発達保障をめざす理論と実践応援プロジェクト

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46年前の疑問、発達の中核を探す旅(番外編⑤)田中昌人著「人間発達の科学」における矛盾について補足

  「関係」の発展と、つながる「手段」の発展

       ――前回ブログの後半で、気がついたことをまとめてみた。

             

                   山田優一郎(人間発達研究所会員)

補足の前座(前回の続き)

 個体の「内」と、個体と他者とのつながりの「中」は同一ではないわな。「内」と「外」なんやから。そして、つながりの「中」のことでも可逆操作関係がかわるということと、関係の中でどんな交流手段が使われるのかは別の話しやね。関係の発展とつながる手段の発展の違いは図にするとよくわかる。

         「関係」の発展と、つながる「手段」の発展

  えらい、ちがいやな~

 

 だから、関係の発展と、つながる方法(交流の手段)の発展とは別の原動力がひきおこすことになってる。で、弁証法では、「関係」(A)の発展は、可逆操作力(=生産力)と可逆操作関係(=生産関係)の矛盾による発展ということになっているんや。これが社会科学でいう「~との矛盾」や。

 

 ほなら、(B)をひきおこす矛盾は何やね。

 

 残るはひとつしかない。自然科学でいうところの「内部矛盾」というやつや。両方ごっちゃにしたら、エライことになるぞ。目の前でおきている現実とちがう結論になるんや。

 

 なんでやね?

 

 下図のように「内部矛盾」と「外部(関係)の矛盾」では、質的変化をひきおこすシステムがちがうんや。一方は自然科学でいうところの「内部矛盾」やし、もう一方は、社会科学でいうところの、普通の「矛盾」やから、ちがってあたりまえ。

 

 さっきからいってる、その××科学というのは、何やね。

 

 かんたんにいうと、自然科学というのは、自然がつくりだしたものについて研究する。社会科学というのは、人間と人間の関係から生み出されたものを研究する。

 

 ふ~ん。だから発展の仕組みは、ちがうんか。

 

 そのとおり。

             「内」「外」矛盾の対比図

 で、最初の話しにもどると、「外部(関係)の矛盾」を「内部矛盾」としてしまうと、能力の発達の説明は、上の図の「間柄」のところに(能力)をいれるしか道がなくなる。

 

 上へいくのはそこしかないんやから、しょうがないんちゃう?

 

 そこなんやけど。そうなってしまうと弁証法によって発見されているルールと食い違いが出てくるんや。よく、みてや。能力と能力の対立からは、日々進歩と日々進歩なので、ちっとも矛盾はおこらへん。矛盾がおこらないと発達もせ~へんのや。

 

 えらいこっちゃがな。

 

 関係(A)が発展することと、そこでどんな交流の手段(B)(=能力)を使うのかが、ごっちゃになるのは、「内」と「外」のまちがいがあると避けることができない。というか、それしか道がのこされていなかったともいえる。しかし、相手はギリシャ時代からの伝統を誇る弁証法やから、結果は、見事に現実の子どもの姿とは、ちがう結果になるんや。

 

 へえ~。そんなもんかいな。

 

 ほら、もう時間や。はよう学校いかな、遅刻するで。

 

 どんな子やねん。

 もう、ええわ。

 

ブログ番外④の補足~前段階の古い交流(交通)の手段は、「桎梏」(しっこく)になるのか

 

「階層-段階理論」では、次のように説明する。

 

「子どもが以前に獲得したその(前段階の古い)『交通の手段』を用いるだけでは、自分自身の力をのばしていくことはできない。その意味で『桎梏』となる」

 

 桎梏(しっこく)とは、「自由な行動を妨げるもの.束縛」(「現代国語辞典」.三省堂)のことである。たとえば、書き言葉(文字など)獲得期において「(前段階の古い)交通の手段」、ことばは「桎梏」になるという。

 さて、そのような現実はあるのだろうか。

 世界の多くの国々で義務教育の始まりは6・7才である。世界の各地で書き言葉は、教育によってこの時期に獲得される。

 

 小学校1年生の授業風景はどうだろう。小学校2年生の授業風景はどうだろうか。先生と児童のことばのやりとりは、書き言葉獲得の「桎梏」になるのだろうか。現実をみれば、書き言葉の獲得にとって、ことばは、「桎梏」どころか必要不可欠なものだということがすぐわかる。

 以下は、群馬県教育委員会が提供している小1、「ひらがなをかこう」2時間目の授業紹介である。1)

 

「きょうは、ひらがなを書こう、ということで勉強していきたいと思います。」

 

 「ぜんかいは、あ、い、う、え、お の読み方について勉強しましたね。

 そして、鉛筆のもち方、姿勢、そしていろいろな線を書きました。きょうは、いよいよひらがなをかきます。」

 

「今日勉強したいひらがなは、(文字を示して)、て、く、つ、の三文字です。

それでは、さっそく書いてみましょう。」

 

(黒板を指さして)「このような四つの四角があることに気づきますね。このことを1の部屋2の部屋、3の部屋4の部屋というような言い方をします。それではさっそく て の字を書いてみたいと思います。て の字は1の部屋からスタートします。1の部屋から右上にあがるように書き、中心の線のところをとおり、最後、こうして とめます。」

 

「みなさん、書いてみましょう。」

 

書けるのを待ってから)

「どうですか?(まちがいの手本を書いて)このような て の字を書いている人はいませんか?」

 

 ここで、「先生、これでいいですか?」と自分のノートを見せる子がいるかもしれない。字を書き始めたばかりの子どもたちは、ボクもボクもと次々、先生にみてもらいたがる。まちがいを指摘されたいからではなく、誉めてもらいたいからである。

 

 もう、これで、書き言葉の獲得には、ことばを理解し、ことばを発することが必要不可欠だということがわかる。おそらく、寺子屋の「手習い」から学校教育の「授業」まで、昔も今も書き言葉の獲得期にことばのやりとりなしでは、文字の学習は進まなかったのではないだろうか。

 

 大人のように読み書きができるようになりたいというのは、子どもの内からわきおこる自然の摂理である。ところがその時、「ことばを用いるだけでは、自分自身の力を伸ばしていくことはできない」と感じる子どもはいるのだろうか。逆である。みてきたように子どもたちは、まだことばを必要としている。

 

 「自然は弁証法の試金石である。」(エンゲルス2)

 

 この局面におけることば「桎梏」論は、子どもたちの現実(自然)を反映していない。以下、なぜ、こんな結果になったのかをみていく。

           

           「内」「外」矛盾の対比図

 田中は図右「外部(関係)の矛盾」も「内部矛盾」(「科学」P181)とした。それには、時代的な背景があってのことであった。3)

 結果、図の「間柄」4)のところに能力である「ことばの段階」をいれることになる。これで、書きことばの段階への発展が説明できるからである。

 すると、どうなるか。

①対立物は、日々進歩する能力と日々進歩する能力になり、矛盾はおこらない。したがって、発達はしないことになる。

②図右で示しているように「外部(関係)の矛盾」における矛盾の拡大は、可逆操作力と可逆操作関係の矛盾の拡大である。そして、「間柄」のところにいれたことばの活動は、固定する傾向をもつことになる。そうでないと日々進歩する「力」との矛盾が生じないからである。つまり、ことばの量的拡大はすすまないことによってのみ、「力」との矛盾が拡大する。

③さらに桎梏の対象になるのは、2次元可逆操作期における人と人との関係であり能力ではない。発達における能力は、一度獲得したら不可逆的に獲得される。弁証法では、図右で示されているように大切に育ってきた能力は、桎梏の対象にならない仕組みになっている。桎梏になるのは、関係(間柄)である。

④上の図でわかるように笑顔、喃語、ことばなど交流の手段は、日々進歩していく能力であり、「間柄」のところにいれることはできない。それはなぜか。能力は、「ものごとを成し遂げることのできる力」5)であり、立場の違いとして示される関係(間柄)ではないからである。「おはしをもてる間柄」「歩ける間柄」「ことばを話せる間柄」などという日本語は存在しない。なぜなら、おはしを使えるのも、歩けるのも、ことばが話せるのも「ものごとを成し遂げることのできる力」(=能力)だからである。

⑤同じ理由で書き言葉も、世界の子どもたちが同じ年令期に獲得する能力であり、字がかける関係(間柄)ではない。「書き言葉の段階」として表現される能力である。

 

 自然を試金石とする弁証法の核心部分のまちがいは、子どもの現実(自然)と大きくかけ離れた結果を導く。その結果が、ことば=「桎梏」だったといえる。6)

 

おわりに

 みてきたように関係(「間柄」)のところに「能力」をいれざるを得なかったのは、「内」と「外」の誤認からくる必然的なものだった。(「前座」)

 そして、それは時代的な背景があってのことだった。(ブログ番外④)

 もうすぐ、2025年。田中没後20年にあたる。きっと、「階層-段階理論」は、田中が生きた時代の時代的制約を乗り越えることができる。

 ことばから書き言葉への移行も、田中自身が「科学」第1章で説明してきた「内部矛盾」(図左)7)によって説明可能だと思われる。

 

1)YouTube授業「ひらがなをかこう(2)」国語/小1 群馬県

2)エンゲルス著、寺沢恒信訳(1970)「空想から科学へ」.大月書店

3)本ブログ番外④

4)「関係」は=「間柄」と同義である。(「現代国語辞典」.三省堂

5)前掲4)

6)但し、田中自身は少なくとも下記論文以降、交流(交通)の手段を「関係(間柄)」から「能力」へと修正したものと思われる

 田中昌人(1985)「発達における階層間の移行についてⅢ~次元可逆操作の段階から変換可逆操作の階層へ」.京都大学教育学部紀要31号P50

7)第1章において内部矛盾は、次のようなものであった。

「当該可逆操作の操作変数をもうひとつ増やしたものを発達にとっての必須矛盾として・・たとえば、1次元可逆操作の獲得期には2次元の、2次元の可逆操作の獲得期には3次元の、3次元可逆操作の獲得期には、1次変換の・・・ふさわしいとりいれかたをして運動・実践を産出する」

 田中昌人(1980)「発達の科学」.青木書店.P155~156

 

▲読んでいただいた皆さんへ

 前回から、田中昌人の「人間発達の科学」について、わかりにくさの原因は著者にあるという前提にたって、収録されている論文の一部を検討しています。今回の検討で長いあいだ抱いていた違和感がストンッと胸に落ちました。私のほうの誤解、まちがいがあった時(誤字・脱字含む)は、その都度修正削除の予定です。ご指摘をいただけると有り難いです。

