均衡化が可逆的な合成に到達する」,「諸行為 の漸進的な可逆性によって特性づけられる知能の発達」というよ うに漸進的連続に基く均衡化を強調している。 彼の場合, リズム的諸構造や諸調整において,フィードバック・ループにおけるミクロな秩序 からマクロな秩序が構成される引込み現象を用いてこれを説明すること等はしていない。又,コ ペルニクス的転回といっても,どちらかといえば,長い漸進的な構造化への移行の据野における 労多き過程に位置づけられているとみられる。

  ビアジェの発達認識は,ワロンの「下からの」それに比して. 「上からの」で あると指摘されてきたが,彼の発達認識の基本には,成人の心理構造に対する児童の順応という 必然的性格が仮説としてあることはルシュランらによっても指摘されてきた。 如何にして一定の均衡に必然的に到達するかを示すのに, それを漸進的連続的な社会化していく過程として認識し,児童はその順応に反抗しつつ,不順応性に刺激されなが らも,除々に周囲の成人からの影響が滲み込んでくるとみているのである  尚,ワロンはピアジェの理論が記載であって説明ではないことを厳しく批判してきた一人であ るが,それはやはり妥当性をもつといわざるを得ない。確かにピアジェは発達を環境と主体との同化と調節の働きを基本において認識してきた。 しかし彼 においては,「成長していく可逆性は均衡への歩み」とした上で,この均衡は外部からの撹乱に対する能動的・予期的な補償の活動としてあるとみる。「完全に均衡化された修正の体系」あるいは「自己制御による均衡化の過程である。「知能とは,同化と調節との間の均衡である」ともいっている。確かに彼は可逆 性を単独に用いてはいない。「実行的な可逆性と結合性」とか, 「可逆的で結合的な合成」とか,「諸操作の可逆性と結合性とによって, 全体の不変性を決定す る」といっている。同一性と可逆性との関係についても,メイエルソン (Meyerson, E.) の所論に批判的な吟味を加えた上で,最終的には基本構造に収束するものとしてこれらを認識している。しかし,遂に,具体的同一性を同一性と差異性との弁証法統一において把えることはできていない。又,可逆性の成長の記載はあっても可逆性の発達の説明はないのである。 ビアジェは構造の動的な安定性を保証する変化の,元へ戻る可能性を可逆性とも呼んでおり, 可逆性に一定の内容と高度の安定性を与える基本機制としての位置を与えている。しかし,そこ に至る迄の長い漸進的な過程における安定性,生産性やその逆の性格は,どこまでも顕応と順応 への対抗であって,生成現象に不可欠な可逆性という,或いはそれに匹敵するまとまった構造が 与えられるには至っていない。例えば, リズム構造といい,諸調整という時,それは一定の内容 と安定性や生産性を持ち,相対的に独立した結合性なり可逆性を持った構造がなければ,動的協 同性を示して,より高次のエネルギーなり,新生物を生みだすことはできない筈である。可逆性のない構造が不可逆的な生成を遂げていくことはできないとみられるからである。半ー可逆性或 いは半ー可逆的諸構造等という「半ば均衡化され且つ近似的にのみ補償される」とする不確定な可逆性によって, 人類の進化における重要な遺産である直立二足歩行や話し言葉を各個体発生において獲得させうるとみるのは無理である。書き言葉の獲得による諸構造の変化も直観的調整活動において成し遂げられるとみることは難しい。ヒ゜アジェのいう可逆性の成立期が多くのことを成し遂げることは事実であるが, それが成立し始める 7オまでの生成において成し遂げられている多くのことは,可逆性の成立への移行過程において,事のついでに成されてきたに過ぎないことなのであろうか。又, ピアジェ のいう可逆性の成立の「説明」では,むしろそれ以後の知能の発達の高次化は留まってしまうことになりはしないだろうか。彼の論では,発達退行や老化の説明も困難である。 論者によって異るとはいえ,発達段階とその基本的順序性をとりだすことができ,又, ビアジェのいう可逆性の成立までの幾つかの時期において発達の停滞がみられ易いときがあり,且つその停滞は,即退行に移るのではなく人格発達を進めうること等が認められている。これらの現象 を説明するためには,発達における不可逆性を支える可逆性の継起的存在を認めざるを得ないのではないだろうか。ピアジェも,発生をある構造から別の構造への移行だけでなく,「状態Aから 出発して, Aよりも安定した状態 Bへ到るある型の変換と述べ ている。