 

※本ブログは、しばらくの間、補強・修正(誤字・脱字含む)、削除が続きます。

 

 

 

 

46年前の疑問、発達の中核を探す旅(番外編④) 読後感想 田中昌人著「人間発達の科学」における矛盾について

「内部矛盾」、それはどこの「内部」なのか 

                     山田優一郎(人間発達研究所会員)

 

 田中は「人間発達の科学」において次のように宣言している。

 

「教育作用を含む外部要因は、発達の条件であり、発達の原動力は、内部諸矛盾である」(P176)

 

 これが、発達の原動力をめぐる論争における田中の確固たる立ち位置であり「階層-段階理論」の根幹である。

 なぜ、根幹なのか。矛盾は、「すべての運動・変化・発展の根本をなす」1)ものだからである。

 以下、検討するのは、ただひとつ。田中の内部矛盾についてである。「可逆操作力」と「可逆操作関係」の矛盾を個体内に発生する内部矛盾と同一線上で論じることの是非についてである。

1)古在由重企画、森宏一編(1971)「哲学辞典」.青木書店

 

1.田中の内部矛盾

 「人間発達の科学」における田中の記述は、次のとおり。図は筆者。

 

――各可逆操作の第1段階の形成期(たとえば、次元可逆操作の階層における1次元形成期」において、当該する発達の階層にける第1段階の内部矛盾が発生する。(以下、P181) 

①ひとつは、前階層第3段階の・・可逆操作関係と、第1段階の・・・可逆操作力との矛盾としての側面である。

              図1

     

➁いま一つの側面は、自然諸力の中に新しい質の可逆操作変数をひとつもった可逆操作力が新形成物として誕生しても、なおその水準で自己運動する新しい質の可逆操作関係は未成立であることに由来する。(矛盾である)

                 図2

 

  何度も読み返してようやくわかったのは、次の三つである。❶どちらも「内部矛盾」(の発生)であること、❷どちらも、発達の高次化をひきおこす矛盾であること、➌そして、そのどちらもが「可逆操作力」と「可逆操作関係」の矛盾だということ。

 

 「発達の弁証法2)における矛盾」というタイトルのこの論文は、超難解である。私は、数ケ月かかっても最初のページから次に進めなかった。そして、今でもよくわからない。しかし、「わからない」「わからない」と愚痴っているより「わからない理由」を考えるほうが生産的である。以下、“私”が理解不能に陥った理由をまとめた。

2)弁証法ソクラテスプラトンにはじまる「概念の真の認識に到達する方法」(「広辞苑岩波書店

 

2.田中は、「内部矛盾」の生成には、発達における「対立物の統一と闘争3)」の法則がつらぬかれているとみられる」(P156)とした。では、田中のいう「可逆操作力」と「可逆操作関係」に「対立物の統一と法則」は貫かれているか。

3)闘争=対立した性質・要素・働きが互いに排除しあい、相手を否定しようとすること。(足立正垣(1984)「唯物論弁証法」.新日本出版)対立物の定義は後述。

 

 田中は、弁証法で歴史を分析するために使われる生産力を可逆操作力、生産関係を可逆操作関係として発達(人の歴史)を説明する。

 生産力、生産関係の定義4)は以下のとおり。

 

 生産力(可逆操作力)=生産において、その社会がもっている能動的な力
 生産関係(可逆操作関係)=生産における人間と人間の関係

 

 上記、可逆操作力と可逆操作関係を田中は、次のように説明した。

「発達における段階間の移行は、不断に発展する可逆操作力とそれを実現する可逆操作関係との間の統一と闘争として行われる」(P186)

 では、田中が説明するところの上記可逆操作力と可逆操作関係は、対立物なのか。対立物でない限り、田中のいう「統一も闘争」もおこらない。

 そもそも、対立物とはどのようなものか。

 

 対立物=「一定の質のなかで統一のうちにあって、相互に他を規定しあいながら、同時に他を排除しあっている関係にあるもの」5)

 

 そして、前述の田中の説明は次のようなものであった。

 

「・・・不断に発展する可逆操作力とそれを実現する可逆操作関係・・」(田中)

 

 田中の説明をそのまま図にすると、図3のようになる。

                 図3

    

 ここで、早速、「どう理解したらいいのだろう?」と、しばらく前に進めない状態に直面する。なぜなら、田中自身が対立物でないと説明しているからだ。つまり、田中の説明どおりなら、両者とも、ベクトルは+(ポジティブ)であり、「他を排除しあっている」関係にない。図3のように励ましあう関係に対立はなく、そこには統一も闘争も存在しない。「発達における段階間の移行は、・・・統一と闘争として行われる」(田中P186)のであるから、このままでは子どもは発達しないことになる。

4)西本一夫(1974)「史的唯物論入門」.新日本出版社

5)前掲「哲学辞典」

 

 弁証法は自然を試金石としている。したがって、このストーリーは、必然的に難解なものになる。具体的にみていこう。

 

「いま一つの側面は、自然諸力(子ども)の中に新しい質の可逆操作変数をひとつもった可逆操作力が・・・・・誕生しても、なおその(前の)水準で自己運動する新しい質の可逆操作関係は未成立であることに由来する。(矛盾である)」

 

上は先に紹介した文章である。

その続きの説明は次のようになる。

 

「これは、前階層の可逆操作様式が、・・・可逆操作力以上の自然の生産をはじめたことをしめす。」(P181)

 

 生産様式(可逆操作様式)とは、「物質的財貨が、どのように生産されるかというそのしかたのこと」である。生産様式には、生産力と生産関係という二つの側面が含まれる。6)

                図4

    

 図4のように「生産力」と「生産関係」は、「生産様式」に含まれる2つの側面である。この関係で、「可逆操作様式(=生産様式)が、・・・可逆操作力(=生産力)以上の自然の生産をはじめ(る)」のである。全くイメージを浮かべることができない。生産力が高まった時は、生産様式もその生産様式になっているのであり、両者を以上、以下で比較することはできないからである。

 人の成長には、体重と身長という2側面がある。そのとき、「成長が体重以上の増加をはじめた」といわれたら、多くの人はその意味を解くのに時間がかかるのではないだろうか。要するにイミフ?状態になる。

6)前掲.西本「史的唯物論入門」

 

(続き)

「すなわち、前階層の・・・可逆操作関係は、一定の操作水準に達し、新しい階層における主導的な交通の手段を媒介とする活動系によって、前記の可逆操作力を生み、第二者との間における定位的な共有を成立させる。」

 

 これも、どうしたことだろうか。定義が明らかにしているように生産関係は、農民と殿様というような人と人との関係である。関係のありようが問題なのであって、可逆操作関係に「一定の操作水準」などは存在しない。人と人との関係で「友だち以上、恋人未満」という言い方をする場合でも、それはふたりの自由に属することであって「一定の操作水準」などという表現はしない。したがってここでも、イミフ?状態に陥る。

 思うにこの局面における量的拡大は、可逆操作力と可逆操作関係の矛盾の量的拡大であって、人とのつきあい自体が量的に拡大し一定の水準に達するわけではない。したがって、「前階層の可逆操作関係は、可逆操作力との矛盾を拡大し・・」とか、「可逆操作関係は、可逆操作力に照応したものとなり・・」とかしなければ、意味が通じない。

 

 理解に苦しむ文章がまだ続く。私は次の一文で、もう読むのをやめよう、意味がわからない、と考えこまざるを得なかった。実際に私はそうした。

 

(続き)

人格の発達力と発達関係も前階層の可逆操作関係を桎梏にかえはじめると推定される」

 

 参考  桎梏(しっこく)=「自由な行動を妨げるもの。束縛」

    人格=「人間としての、精神的な高さや深さ」

                     「現代国語辞典」(三省堂

 

 「桎梏」が出てくるマルクスの革命前夜の記述は以下のとおりである。

 

「生産諸力は、その発展がある段階にたっすると、・・・既存の生産諸関係と・・・矛盾するようになる。これらの諸関係は、生産諸力の発展の桎梏へと一変する。そのときに、一つの社会革命の時代が始まる」マルクス「経済学批判」」武田隆夫他訳.岩波書店

 

 マルクスは、上記のように前階層の可逆操作関係(=生産関係)が生産力の桎梏へと一変するのは、生産諸力(=可逆操作力)が、「ある段階に達したとき」としている。生産力(可逆操作力)と人格は別物であり、したがって、「人格の発達力」が可逆操作関係を桎梏にかえはじめると「推定」することは困難である。

 その理由は以下のとおり。

 

 マルクスの記述を時系列にならべると次のようになる。

 

 可逆操作力がある段階に達する→可逆操作力と可逆操作関係の矛盾は激化する。→既存可逆操作関係は桎梏へと一変する→(個体のではなく)、社会の革命がはじまる。

 

 さて、このドラマのどこに個体の人格が登場する場面があるのだろうか。

 マルクスの記述からわかるように生産力(可逆操作力)と生産関係(可逆操作関係)の矛盾の拡大によって、桎梏となって変革されるのは、社会の生産関係(可逆操作関係)である。したがって、「発達における段階間の移行は、不断に発展する可逆操作力とそれを実現する可逆操作関係との統一と闘争として行なわれる」(P186)とういうのも意味が通じない。というか、何かのまちがいではないだろうか。生産力(=可逆操作力)と生産関係(=可逆操作関係)の矛盾の激化を契機としてはじまる革命において、変わるのは、人(被支配者)と人(支配者)の関係であり、個々人の発達の高次化(段階間の移行)ではないからである。

 

3.冒頭で紹介したように田中にとっては、高次化を実現する矛盾が二つあり、二つとも「可逆操作力」と「可逆操作関係」である。

 そして、第1章では、1次元と2次元、2次元と3次元、3次元と1次変換・・・の矛盾こそが、高次化の原動力であった。

 

 原動力は、活動をひきおこす、もとになる力7)である。前述のように原動力の母となる矛盾は、「すべての運動・変化・発展の根本をなす」8)したがって、1次元2次元の矛盾から生まれる原動力は、何をひきおこし、可逆操作力と可逆操作関係の矛盾から生まれる原動力が何をひきおこすのかは決定的に重要である。

 みてきたように千本引きで「可逆操作力」VS「可逆操作関係」の紐でひきおこされるのは「可逆操作関係」の発展である。

 1次元から2次元への高次化は、別の紐がひきおこす。「内部」に2本の紐があり、1本の紐で、人と人との関係の発展も、個人の高次化もひきおこされるとしたとき、矛盾の発生、発展、消滅の説明で、全く辻褄があわなくなる。というか、説明が理解しがたいものになる。

7)「現代国語辞典」(三省堂

8)前掲「哲学事典」

 

 具体的にみていく。マルクスの革命前夜からの展開を図にすると次(図5)のようになる。

    図5 「生産力」と「生産関係」の矛盾の発生、発展、消滅

 さて、図5をみながら、田中の可逆操作力と可逆操作関係の矛盾の発生の説明をみていこう。

 

「可逆操作の第1段階の形成期、たとえば次元可逆操作における1次元形成期などにおいて、当該する発達の階層における第1段階の内部矛盾が発生する」(P181)

 

 果たしてそうだろうか。

 マルクスの説明からすると第1段階の形成期は、もう可逆操作力()は移行の直前であるから、矛盾はマックス、激化の時期である。もうすぐ革命がはじまるのであるから当然である。そして、可逆操作力()の第1段階への移行(3→1)とともにもはや既存の可逆操作関係(3)は桎梏に一変し革命がはじまる。ほどなく、第1段階と照応する一変した新しい可逆操作関係(1)が形成される。こうして、3と3の矛盾は解消され消滅する。しかし、新しい可逆操作関係(1)ができると同時に1と、日々発達を遂げる1との矛盾がはじまる。すなわち、矛盾の発生である。そして再び矛盾はマックスに向って発展する。(図5)

   

 ところが、上記田中の説明では、革命前夜の第1段階の形成期において、矛盾が発生して、徐々に拡大していくことになる。これでは第1段階への革命に間にあわないし、当分、革命はおこらない。

 田中はここでの矛盾の発生を「第3段階の・・・可逆操作関係と新しい階層の第1段階の・・・可逆操作力との矛盾」(P181)として、すなわち、マルクスの革命前夜の話として展開しているのであるから、これでは、理解しようにも理解しようがない。

 

 生産力と生産関係の矛盾は「生産力はたえず発展するということ、生産関係は固定する傾向をもつ」9)ことによる矛盾である。革命によって、新しい生産関係が形成され、矛盾はいったん解消、消滅するが、「新しい生産関係が形成されると同時にそこから(桎梏が取り除かれたことによって)、生産力はまた著しいテンポで発展」10)しはじめる。すなわち、新しい矛盾はそこからはじまっている。したがって、「1次元形成期などにおいて、・・・・・・・第1段階の内部矛盾が発生する」(P181)とした田中の説明は、「これは、いったいどこの矛盾の話なのか」と理解不能に陥る。

9)10)前掲.西本「史的唯物論入門」

 

 まとめると次のようになる。

 新しい可逆操作関係の形成(1)によっての矛盾は解消され消滅する。→3

しかし、新しい可逆操作関係(1)ができる。と同時に1は固定する傾向を持つので、日々発達を遂げる1との矛盾がはじまる。すなわち、矛盾の発生である。→1

 そして矛盾は移行のマックスに向って発展していく。→2

 3→1→2、と繰り返される。

 この単純な発生、発展、消滅のサイクルが田中にとってはそうならない。その理由は、弁証法で語られる自然の姿とは違っているからである。同じ矛盾でも、片や自然科学で使われる「内部矛盾」であり、片や社会科学で使用される一般的な「~との矛盾」である。どちらも、同じ矛盾ではあるが両者は全く異質なものである。したがって、両者の矛盾を同列において説明することは誰にとっても困難なのであり、意味が通じなくなるのは当然だと思われる。

 

4.もう一度、生産力と生産関係の定義を確認しておこう。

 

 生産力(可逆操作力)=生産において、その社会がもっている能動的な力 
 生産関係(可逆操作関係)=生産における人間と人間の関係

           

                図6

     

 たしかに生産関係の中もつながりの内部ではある。しかし、個体からみた時、生産関係は、個体の外にあり、そこでおこる矛盾は、個体内の自己運動をひきおこす内部矛盾とは別物である。(図6)

 個体の内部矛盾から生まれる原動力によってひきおこされるのは、高次化であるのに対し、生産関係のつながり、つまり個体の外の矛盾から生まれる原動力によってひきおこされるのは新しい可逆操作関係(人と人との関係)である。

 田中自身がいっているように両者の関係は、後者が「外部要因は、発達の条件」(田中P176)にあたり、あくまで「発達の原動力は、内部諸矛盾」(田中P176)である。以上の理解で「階層-段階理論」にとって、何の不都合もないように思われるのだがどうだろう。

 

5.ところで、交流の手段(ことばや文字の獲得)は「可逆操作関係」の矛盾から生まれるのだろうか。 

 なぜ、毎年同じ季節に台風がやってくるのか、なぜ、同じ季節に全国の桜が一斉に花をさかせるのか不思議なことである。それと同じように地球上の子どもたちが、なぜ同じ時期にことばをしゃべり、なぜ、同じ時期に文字を書き始めるのか不思議なことである。これらの現象は、子どもの内部に同じシステムが存在していると予想するほかない。地球の内部に台風をひきおこす原因があるように、桜の木の内部に春になったら開花をひきおこす原因があるように、人間の子の内部にもおしゃべりができたり、文字がかけたりする何らかの原因があるハズである。すなわち、交流の手段(ことばや文字など)の獲得も子どものうちにある内部矛盾のなせる技であり、子どもの内部におこる自己運動の結果とするほか、同じ年頃に一斉におこる現象を説明できない。したがって、世界の子どもたちが、同じ年令期におしゃべりをし、文字が書けるという現実を、現実のまま受け入れるならば、交流の手段の獲得もそれを達成する「原動力は、内部諸矛盾」(田中P176)であり、可逆操作関係など「外部要因は、発達(ことば・文字獲得)の条件」(田中P176)であると結論づけることができる。可逆操作力と可逆操作関係の矛盾の拡大によって、ひきおこされるのは、人と人との関係の発展である。さらに、関係が発展することと、関係の中でどのような交流手段を使うのかも、同一ではない。(次回、ブログ番外⑤で補足資料追加予定)

 

まとめ

 以上、「階層-段階理論」の根幹をなす、(個体内の)内部矛盾に「可逆操作関係」を含めること、あるいは内部矛盾と外部の矛盾を同一として扱うことの問題とそこから引き起こされる説明の混乱を指摘した。

 

 加藤(2017)11)がいうように、また田中自身がそうしてきたように内部矛盾と、外部要因となる矛盾は明確に区別される必要がある。12)思うに弁証法による記述は、記述して真実が担保されるわけではなく、再度、現実世界による点検が必要だと思われる。そうしなければ、子どもの発達の事実とちがう結果になるからである。個体の「内」と、個体と他者とのつながりの「中」は同一ではない。同じ年頃に現れる高次化は内部矛盾によって、実現されるというのが、自己運動で発達を遂げる子どものリアルな姿である。子どものリアルな姿に則らない説明は、それを弁証法で説明したとしても、むしろ、弁証法だからこそ子どもの現実とのズレが明瞭になる。けっきょく、「外」の矛盾である「可逆操作関係」を、個体「内」の「内部矛盾」にしたことによって、発達の現実とズレが生じ、結果、必要以上に説明が難解なものになり、そして読み手の理解を妨げているというのが、私の感想である。

 

 それにしても、この本は通常は知ることができない一般的でないことばで埋められている。一般的でないことばを使用する際は、使用する側に説明責任がある。自分だけのルールによる、自分が決めたことばの説明抜きの使用はコミュニケーションを不可能にするからである。13)使用する道具(ことばの意味)を明確にし、他者と共有できるようにしないと「ほんとうのこと」であっても「ほんとうのこと」として伝わらない。私の経験では、ことばの定義が不明確な文章は学習の素材どころか、議論の対象14)にもならない。そして、人を遠ざける。たとえ「ほんとうのこと」であったとしても、人を遠ざける。15)

11)加藤聡一(2017)「可逆操作の高次化における階層-段階理論」~三つの法則性と区別連関.人間発達研究所紀要第30号

12)中村隆一(1990)は、早くから、田中が「対立しながら、他を抜きには存在し得ないう互いの結びつきを明確にしていない」ことを指摘していた。(「人間発達研究所通信」NO29)中村の指摘は、田中58才の時のものである。みてきたように田中が47才の時の論文で説明した可逆操作力と可逆操作関係は、対立物になっていなかった。中村の指摘は、「階層-段階理論」全体の核心をつくものであったが、田中はどう応えたのであろうか。中村が指摘した対立物(の相互浸透)を明確にしないままの論の展開は、その後も続き、新しい発達の原動力の説明でも苦労する結果を招いている。

13)加藤直樹(1990)は、「階層-段階理論」を念頭に「発達理論を学ぶと子どもが見えなくなる」という声を紹介している。(「人間発達研究所通信」NO29)

14)「発達の弁証法における矛盾について」の論文は、1979年、雑誌「唯物論」に掲載されたものである。田中は、その道の専門家である弁証法唯物論の研究者たちに批判検討をお願いしたかったのだろう。しかし、唯物論の研究者たちは、指摘しなかった。それは、論文の意味を理解するための中心概念、「可逆操作」の定義がされていないことによるのではないだろうか。「可逆操作」の定義がないと、他学問領域の研究者たちは、可逆操作力も可逆操作関係もよくわからない。世界を認識するための言葉の厳格な意味を問い続ける彼らは、使用されていることばの定義が不明確な論文を批判検討の対象にしない。だから、「指摘しなかった」のではないだろうか。しかし、聡明な田中は、指摘がなくても、早晩気づいていたのではないかと、私は思っているのだがどうだろう。

15)内田樹(2022・3・4ツイート)「発信者にとっては、『届く言葉』とはどうものかを真剣に吟味することが優先的な課題となる。『正しいこと』であれば、必ず届くという楽観はたぶん許されない」

 

資料

「発達における段階間の移行は、不断に発展する可逆操作力とそれを実現する可逆操作関係との間の統一と闘争として行なわれる」(P186) 

 上記の文章は、田中、47才の時のものである。

 それより、少し前45才の時、「質的変化への転化は、この内部矛盾の発現にほかならない」(P155)としている。したがって、田中にとっては早くから可逆操作力と可逆操作関係の矛盾は、高次化を実現する内部矛盾だったと思われる。

 もちろん1次元から2次元への移行も「対立物の統一と闘争」がつらぬかれている内部矛盾(P156)である。

 

 なぜ、田中は、「可逆操作関係」の矛盾を内部矛盾としたのか。これは、天才、田中の「弘法にも筆の誤り」なのか、時代の制約だったのか。それとも、私の誤解なのか。最後の説の可能性も大なのだが、せっかくここまできたので、時代の制約説1)にたって、田中の弁護を試みたいと思う。以下、ふたつの資料を検討した。