 発達が基本的には不可逆的に進んでいることを認めるならば,そのいずれの段階においても,その不可逆性を保障するそれぞれの段階の可逆性の成立がなければならず,その各段階に おける可逆性の成立の困難さ,貧困さ等が発達障害や停滞,退行,老化を合法則的に認識し,且つそこにおける人格発達の開かれた道を明らかにしていくことにもなるのではないだろうか。 ビアジェが,彼のいう可逆性の成立過程だけを本質に迫った唯一つのものであるとしてみるのであるならば,それが成立するまでの過程には可逆性は成立しないとせざるを得ないであろう。 しかし,彼が実在に対して次のように述べていることは重要である。即ち「宇宙に働きかけ操作を及ぽす我々の諸々の可能性を表現している可逆的な諸機構とは反対に,不可逆的な機構は,それら諸々の機構の内奥の諸過程をいい現わし得る我々の諸操作が欠けているが故に,表象され得ないものの尺度段階に位置づけられている」と。 であるならば,ヒ゜ァジェは,発達を実在として,何故そのように認識しないのであろうか。即ち,彼のみる可逆性の尺度段階を相対化し,一つの段階で成立することを認めつつその前後の段階では可逆性等の尺度が変るとするのである。そもそも発達では尺度段階の発展が不可欠である筈である。にもかかわらず,彼は発達においては一つの尺度段階を絶対的なものとみて,それまでの発達過程のすべてをその尺度段階から評定し,半ー可逆性等というカテゴリーを配置している。そのようにするのではなくして, 発達的に原初的であり,且つ内奥になっている諸過程に則した可逆性の尺度段階を発展的に明ら かにしていくことが大切なのではないだろうか。それによって,尺度段階は発展し,不可逆的な 活動を可逆的な操作に変え,二重の生産機制に新しい質をもたらしつつ,その生産機制を不可逆的なものとして位置づけ発展させていく過程を見出していくことができると考える。この方向で 理論的再構成を進めていくことによって, ヒ°アジェのいう可逆性の成立過程の認識もさらに本質的に深まって,普遍的発展過程の中の特殊に位置づくと考える。この道において初めて発達のパ ースペクティヴが拡大され,これまでにヒ°アジェが得てきた結果は限定された認識過程の場合と して自己の内に含みこむような,より全体的•発展的な理論体系が開かれていくであろう。それによって,彼のいう可逆性の成立以前の人格発達との関連や,可逆性成立以後の全体的発達や発達における退行,老化とそこにおける人格発達の理論構成にも道が開けると考える。彼が早くから指摘している, 発達におけるずれに関する敷写しの法則とか, 脱中心化の理論も,そこでいわれている事実に新しい説明ができるようになるであろう。 彼の発達論は,ダーウィン (Darwin,C.) の進化論と同様に発展過程全体を漸進的連続性に帰着させているが,両者の秀れた知見や理論体系の進歩性を認めると共に,共通する問題として, 弁証法的否定なしに系を維持する質の転化や発展可能性,発達の場合には可逆性の不可逆的高次化等が成し遂げられると考えることはできないという点からの批判が必要であろう。

 

 この文章の全文はあまりにも長くChatGPTに要約を拒否された。そのため少しカットした上「上記文章を要約し、5項目にまとめてください」とお願いした。すると、次のように返事がきた。

 