 

①1960~70年代、弁証法唯物論を学んだ多くの人たちが教科書にしたのは、大月書店のマルクス・エンゲルス選集だったと思われる。(勝手な推測)例の有名な文章が載っているのは同選集の補巻3である。古い書籍(1951年版)を図書館から取り寄せると次のようになっていた。

 

「社会の物質的生産諸力は、その発展のある特定の段階で、それらが従来その内部運動してきた現在の生産諸関係と、あるいはそれの法律的表現にすぎないところの所有関係と矛盾するようになる。これらの諸関係は、生産力の発展諸形態からその桎梏に急変する。そのときに、一つの社会革命の時代が始まる」(P3)

 

 上記のように1951年の出版物では、「その内部で」、さらには、「運動」とあり、物質内部の細胞運動を連想させる。この一文から、生産諸力と生産諸関係も、物質、あるいは固体の自己運動における同じ「内部矛盾」と読み取った研究者がいても不思議ではない。ひょっとしたら、田中もそのひとりだったのかもしれない。

 

➁しかし、驚くことに①の発刊から58年後2009年第46冊「経済学批判」(岩波書店)に収録されている同じケ所の一文はかなり違ったものになっていた。

 

「社会の物質的生産諸力は、その発展がある段階に達すると、いままでそれがそのなか動いてきた既存の生産諸関係と、あるいはその法律的表現にすぎないところの所有関係と矛盾するようになる。これらの諸関係は、生産諸力の発展諸形態からその桎梏へと一変する。この時、社会革命の時期が始まるのである」

 

 「その内部」が「そのなかで」にかわり、どの「なか」なのかは、「いままで」動いてきた「なか」なのであとに続く「既存の生産諸関係」の「なか」だとわかる。つまり個人内部ではなく、外にある生産関係の中なのである。

 また、自己運動としての内部矛盾とまぎらわしくなる「内部」が消え、運動も細胞の運動ではなく、「動く」に変更され、意思を持った人が動くことの意味になり、固体内部の自然現象としての自己運動とは区別できるようになっている。

 

 以上、田中が可逆操作関係を内部矛盾と同じように説明した理由を勝手に推測した。そこには、1970年代2)という時代の制約があり、当時の翻訳本の訳し方に影響されたのではないかというのが、私の結論である。どんな理論も時代的制約から逃れることはできない。しかし、それでも、なお、おそらく「階層-段階理論」はゆるがないものと思われる。3)「内」と「外」の説明の一部を弁証法の定義どおりに展開すれば、首尾一貫したわかりやすいものになるからである。なにより、発達を自己運動として、自然の摂理として、誰もが通ってきた道として説明できる。さらに、可逆操作力と可逆操作関係というアイテムによって、知的発達と人格の発達の関係も、自然を試金石とする弁証法で説明できるものになっている。弁証法で説明できるということは、自然を学問の対象とする物理の法則「対称性の原理」によっても記述できるものになるからである。                              

1)加藤直樹(1990)は、階層-段階理論を念頭に「発達理論の研究がある制約を現段階では持っている」可能性を指摘している。(「人間発達研究所通信」NO29)

2)荒木穂積(2015)は、1970~80年の間に「『階層-段階理論』の基礎をなす概念の多くが提起」されたとしている。(立命館産業社会集第51巻第1号)

3)しかしながら、発達の事実についてではなく、説明については若干の修正が必要だと思われる。

 

▲読んでいただいた皆さんへ

 田中昌人の「人間発達の科学」も超難解です。わかりにくさの原因は、私にあるのではなく、著者にあるという前提にたって、収録されている論文の一部を検討しました。私のほうの誤解、まちがいがあった時は、その都度修正削除の予定です。ご指摘をいただけると有り難いです。

 

 

 

46年前の疑問、発達の中核を探す旅(番外編③)「階層-段階理論」による知的発達と人格発達の統一的理解

      人格発達と「階層-段階理論」

 

                     山田優一郎(人間発達研究所会員)

 

 たった10年の研究でピアジェと並び、今でも世界に影響を与え続けている天才ヴィゴツキ-。ヴィゴツキ-は、知的発達と人格的な発達について次のように記述しています。1)

 

「子どものあらゆる心理過程にとって、最も本質的なことは、まさに感情と知能の間の関係の変化なのである」

 

 今回は、ヴィゴツキ-が最も本質的な問題とした発達における知的発達と人格的な発達の関係を、「階層-段階理論」における可逆操力と可逆操作関係によって説明します。

 

1.「可逆操作力」と「可逆操作関係」

 

「可逆操作」

 可逆操作とは何か。本ブログでは、可逆操作を次のように説明してきました。

「外界の世界をとり入れ、新しい活動をつくりだし、それを自らの内面にとりこんでいく際の基本操作(田中、図1備考)であり、操作単位ごとの媒介となる活動で外の世界に働きかけ、自らを発達させるための産物を獲得していく。基本操作が媒介と産物の間を可逆し、両者は拡大再生産されて発達を遂げる」

 

 まだ、何のこっちゃですが、図1の具体的な内容をみれば、誰でもわかります。 「何々可逆操作」という言葉がでたら、図1で子どもの姿をイメージしてください。担当している子が、どの段階にいるのか、微妙でわかりにくい時は、本ブログ⑯の簡易検査(チエック方法)を参考にしてください。

                 図1

 

弁証法
 弁証法とは、ソクラテスプラトンにはじまる「概念の真の認識に到達する方法」(「広辞苑」.岩波書店)のことです。弁証法では、「世界はどのようなものであるか」という問に対して、次のように説明します。 

「世界におけるすべての事物・現象は個々ばらばらに孤立して存在しているものではなく、すべて相互に連関しあっている。そしてどの一つの事物・現象も永久普遍なものではなく、すべてが普段に発展している」(西本1967)2)

 人は生まれた瞬間から、人間社会の一員として生きていきます。社会とのつながりの中で育ち、日々発達をとげていく子どもの姿は、普段に発展している「世界におけるすべての事物・現象」と同じです。したがって、子どもの発達も世界の事物・現象のひとつとして弁証法で説明することが可能です。

  

 現代の弁証法では、人間社会の発展の歴史をざっくり次のようにとらえます。

 

「社会の歴史は、生産の発展の歴史である」3)
 貝殻の採取や狩りしかできなかった時代から、農耕時代への移行は、生産力を飛躍的に高めました。今では広い田んぼの田植えや収穫も、たったひとりで、数時間で終わらせることができます。林業にしろ、漁業にしろ、各分野の製造業にしろ、ここまでに至る人間社会の歴史は、生産の発展の歴史だったといえます。それは、現代社会の大量生産技術をみれば、一目瞭然です。

 

「生産力」
 人間社会を生産の発展の歴史とみた時、社会の発展を押し進める力はその社会が内包している「生産力」です。「生産力」とは、「生産において、その社会がもっている能動的な力」4)のことです。
 
「生産関係」
 しかし、人間はひとりで生産活動を行うのではなく、必ず人との関係の中で働きます。ひとりで働いているように見える農民も、年貢を取り立てる殿様との関係から逃れることはできません。ひとりで茶碗をつくる陶芸家も、茶碗を必要としている人たちの元へ茶碗を届けてくれる人との関係を断ち切ることはできません。漁業でも他との物々交換、あるいは、魚を買ってもらう人との関係は常に存在しています。もちろん、工場ではどんな零細であれ、集団労働です。「生産関係」5)は、このような「生産における人間と人間の関係」のことです。「生産関係」は、物々交換の相手のように平等な相互協力・相互援助の場合もあれば、殿様と農民、社長と社員のように支配者と被支配者、雇用主と従業員ということもあります。6)

  

 人間の発達において、生産力にあたるものが「可逆操作力」です。具体的には、図1の①「基本操作」、つまり、その年令期の発達を押しすすめる力(図1では認識力・思考力)のことです。では、「可逆操作関係」とは何か。「可逆操作関係」は、環境から産物をとり入れていく(図1➁媒介)活動において、その時期の基軸となる人との関係です。

 

 弁証法で歴史を分析する際の「生産力」を「可逆操作力」に、「生産関係」を「可逆操作関係」に置き換えることで、人類の歴史と同じように子どもの発達(歴史)を「概念の真の認識に到達する方法」(弁証法)によって分析することが可能になります。(図2)

        図2 「可逆操作力」と「可逆操作関係」

1)中村和夫(2010)「ヴィゴツキ-に学ぶ、子どもの想像と人格の発達」(福村出版)

※ヴィゴツキ-は、1930年代に活躍し、38才でなくなった。研究期間はわずか10年。しかし、彼の先駆的な研究成果は、今でも世界各地の教員養成テトストでとりあげられている。(明神ともこ.2004北海道教育大学釧路校研究紀要第3号)

2)西本一夫(1967)「史的唯物論入門」.新日本出版社
3)前掲2)
4)前掲2)
5)前掲2)
6)前掲2)

 田中(1987)7)は、階層と段階の視点から、人格の形成について次のように指摘しました。

「人格の形成に必要な新しい営みをしていくのは、発達の各階層の2(段階の)形成期に入っていくことによってである」

 もし、田中の指摘が妥当なものだとしたら、図2の各階層の第2の段階は人格形成上、何らかのエポックとなっていることが予想されます。

 以下、田中の上記指摘を検証します。この作業によって、発達における知的発達と人格的な発達の関係が浮かびあがってくるからです。

 まずは、認識(次元)の階層、第2の段階(「2次元可逆操作期」)からみていきます。

7)田中昌人・清水寛(1987)「発達保障の探求」(全国障害者問題研究会出版部)

 

2.人格とは「人間としての精神的な高さや深さ」(「現代国語辞典」.三省堂)と定義されています。人として身につけるものなので、他者(人)が存在しないと身につけようがありません。子どもたちは、どの年令でも、人格の基礎をその時期、その時期の人との関係によって培かっていきます。
 

 認識の層の第2の段階、2次元可逆操作期の基軸となる人との関係=可逆操作関係は「遊び活動の関係」でした。(図2)

 今から150年以上も前(江戸時代)から2次元可逆操作期の子どもたちがしていて、今も同じ年令期の子どもの活動内容として保育所や幼稚園で実践されているてっぱんの遊びがいくつかあります。そのひとつは「押しっくら」8)(おしくらまんじゅう)です。
  
 「押しっくら」は、見えない後ろにどういう子がいるのか、その後ろは、土なのか、草むらなのか、溝なのか、池なのか遊びの空間全体を想像しながらおしり(部分)で押し合います。この時、後ろに溝があることを想像できないと、どこまでも押し続け、後ろの子にケガを負わせてしまいます。見えない後ろを想像し、溝や池がある時は、小さい子、力の弱い子を押す力を加減しないと遊びとして成立しません。その加減ができないとご近所の子と遊ぶことができなくなってしまいます。「あしたから、遊べなくなるかもしれない」と想像できる認識の力と「遊べなくなるのはイヤ」という人としての感情は、一体のものとして獲得します。だから、子どもは、全体を想像することができるその時期に、可逆操作関係の中で「お友だちにケガをさせてはいけない」という、他者へのやさしさや思いやりを学びます。他者へのやさしさや思いやりの育ちは、さらに可逆操作力を発揮できる遊びの環境のひろげ、豊かにしていきます。

 

 同じく2次元可逆操作期の子どもの遊びで何百年も継承されている遊びに「廻りっくら」というのがあります。今のかけっこです。
 「廻りっくら」9)は、街なかを走ります。同じところから左右にわかれて走り、同じコースを、ひと回りして先に帰ってきたほうが勝ちです。知らないところではなく、ご近所の知っている道を走ります。お寺の境内の石畳では、すべらないように慎重に体をコントロールします。ここで、転んだら、結果、すなわち全体がどうなるか想像できるからです。崖道もこわいケレドばんばって走ります。ここで歩いたら、結果、全体がどうなるか想像できるからです。ご近所なので近道があることは知っています。近道を走りぬければ勝てることはわかっているのです。しかし、そんな卑怯なことはしません。近道を使えば、必ず勝てるという結果を想像できる認識の力は、卑怯な手段を使って勝った時、もし、それがバレたらどんな結果になるのかも想像できるのです。もはやその時、自分もちっとも楽しくない結末になることを想像できるのです。だから、どの子も結果を想像できる認識の力によって、「人としての正しい道」を選択します。「人としての正しい道」を選択できた子どもは、また、明日からも「廻りっくら」ができるし、同じ仲間で遊びの巾をどんどんひろげていくことができます。

 この仕組みは、現在の「おしくらまんじゅう」や「かけっこ」でも同じです。

 けっきょく、子どもたちは、発達を押しすすめる可逆操作力(認識の力)によって、可逆操作関係の中で、人格の芽を育て、そこで形成された人格の芽が可逆操作関係に反映され、可逆操作関係を媒介にして、さらに可逆操作力を発揮できる環境を整えていくことになります。

 

 「遊び活動の関係」が展開される時期は、人格の礎(いしずえ)がつくられる時期だといえます。みてきたように子どもたちはこの時期に、全体・結果を想像できる力(可逆操作力)によって、はじめての倫理、コトの善悪を理解することになるからです。

 現在、多くの国で義務教育の始まりを6、7才としています。日本においては江戸時代の寺小屋から、そして、今も小学校の入学は6・7才です。人々は、社会の基本的な倫理、コトの善悪が判断できるようになった子を対象に、その年令になるのをまって、集団学習を開始していたことになります。集団学習の場では、「学びの関係」にふさわしい、より高い倫理が求められるからです。子どもたちは、今も昔も、そして世界中で、義務教育前にコトの善悪を学び、人格形成の礎(いしずえ)を築いてから義務教育を受けることになっています。

倫理=「人として守らなければならない事柄」(「現代国語辞典」三省堂

8)小林忠監修中城正堯著(2014)「江戸時代子ども遊び大事典」東京堂出版

9)中田幸平(2009)「江戸の子供遊び事典」八坂書房

 

2.思考の階層の第2段階、2次変換可逆操作期(中学生)は、「なぜならば」「なぜならば」と理由や根拠を深堀りできる思考で、ものごとの本質を理解していく時期です。(図1)

 もう、子どもではない自分がわかり、しかし、まだ大人でもない自分もわかって、自立に向っての歩みをはじめます。自分のこと(本質)がわかってくる時期は、「はるかに深く広い他者理解」10)(ヴィゴツキ-2017)をもたらます。

 自分のことがわかるようになり、同時に他者理解が進むことによって、「ギャングエージの友人たちとは異なって、親友、本当の友人を求める」(ブロス2010)11)ようになります。また、同じ理由でまだ自分にはできないことを難なくやってみせる「あこがれの大人」「あこがれの先輩」も出てきます。あこがれの大人や先輩のようにしたいけど、まだ、それができない不甲斐ない自分にも気付きます。しかし、いつか、自分もその人たちのようになりたいのです。こうして、自立への基礎が築かれます。

 

 前の階層の第2段階(幼児期)は、倫理の基礎、コトの善悪を修得する時期でした。倫理とは、「人として守らなければならない事柄」12)なので、幼児の時期は、人としてやってはいけないことを学んだ時期だったといえます。しかし、世の中の本質がわかり、自分のことも、他人のこともより深く理解できるようになってきた中学生の思考は、さらに人としてやったほうがいいことを考えることを可能にします。人格は「人間としての、精神的な高さや深さ」13)なので、人格の形成は、誰にとってもいくつになっても永遠の課題です。しかし、誰もがこの時期に「国家及び社会の形成者として必要な資質」(教育基本法)としての人格を形成して社会へ巣立っていきます。おかげで、私たちの社会はそれぞれが、それぞれのアイデンティティにしたがって生きていても、みんなが平和に暮らしていける社会になっています。私たちの社会が崩壊せずに持続していることが、誰もが中学校修了までに、社会の形成者として必要な人格を形成していることの証だといえます。

 

10)中村和夫(2017)「ヴィゴツキ-心理学」新読書社 

11)山本晃(2010)「青年期のこころの発達~ブロスの青年期論とその展開」.星和書店

12)「現代国語辞典」(三省堂

13)前掲12

 

 西郷隆盛大久保利通など明治の偉人たちが育った薩摩藩では、15~16才になると元服して二才(ニセ)14)になります。二才(ニセ)になったら、若者集団に加わり、大人社会の一翼を担います。薩摩だけではありません。室井(2011)15)は、 全国調査によって15歳前後の若者に対していわゆる現代版「元服」が昭和の時代まで日本各地に存在していたことを明らかにしています。そして、「元服」を機に青年団などの加入が許可され、大人社会への参加が認められてきたのです。

 また、 日本の中世から昭和まで続いた丁稚(でっち)制度では、15~16才頃に半元服と称して商売に本格的に携わるようになります。半元服になると、本名の頭字に「吉」や「松」のつけて呼ばれる16)のでわかりやすい大人への第一歩だったといえます。

 そして、今も義務教育(中学校)を終え、大人社会への参加が許されるのは15才。

すなわち、今も昔も中学校の年令期に人格形成が充実期を迎え、社会にでるための人格的な資質をこの時期に一気に修得するのです。それは、ずっと昔から、子どもの発達の自然の姿だったといえます。

 人格形成の充実期には、当然のことながら、その年令期に誰もが到達する思考の力、可逆操作力と、その年令において必然となる人との関係、すなわち、可逆操作関係が存在しています。(図2)

 私たちの社会は、社会参加に必要な能力だけでなく、人格の形成も実を結ぶ年令をまって、まるでそれを祝福するかのように、大人社会への第一歩を準備してきたといえます。

 

14)「江戸時代人づくり風土記46鹿児島」(1999)農文協

15)室井康成(2011)現代民俗の形成と批判~「成人式」問題をめぐる考察.専修人間科学論集 社会学篇 Vol.8, No.2, pp.065~105

16)竹中靖一・川上雅(1965)「日本商業史」(ミネルヴァ書房

 

 さて、次の作文は、宮崎県の中学3年生、藤原凛華さんのものです。タイトルは「星塚のじぃやん」。第39回全国人権作文コンクールにおいて法務大臣賞に輝いた作文です。17)

 

――――「星塚のじぃやんと言ってくれ」かつて、「私にさわらない方がいい」と言って握手を拒んだあなたがそう言ってくれた時、本当にうれしかった。

 あの時、私たちは本当の家族になれたのだ。 私には、キティちゃんと阪神タイガースが好きなとってもおちゃめなおじぃちゃんがいる。彼とは血のつながりはないけれど、それ以上の絆を感じられるすてきな人だ。

 私は、おじぃちゃんに年一回会えるのをいつも楽しみにしている。そのおじぃちゃんが暮らしているのは,鹿児島県にある国立療養所星塚敬愛園。そ う、おじぃちゃんは、国の非道な政策によって家族も故郷も自由に選ぶ人生もすべてうばわれた元ハンセン病患者である。

 ハンセン病とは、らい菌に感染することで起きる病気だ。感染力はとても弱く、 現代の日本で感染し発病することはほとんどない。しかし、有効な治療法や薬がなかった時代には、顔や手足が変形するというような外見に症状が表われてしまうことから忌避されてきた。また,感染を防止するには患者を隔離する以外にないとも考えられていた。

 日本では、一九三一年の癩予防法によってハンセン病患者をハンセン病療養所に強制的に入所させ一生に渡って世間から隔離する政策を行っていた。それだけでなく子どもを持てなくさせたり、患者の出た家を消毒し たり、無らい県運動を進めるなどしてハンセン病は恐ろしい不治の病という誤った認識を国民に植え付けた。

 この政策のために、治療薬ができ,ハンセン病が治る病気だとわかった後も、ハンセン病患者やその家族は極端な偏見と激しい差別に苦しむことになった。しかもこの政策が終ったのは一九九六年。そんなに古い 話ではないのだ。――

 

 ハンセン病について調べ、考え、そして、事実がわかる過程を経て、藤原さんの思考する力は次のような人格をうみます。

 

―――これまでのあまりに過酷な経験が彼につけた心の傷は消えることはないでしょう。失った時間や家族をとり戻すことはできないけれど、私たちと新しい時間を重ねることで、おじぃちゃんの人生が少しでも笑って過ごせる時間になるようにしていきたいと思う。

 それは私たち家族にとってもかけがえのないすてきな時間になるでしょう。おじぃちゃんが私にくれた喜びを私も家族もそれ以上の喜びにしておじぃちゃんにこれからも返していきたい。 おじぃちゃん、あなたに会えて本当によかった。――

 

 藤原さんは、きっと「おじぃちゃんが笑ってすごせる」ために、私や家族、社会はどうすればいいのか、「もっと、こうしたほうがいい(なぜならば・・)」と、さらに思考を深めていったことでしょう。ひょっとしたら大人になった今も考え中なのかもしれません。