「もちろんです。以下に5つの項目にまとめました。

1.可逆性の成立過程

    • ピアジェは、可逆性の成立を連続的進歩や漸進的構造化の過程と捉えています。不可逆的な行動から始まり、主体の活動を通じて徐々に可逆的な操作に達するとしています。
  1. 漸進的な均衡化
    • ピアジェは、発達過程を漸進的な均衡化として強調しています。彼はリズム的構造やフィードバック・ループを使わず、長い時間をかけて構造が安定化する過程を重視しています。
  2. 批判と限界
    • ピアジェの理論は、発達過程を記述するだけで説明が不足しているとの批判があります。特に、発達の停滞や退行の説明に不十分であり、彼の理論は発達過程全体の理解には限界があると指摘されています。
  3. 不可逆性と可逆性の関係
    • 発達過程は基本的に不可逆的であり、各段階での可逆性の成立が不可欠とされています。ピアジェはこれを一つの段階の問題として捉えていますが、全体的な発展理論には各段階の可逆性の成立が重要です。
  4. 発展的理論体系の必要性
    • 発達理論のパースペクティブを拡大し、より全体的・発展的な理論体系を構築することが求められます。これにより、可逆性の成立以前や以後の発達や退行、老化のプロセスについても包括的に説明できるようになります。」

 

考察メモ

 ここで教材としている田中論文は、1980年のものである。44年たった現在、すでにこれらの批判に対し、ピアジェの側からの反論があり、決着している可能性を否定できない。わたしの手元にひとつだけ、ピアジェ批判に応えた論文がある。ピアジェ研究の第一人者、中垣 啓氏のものである。とりあえず、以下、田中のピアジェ批判に関連するピアジェの側からの反論をいくつかを紹介する。

 

   中垣 啓(2011)「ピァ ジ ェ 発 達 段 階 論の 意 義 と射 程」

    「発 達 心 理 学 研 究」 2011,第 22巻 ,第 4号 ,369−380

 

『はじめに』~ビアジェの理論は「記載」(description)なのか。

答え

→どん な学 問 に お い て も,そ れ が 科 学 とな りうる た め に まず 取 り組 まな けれ ば な ら な い 基 本 的作 業 とい うもの が あ る 。生 物 学 にお い て は生 物 を分 類 し,その 系統関係を 明らか に する 作 業 で あ り,地質学 にお い て は地層 を階層 分 け し,年代順 位 を決 定す る作 叢 で あ る。発 達 心理 学 に お い て 発 達 を段 階 分 け す る こ と は ,生 物 学 にお け る分類 学 ,地質 学 にお け る 層 位学 に 匹 敵 す る基 本 的作 業 で あ り,発達 心理 学が 科学 た りうる た め に 不 可 欠 な 営 み で あ る (Piaget,ユ956 )。 発 達 を段 階 分 けす る こ とに よ っ て,初 め て 事実 の 記載を 超 えた 発達 過程 の 解析 が 可 能 とな る の で あ るか ら,発 達段階は発達心理 学研究に お け る基 本 的 道具 と して の 位 置 を占 めて い る。こ の 根本的観点 を見 失 う と発 達心 理 学 は科学 で あ る こ とを放 棄 し,事実の 記 載 ,一種 の ドキ ュ メ ンタリーに と どまっ てしまうで あ ろ う。

 

『問い』:ピ ア ジ ェ は 知的操作 を 基準 に 知 能の 発達 段 階 を 設 定 した。では、‘’知的操作“ とは 一体 何 で あ ろ う か 。

答え

→知的操作とは 主体 が 対 象に 働 きか けて ,対 象 を分 けた り, ま とめ た り,ある い は ,並べ た り,対応づけた りす る対象変換行為 の 一般 的協応 に 由来 し,将 来的 に 論 理 数 学 的 認識 として 結 晶化 し て い くこ となる行為の 一般 的形 式 で あ っ て ,次の よ うな 条件 を 満 たす もの を い う (Piaget, 1953>。