 藤原さんも、発達を押しすすめる可逆操作力(思考する力)によって、可逆操作関係(家族・教師・知人、クラスメイト・生徒会・部活の仲間や先輩など)の中で人格を形成し、豊かに実った人格は可逆操作関係に反映され、可逆操作関係を媒介に、さらに可逆操作力(思考する力)を発揮できる環境を整えていったということができます。 

 

 中学3年生の人権作文は、どの作文も涙なしでよむことはできません。そこには、どの生徒の文章にも豊かに実った人格の花が咲いているからです。昔の人だけでなく、現代社会でも、ものごとの本質がわかる論理的思考ができる時期に、どの子も人格形成の充実期を迎えています。

 

17)法務省(1989)「第39回全国中学生人権作文コンテスト中央大会入賞作文集」

 

まとめ

①冒頭で紹介したようにヴィゴツキ-(2010)は、「子どものあらゆる心理過程にとって、最も本質的なことは、まさに感情と知能の間の関係の変化なのである」としました。検討の結果、両者の関係は、次のように説明することができます。

 

 可逆操作力によって、可逆操作関係の中で人格を形成し、形成された人格は可逆操作関係に反映され、可逆操作関係を媒介に、さらに可逆操作力を発揮できる環境を整えていく。

 

 ヴィゴツキ-が指摘した感情(人格)と知能の関係でいうと、次のようになります。

 

 知的発達によって、人格を形成し、形成された人格は知的能力を発揮できる環境を整え、知的発達の促進に寄与する。

 

 エンゲルス18)は、次のような名言を残しました。

「個々の場合を世界全体との全般的連関の中で考察するや否や・・・そこでは、原因と結果とは絶えずその位置を取り替え、いままたはここでは結果であったものが、あちら、またあとでは原因になり、その逆にもなる」

 

 知的発達と人格の関係も、まさに、「いままたはここでは結果であったものが、あちら、またあとでは原因になり、その逆にもなる」関係だといえます。知的発達(原因)によって可能となった人格の形成(結果)は、「あちら、またあとでは」、その形成された人格が原因となって知的発達が促進(結果)されるのです。人が知的発達も人格の形成もすすめながら、人格の完成をめざして大人になっていく姿はこうして自然を試金石とする弁証法によって説明できる事象です。

 

 以上、みてきたように「階層-段階理論」は、可逆操作関係という人格が育つ土壌を記述できるアイテムを有するが故に、また、可逆操作力の段階が知的発達によって区切られているが故に、ヴィゴツキ-のいう最も本質的ことを説明することができる理論だといえます。

 

➁次元の階層と変換の階層を検討の結果、田中(1987)のいう各階層の2(段階の)形成期からはじまった人格の形成に必要な新しい営みは、第2の段階において、1、3段階とは区別される人格形成の拡張を引き起こしていることがいることがわかります。(図3)

                 図3

③子どもたちは、どの段階であっても、他者との関係が存在し、可逆操作関係の中で人格を形成していきます。そして、教育はどの段階にあっても「人格の完成」(教育基本法第1条)をめざして行われます。神戸大学の小川太郎(1975)19)は、学校教育について次のような指摘をしました。

「(教育は)たんに知識・技術・能力・・の形成・発達をはかるばかりでなく、その任務をはたす、まさにそのことにおいて、意思・感情・性格など人格的な諸特性をも形成・発達させるものでなければない」

 したがって、私たちはすべての段階において、知的発達を促す、まさにその中で、人格の形成もすすめていかなければなりません。一方、ここまでの検討からは、各階層の人格形成の拡張期(第2の段階)に可逆操作関係にゆがみがあったり、貧困なものであったりすると、知的発達と人格発達の乖離が生じる可能性が予測されます。どの子も豊かで安心できる人間関係の中で第2段階の暮らしや学びができる環境を整えることが求めらています。 

 

18)エンゲルス著、寺沢恒信訳(1970)「空想から科学へ」.大月書店

19)小川太郎(1975)「教育と陶冶の理論」.明治図書

 

 

46年前の疑問、発達の中核を探す旅(番外編➁)読後感想 田中昌人著「人間発達の理論」における対称性の原理について

  田中昌人の「対称性原理の展開」と「破れ」

                          

                    山田優一郎(人間発達研究所会員)

 

1.「対称性の展開」と「対称性原理の展開」

 

 田中は、発達検査(以下「実験」におきかえる)の結果をもとに、幼児期の内面の発達過程を「対称性原理の展開」によって説明しようと試みた。次元可逆操作における説明は、以下のとおりである。(127P~)

 

実験1 

対象児 2才前半 男児

道具 同型同色の3枚のお皿。7個のアメ。

手順 ①お皿に向って左から、父・母・ボクのと命名する。

➁「ここへおやつをわけてね」と声をかける

結果 父1個、母1個、自分5個と分配した。

考察 田中はこの結果を「自我の拡大」(129P)と考えた。

   

 上記、実験1の結果は、自分と他者との対の関係でみれば、形の上で対称性をもっている。(図1) そして、「自分のところに多く分配する」という法則も存在しているかのようにみえる。

               図1

       

 しかしながら、前回ブログ見てきたように物理学でいうところの対称性には、かわらない法則、すなわち、「変換に対する物体の不変性」1)が必要であり、「不変性」は、誰が何度実験しても同じ結果が得られることで万人に承認される。ちなみに「どこで(平行移動)」実験しても同じ結果が得られるのが「並進対称性」2)である。

 

1)レオン・レーダーマン、クリストファー・ヒル著 小林茂樹訳(2008)「対称性」白揚社

2)並進対称性=空間の並行移動という変換を行っても法則は変わらないことをいう。例)東京で実験をやろうが大阪で実験をやろうが法則は同じ。(小林誠・2009.ノーベル受賞記念講演~対称性の破れとは.「学術の動向」弟14号6号)

 

 したがって、この実験を何人もの2才前半児に実験し、同じ結果を得て、変換(働きかけ)に対して「かわらない法則が存在している」と説明することが必要になる。つまり、物理学がいうところの「対称性」は、1回だけの実験の結果をもって直ちに「対称性の原理」を適用することはできない。なぜなら、その活動の中に貫かれている法則の存在と、変換(働きかけ)に対するその法則の「不変性」を確認することができないからである。

 実験1の結果は、田中の貴重な発見ではあるが、もし、「対称性の原理」の展開として結果の真実性を担保するのであれば、2才前半のどの地域3)の何人4)の幼児に、いつ5)実験をしたのか、どんな結果になったのかについてデータが必要だと思われる。もちろん、すでに標準化されている発達検査の項目ならば、その出典を示すだけで充分である。当該年令児に何回検査(実験)しても同じ結果が得られることが証明されているからである。

 

3)並進対称性の有無がわかる。

4)法則の存在がわかる。

5)時間対称性の有無がわかる。

 

 田中は、一連の実験場面における幼児の活動を「自我の形成を基礎にした第1期対称性の展開」「自我の形成を基礎にした第2期対称性の展開」とする。また、こうした実験場面の結果を「自制心の形成期における、余りあるいは追加対称配置における対称性の展開と名付けることもできる」とした。

 一連の実験場面が「対称性原理の展開」とは区別される活動の名称なら、見事な発見であり、わかりやすいネイミングである。

 

 しかし、その直後、次のようにまとめる。

 

 「いわぱ内への発達的破れとして第1期と2期にわたる対称性原理の展開がみられる」

 

 これでは「おい、おい」になってしまう。「対称性の展開」「対称性原理の展開」におきかわることになるからだ。田中にとっては「対称性の展開」「対称性原理の展開」も同義なのだろうか。

 同義なら、なぜすでに定義が存在する「対称性原理 の展開」とは別に「対称性の展開」という別のカテゴリーをつくって自分で名付ける必要があったのだろうか。また、別ものだとしたら、オリジナルに名付けた「対称性の展開」が、どのような理由で直後に一般的な「対称性原理の展開」にかわったのか説明が必要である。

 突然、衣装がかわった根拠について論理的な説明がないままでは読者はキツネにつつまれた状態になる。つまり、田中が「対称性の展開」といえば、「対称性の展開」であり、田中が「対称性原理の展開」といえば「対称性原理の展開」になるという結果になるからである

 

 ただ、次のような事情があったのかもしれない。

 

「人間発達の理論」の初版は1987年。本論文は1984年~5年ころのものである。戦後「対称性の原理」についての日本におけるトップランナーは、雑誌「素粒子研究」を発行していた素粒子論グループである。雑誌の事務局は、京都大学の湯川記念館。田中は同僚たちが発行しているこの雑誌から先進的な自然科学の情報を入手していたのかもしれない。だとすれば、当時、掲載される論文についての審査はなかったと記録されていることから、1980年代初頭、まだ「対称性の原理」についての記述もさまざまだった可能性がある。なんせ、ざっと今から40年も前のことである。 

 というのも、田中の著書1984年発行、「子どもの発達と診断③幼児期Ⅰ」の中に「対称性原理が働いて最初は真中に一つ入れる」などの表現もあるからである。

 

 みてきたように現在の定義からすると田中のいう「対称性の展開」と、物理学でいうところの「対称性原理の展開」は同義ではない。対称的な活動という意味での「対称性の展開」は実験結果によってわかったとしても、肝心の「対称性の原理」については、定義も、そこに存在する法則も説明がないのであるから、読者は理解しようがない、というのが私の感想になるのだがどうだろう。

 

 もちろん、実験1から、2才前半幼児の「自我の拡大」を推認できるのであるから、その範囲において上記実験の意義は、失われない。

 

2.田中昌人の対称性の「破れ」

 実験1の結果を何人もの子に何回実験しても同じ結果が得られるものだったと仮定しよう。するとそこには2才前半児は配分課題において「自分のところに多く分配する」という法則の存在がわかる。そして、その法則は働きかけ(変換)に対し何回実験しても「かわらない」のであるから、図2のような対称性が認められる。前述のとおり、田中はこの結果を「自我の拡大」(129P)と読み取った。

 

                 図2  対象: 2才前半男児

      

 

 では、「2次元の形成が進んだ幼児」の実験結果をみてみよう。

 

 対象児 2次元の形成が進んだ幼児

 結果 父2個、母2個、自分3個と分配した。

 考察 田中はこの結果を「自我の充実」(133P)と考えた。

 

 対称性の「破れ」とは、「ある変換をおこなった時に法則が変わってしまうこと」であった。しかし、上記実験の結果は、図2と何らかわらない。(図3)つまり、引き続き対称性は維持されている。