1) 内化 され た 行為 で あ る こ と,

2行為 と。

内化 さ れ た 行為 が操 作 と な る た め に は ,その 行為 の 結果 を元 に 戻 す 行為 (逆 の 行為) や 行為 に よ っ て もた ら された 効 果 を打 ち消 す行 為 (補償 の 行為 )が常 に存在 して い る こ とが必 要 で あ る 。

3) 何 ら か の 保 存 を前 提 と した 変 換 で あ る こ と,

4) 知 的 操 作 は 全体 構 造 に よ っ て 特徴 づ け られ る こ と

 

『問い』:発達の運続性・不連続性をどうとらえるか。

答え

→知的操作の 発達段 階 は子 どもの 発達 を語る た め に便宜上 設 定す る の で は な く,自然 な 区切りに対応 した もの で ある 。 この 観点 はピ ァ ジ ェ の 発 達段 階基準 の 1 つ で あ る 「全体構 造」 に反映 さ れ て い て ,こ の 意味 で は ピア ジ ェ の 発 達観 を発達 の 不 連続説 とみ なす こ とが で きる 。 しか し,ピ ア ジ ェ の 発達観 を単純な不 連続説 と見 なす こ と は で き な い 。具 体 的操 作 は 感 覚運 動 的 知 能の 獲得物 を表象 の 水 準 に お い て 再 構築 した も の で あ る 。また ,形 式的操作 は具体 的操 作の 獲得物 を二 次 的操 作の 水準 で 再 構 築 した もの で あ る 。こ の よ うに ,ある 段 階の 達 成物 は 前段 階 に お い て 獲得 し た もの の 分化 と統 合に よ る とい う 発達 の 運 続 性 を 絶 え ず 強調 し て い る。 こ の 観 点 は ピ ァジ ェ の 発 達 段 階基 準の 1 つ で あ る 「統合 性 」 に 反 映 さ れ て い る 。し た が っ て ,新 し い 構造 は古い 構 造 か ら抽象 され る再 構築 で あ る とい う観点か ら見 れ ば 発 達は 連続 的 で あ る 。し か し,新 しい 構 造 が 古 い 構 造 に は 還元 し得 な い 創発 的特性を持つとい う観 点か ら見れ ば,発達 は不 連続 的で ある 。 そ れ ゆ え ,ピ ア ジ ェ の 発達観 は発 達 の 速 続 説で も不 連続 説 で も な く,両 者の 対 立 を止 揚 した 弁証 法的 発 達 観で あ る。

 

 そして、中垣は次のようにつけ加えている。

→こ の よ うに ,ピ ア ジ ェ の 発 達段 階論 は「発達 は連続 的か ,不 連 続 的か 」 とい う古 典的問題 に対 して首羅 一貫 した 説 明 を与 え る こ とが で きる (Piaget, 1970/2007 , p.59) の で あ る 。

 

 さて、次回から第5節(「可逆操作の高次化における階層-段階理論」から)を英訳しながら単語の勉強をすることになるのだが、気か重い。うっかりするとピアジェへの誤解をひろげる。 第5節におけるたとえば、

 

ピアジェのように1つの漸進的、連続的進歩の過程とだけはみない」(第5節 田中)

→しかし、みてきたようにピアジェの側は、単純な連続説ではないと主張している。たしかに段階が自然の区切りに依拠しているならば自然界には階層が存在するから、不連続説だともいえる。

 

ピアジェのようにいわば唯一つの『可逆性の成立』」(第5節 田中)

→何度も確かめてきたようにピアジェは、操作の中に可逆性を含めている。したがって「可逆性の成立」を唯一とはしていないのではないだろうか。

 

 ピアジェ批判に応えた先の中垣論文は2011年、田中没後6年のものである。おそらく、第5節におけるピアジェ批判は、妥当するものとそうでないものが混じっている。ゆっくり読み込んでいけば、「たしかにそうだ」と納得できるものと「それはどうか」と判断しかねるものがある。したがって、英語学習以前に第5節をしっかり理解していくためには、相当な前さばきを必要としている。どうしたものか。