       

          図3  対象:2次元の形成が進んだ幼児      

            

 

 結果、「自我の充実」→「自我の拡大」への変化は、少なくともは対称性の「破れ」によっては説明できないことがわかる。しかし、逆に対称性の「破れ」によって証明できないのであるから「自我の充実」→「自我の拡大」は、質の変化でなく量の変化であることの証になるのかもしれない。

 

 ここからわかるように量的な変化は対称性の「破れ」では説明できない。「法則が変わってしまうこと」が「破れ」であるから当然のことである。しかし、これは、発達において質がかわる、まさにその時は対称性の「破れ」で説明できることの証左でもある。

 

   では、「自我拡大・充実」→「自制心の誕生」という、内面の発達における質的な変化を対称性の「破れ」によって証明することに田中は成功しているのであろうか。

 結論からいうと残念ながら、私には確認することができなかった。

 その理由は、「人格の発達的基礎における第2期の対称性の展開」を見るための検査(「配分課題」)が、「自我の充実・拡大」をみてきた検査(実験)とは別ものになっているからである。

 

 自然科学でいうところの対称性の原理によれば、対称であるものは運動を続けている限り、いずれその対称は「破れ」、何かを誕生させる。すなわち、万物のコトの始まりは対称性である。万物の一部である人間の「自我」の充実・拡大も、幼児が活動している限り、いずれ「破れ」て「自制心」が誕生する。自然界の法則から予想されるドラマの筋書きは「自我」の舞台から「自制心」が登場する。 

 

 そのドラマを証明する実験において、「自我」の充実・拡大を確認してきたものとは別の装置によって「自制心」の誕生を説明しても、たとえその装置で説明することができたとしても、「自我」の拡大が「破れ」て「自制心」が誕生することの証明にはならない。 実験装置と変換(働きかけ)がかわれば、法則がかわるのは当たり前のことであって、それは「破れ」ではないからである。

 

 ひょっとしたら、田中は、自然科学でいうところの「対称性の原理の展開」「対称性の展開」と読み変えて、発達の事実を記録しておきたかったのかもしれない。また、ここまでの検討でわかるよう「対称性の原理」の「破れ」に「内」や「外」はない。けっきょく、これも、田中独特の文学的な表現なのかもしれない。

 

 もちろん、田中が「対称性の展開」として明らかにした発達の事実とその順序性の発見は、田中の見事な功績として歴史にきざまれる。

 

ーー自然現象が、対称性を含む理論によって説明できれば、その説明はもっと満足のいくものになる。そうすれば、その理論は自然についてさらに奥深い真実を明らかにするだろう。理論そのものが、さらに信頼のおけるものになるはずである。

 (レオン・レーダーマン、クリストファー・ヒル小林茂樹訳(2008)「対称性~レーダーマンが語る量子から宇宙まで」.白揚社

 

 自然界を記述するための科学、「対称性の原理」で発達を説明しようとした田中の挑戦は、発達を科学するための先駆性な試みであった。しかし、みてきたように一連の貴重な検査結果を「対称性の原理」、すなわち、自然の摂理として万人を納得させるものにはなっていないというのが私の感想である。

 

 時代の背景があったのかもしれない。他者には理解できない田中の世界があったのかもしれない。しかし、いずれにしても「対称性の原理」で発達を記述する課題は、田中の意思を引き継ぐ若い世代の課題として残されているように思われる。次の世代は、きっと発達を「対称性の原理」で記述することに成功する。そして、その時、「階層-段階理論」は、「理論そのものが、さらに信頼のおけるものになるはずである。」(レオン・レーダーマン2008)

 

▲読んでいただいた皆さんへ

 田中昌人の「人間発達の理論」を手にして、その余りにものわかりにくさに驚愕しました。何度も開きましたが、ザッと見ただけで長い間、積ん読状態でした。勤務先(特別支援学校)を退職後、本書にふれる機会があって、この本のわかりににくさの原因は、どこにあるのだろうと考えました。結果、わかりにくさの原因は、私にあるのではなく、著者に原因がある可能性に気がつきました。どんな理論も時代的制約から逃れることはできません。今後の「階層-段階理論」の発展のためにわかりにくさの原因は、著者にあるという前提にたって感想文を綴ります。私のほうの誤解、まちがいがあった時(誤字・脱字含む)は、その都度躊躇なく修正削除の予定です。ご指摘をいただけましたら有り難いです。

 

46年前の疑問、発達の中核を探す旅(番外編①)読後感想 田中昌人著「人間発達の理論」における対称性の原理について

   「対称性原理とその発達的破れ」に関する記述

    (97P)について

              山田優一郎(人間発達研究所会員)               

 

 小林(2009)は、物理学における対称性を次のように定義している。

自然法則の対称性は、ある対象に対してある変換を行った時、その自然法則が変わるか変わらないかであり、変わらない時、その法則は対称性をもっていると言う」(小林誠.2009年.ノーベル受賞記念講演~対称性の破れとは.「学術の動向」弟14号6号)
 
 では、対称性の「破れ」とはどのようなものか。

 対称性の破れ=「ある変換をおこなった時に法則が変わってしまうこと(「デジタル大辞泉小学館)」である。

 

 ふりかえって、田中の記述をみてみよう。「理論」において「対称性原理とその発達的破れ」についての具体的記述が最初に登場するのは97Pである。

 

「新しい発達の原動力の生成の祭には、各階層において次のような現象がみられる。  まず、発生に際しては、各階層の第2の発達的段階でみられた形態的対称性から機能的対称性への変化である。つまり、そこでは、鏡映対称性が時系列において破れるが、新しい機能水準が同じレベルになることがある。しかも、それが交互性を増大させつつ機能的対称性を培っていくことである」

 

 各階層の第2の発達段階において、形態的対称性(鏡映対称性)が「破れ」、機能対称性が誕生するというのが結論である。しかし、この説明では困ったことになる。前述のとおり、物理学でいう対称性の原理は「ある❶対象に対してある❷変換を行った時、その❸自然法則が変わらない時、その法則は➍対称性をもっている」と言うのである。「対称性がある」としている形態対称性(鏡映対称性)にいかなる法則が存在するのかが鍵なのであって、対称的な活動がみられると宣言しても、それだけでは物理学が定義している「対称性をもっている」とはいえない。
 たとえば、田中が発見した活動の中に形態的対称性(鏡映的対称性)があったとして、そこにどんな法則があり、乳児・幼児への働きかけ(変換)に対して、その法則がどんな「破れ」をして機能的対称性になったのかを明らかにすることこそが「対称性の原理」で発達を記述する際の肝だといえる。
 

 さらに田中は対称性の「破れ」について次のように説明している。
「新しい発達の原動力の生成における対称性の成立とその発達的破れは(新しい交流の手段などを伴う)いわば外への破れであり」
 

 繰り返すが対称性の破れとは、「変換に対して法則がかわってしまうこと」である。 法則が変わるか、かわらないかが問題なのであり、「破れ」において「内」や「外」などは意味をもたない。もし、そこに何らかの意味があるとすれば、それは自然科学でいうところの対称性の「破れ」とは別ものである。田中なりに意味があってのことなのだろうが、基本的な概念の一般的な定義とは異なる使い方は読者の理解を困難にする。   

 田中は「内への破れ」は、次のように説明した。

「外への破れによって、新しい交流の手段を生み、可逆対操作の獲得後、内への破れによって、外的なつながりを拡げつつ人格の内面に・・・豊かな・・世界を形成していく」
 

 結果、ここまでのところ田中の説明でわかるのは、何かが外へ破れて新しい発達の原動力が誕生し、何かが内へ破れて人格の内面を豊かにしていくことである。つまり、自然科学でいうところの「対称性の原理」については、私たちには何も知ることができない。しかし、ここまでの記述をあえて深読みすれば、田中が証明したかったことは次のようなことだったのかもしれないので、あえて推察してみた。
 
 各階層とも新しい発達の原動力の生成過程において、「A.操作的・知的な発達が優勢になりそれが主導的な働きをし」(「外への破れ」)、新しい交流の手段と可逆対操作の獲得後は「B.情緒・意欲の発達が優勢になり主導的な働きをする」(「内への破れ」)
 
 ヴィゴツキ-の門下生、エリコニンは、A・Bが「交代的に現れ、人格の発達は、その統一的な過程として展開される」1)と仮説を提起している。

 ひょっとしたら、田中は、エリコニンの仮説を証明したかったのかもしれない。しかしみてきたように「対称性の原理」における対称性は「変換に対する物体の不変性」2)(働ききかけるに対するかわらない法則の存在)であり、形態や機能に対称性があるというだけでは、「対称性の原理」による説明としては不十分である。

1)中村和夫(2010)「ヴィゴツキ-に学ぶ子どもの想像と人格の発達」
2)レオン・レーダーマン、クリストファー・ヒル著 小林茂樹訳(2008)「対称性」白揚社
 
 では、田中がいうところの「新しい発達の原動力の生成過程」において、あるいは「可逆対操作獲得後の発達」において、科学者たちが定義している「対称性がある」と説明できる活動を田中はみつけることができているのだろうか。そして、その「破れ」として誕生するものを「対称性の原理」によって説明することができているのだろうか。

(➁へ続く)

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階層と段階の視点⑯(ファイナル)職場で使える「可逆操作」~学問的なことばから実践的ことばへの変換

 育っていく自然の流れ実践の味方に

    ~「今、持っている力」に働きかける~

                                  

                    山田優一郎(人間発達研究所会員)                     

 

 本ブログでは、人が赤ちゃんから大人になるまでの仕組みの概要をざっとが超訳してきました。その際の肝(きも)になるのが「可逆操作(かぎゃくそうさ)」ということばです。そして、「可逆操作」を次のように説明しました。

 

「外界の世界をとり入れ、新しい活動をつくりだし、それを自らの内面にとりこんでいく際の基本操作であり、操作単位ごとの媒介となる活動で外の世界に働きかけ、自らを発達させるための産物を獲得していく。基本操作が媒介と産物の間を可逆し、両者は拡大再生産されて発達を遂げる」(「階層と段階の視点~はじめに」)

 

 この説明で「可逆操作」が何となくわかったとしても、職場での打ち合わせで職場の人にわかるようにお話しするのは至難の技です。自分は勉強してわかっていることばでも、職場の多くの人たちにとってよくわからないことばでいくら話しても、先人たちの研究成果を子どものために役立てることはできません。

 

 経験も知識もさまざまな人たちと協力して実践をすすめていくためには、理論的な説明のために使われることばをみんなとコミュニケーションできることばに変換して使うことが必要です。

 

 以下「可逆操作」をいくつかの実践的なことば(職場ことば)に変換します。どうぞ、職場でコミュニケ-ションする際にご活用ください。

 なお、発達を勉強する際は、概念の正確な意味を掴むことが必要です。その理論の神髄がわかってこそ、自分なりに実践で活用できる巾が広がるからです。 

 

1.障害児教育の役割

 教育は「もう獲得されている『今、持っている力』が、もうその力はあるけれど発揮する機会がないところに働きかける」(加藤2018)※)のが基本であり、障害児教育は、子どもが、「今、持っている力」をうまく発揮できずにいる状態の時、子どもの声をきながら、子ども自身が困っていることをみつけ手をさしのべる教育

                (「可逆操作」を「今、持っている力」に変換)

加藤聡一(2018)「可逆操作の高次化における階層-段階理論」は学校教育にどう向き合うか(2)人間発達研究所通信 No.155号 

 

2.発達の道すじ~今、どんな世界にいて、どこへ進もうとしているのか

                 図1

                   (「可逆操作の階層・段階表」の変換)

3.今、もっている力のチエック方法      

 日頃の活動のようすではっきりしている子は必要ありません。どの階層・段階にいるのか、わかりにくい子についてのみ必要な項目だけ抜き出してチエックしてください。

 微妙な結果でなお判断しかねる場合は、次のテキストの手順によって再検査、再質問することをお勧めします。なお、このテキストは高額なので職場で一冊常備しておくと便利です。

 

監修島津峯眞編集者代表生澤雅夫(2003)「新版K式発達検査法」~発達検査の考え方と使い方~.出版:ナカニシヤ

 

 ただし、私たちがこのような方法で把握した今、持っている力は、私たちが認識した仮説的なのものにすぎません。やがて、実践の中で子どもからの点検を受け、確かめられ、あるいは修正されることになります。本質の認識過程は「現象→本質→現象」と、ひと巡りして、ひとまずの完了となるからです。

             

                  図2

                     (「可逆操作への接近」の変換)

出典:監修島津峯眞編集者代表生澤雅夫(2003)「新版K式発達検査法」~発達検査の考え方と使い方~.出版:ナカニシヤ

            

4.今、もっている力に働きかける実践例 

 この表(図3)さえあれば、どこに勤めていても、どの教科を担当しても、とりあえず、どんなことをしたらいいのかがわかります。ただし、今、もっている力の目安は必要です。(チエック方法参照)

                              

 図1(発達の道すじ)で示した発達の順序は基本的に万人共通です。したがって、幼児教育の歴史で確かめられてきた幼児に対する普遍的保育・教育内容は、見事に図1各時期の今、もっている力を引き出す内容となっています。それぞれの障害と生活年令にあわせて教材を工夫することで障害児にとっても普遍的な学習内容となります。

 

   図3 今、もっている力に働きかける実践例 (矢印は難易度)

*以後、義務教育修了までは普通教育の内容が基本です。

・論理的思考獲得期~小学校4~6年生の普通教育の内容

・論理的的思考深まり期~中学校1~3年生の普通教育の内容

             (「可逆操作に働きかける教科別実践例」の変換)

 

*図3注)の出典は以下のとおり。出典元から発達年齢期ごとの多様な実践が入手できます。

1)「遊びと環境0・1・2歳」指導計画チ-ム編著(2017)「0・1・2歳児保育アイディア100」学研教育みらい.P109

2)瀧薫著(2018)「保育と絵本~発達のすじみちにそった絵本の選び方」エイデル研究所.0~1歳児の絵本から

3)瀧薫著(2018)「保育と絵本~発達のすじみちにそった絵本の選び方」エイデル研究所.2歳児の絵本から

4)瀧薫著(2018)「保育と絵本~発達のすじみちにそった絵本の選び方」エイデル研究所.3歳児の絵本から

5)ケロポンズ藤本ともひこ(2008)「劇あそび大作戦」世界文化社 

6)瀧薫著(2018)「保育と絵本~発達のすじみちにそった絵本の選び方」エイデル研究所.5歳児の絵本から.

7)伊藤亮子(2005)「3・4・5歳児の保育計画」草土文化.P148

8)石丸由理(2003)3歳児クラスのレッスン「リトミック百科」ひかりのくに.P21

9)石丸由理(2003)3歳児クラスのレッスン「リトミック百科」ひかりのくに.P40

10)石丸由理(2003)3歳児クラスのレッスン「リトミック百科」ひかりのくに.P61

11)石丸由理(2003)3歳児クラスのレッスン「リトミック百科」ひかりのくに.P66

12)伊藤亮子(2005)「3・4・5歳児の保育計画」草土文化.P108

13)伊藤亮子(2005)「3・4・5歳児の保育計画」草土文化.P155

14)長嶋瑞穂(1977)「障害者問題研究」12号.P19

15)田中保男(1977)「いちばんはじめの教育えがくこと・つくること」ミネルヴァ書.P13

16)高浜介二、秋葉英則、横田昌子編(1984)「3歳児の保育」あゆみ出版P129.P129

17)伊藤亮子(2005)「3・4・5歳児の保育計画」草土文化.P69

18)伊藤亮子(2005)「3・4・5歳児の保育計画」草土文化.P93

19)伊藤亮子(2005)「3・4・5歳児の保育計画」草土文化.P107

20)伊藤亮子(2005)「3・4・5歳児の保育計画」草土文化.P155

21)伊藤亮子(2005)「3・4・5歳児の保育計画」草土文化.P157

22)伊藤亮子(2005)「3・4・5歳児の保育計画」草土文化.P131

23)「遊びと環境0・1・2歳」指導計画チ-ム編著(2017)「0・1・2歳児保育アイディア100」学研教育みらい.P15

24)「遊びと環境0・1・2歳」指導計画チ-ム編著(2017)「0・1・2歳児保育アイディア100」学研教育みらい.P15

25)「遊びと環境0・1・2歳」指導計画チ-ム編著(2017)「0・1・2歳児保育アイディア100」学研教育みらい.P13

26)落合英男監修(2006)「運動会種目BEST!」学習研究社.P74

27)落合英男監修(2006)「運動会種目BEST!」学習研究社.P37

28)落合英男監修(2006)「運動会種目BEST!」学習研究社.P37

29)落合英男監修(2006)「運動会種目BEST!」学習研究社.P34

30)落合英男監修(2006)「運動会種目BEST!」学習研究社.P41

31)落合英男監修(2006)「運動会種目BEST!」学習研究社.P71

32)落合英男監修(2006)「運動会種目BEST!」学習研究社.P75

33)伊藤亮子(2005)「3・4・5歳児の保育計画」草土文化.P155

 

 

資料-「特殊教育」から「普通教育」への転換

 

 近江学園

 近江学園は、滋賀県の琵琶湖近くにあります。初代園長は、「この子らを世の光に」という有名な言葉で知られる糸賀一雄でした。少し年配の福祉関係者なら、この人を知らない人はいません。今でも「介護福祉士試験問題」1)に出てきます。ちなみに、「人間の発達を保障する」というのが正解となる問題でした。人間の発達を保障するという、今では当たり前の考え方が介護をめざす人たちの資格試験の問題として出題されるまで普及するには、糸賀の他にもうひとりの人物を必要としていました。糸賀を中心とする近江学園の実践と、しかし、それとは「相対的に独立した系統的な研究活動」(加藤直樹1976「日本の教育」)2)が必要だったからです。この研究活動の中心を担ったのが後に京都大学教授となる田中昌人(1932~2005)でした。

 

 糸賀、田中らは、近江学園の実践と発達研究の結果として、次のことを明らかにしました。

 

1.人間が人間となっていく発達過程においてすべての人は・・・・共通のすじ道を歩く。3)

 階段をのぼるようにひとつひとつの節を乗り越えて大人になっていくという発達のすじ道は、基本的にすべての人に共通であるとしました。

 

2.発達に障害のある人たちは児童期までの・・・どこかの質的転換期において何らかの原因によって、量から質への転化をし得なかった人びとである。4)

 発達に障害ある人たちは、普通といわれる多くの人びとが通過してきたどこかの発達の節の前で「足ぶみ」している状態としました。

 

 障害を理由に小学校へ入学することができなかった時代、当時の保護者、教育、福祉の関係者は目からウロコの仰天する内容でした。なんせ「異常児心理」とか「異常児の教育」とか言われていた時代でしたから。近江学園から、発信された新しい障害児の見方は、瞬く間に日本中にひろがっていきました。そして、「うちの子も普通の子、だからこの子にも教育を」という世論が形成される契機になったのです。それにしても「異常児」といわれていた時代にあって、障害児とそうでない子どもの「共通性」を見いだしたことは、特筆されるべきことでした。糸賀は、すでに1963、64年度の実践をまとめた「近江学園年報」に次のように書いています。

 

「われわれは、重症心身障害児といわれる子どもたちが、すべての健康な子どもたちと基本的に共通する法則をもって発達していくということを知っている」5)

 

 このような戦後生まれの新しい障害児理解は、その後の日本の障害児たちの可能性を大きく切り開くことになります。障害の有無にかかわらず、発達のすじ道は同じという障害児の見方がひろがるにつれ、義務教育から除外(不就学)されていた障害児6)はどんどん減少していくことになるからです。ホントかな?と思われる方は文部科学省の「学校基本調査報告書」で確認できます。1966~7年頃からのデ-タを追跡みてください。また、糸賀、田中らの提起は、知的障害児の後期中等教育への進学率の向上にも大きな役割を果たすことになります。7)8)これも、上記報告書の1980年くらいからのデ-タで確認できます。

 

 まずは、誰もが大人になるために受けてきた「普通教育」を

 天野清(1979「教育心理学試論」)9)は、思考の発達がどの段階にあり、したがって次のどのような段階に移行させることが発達の課題となっているかを理解して学習活動を組織することが必要だとしています。幼児に微分積分を教えようとは誰も思いませんので、子どもがひとつひとつの力を獲得していけるよう、その発達年齢にあわせた教育が必要というのは、あたりまえですよね。さらに、新しい障害児の見方によれば、障害児も普通の子になるわけですから、近江学園から発信された水滴はやがて大河となって、障害児たちにも、人類の長い歴史の中で試されてきた誰もが大人になっていくために受けてきた普通の教育が必要だという認識を多くの人にひろげていきました。徐々に毎日、レンガ積みなどの就労一辺倒の特殊な学習内容は否定され、障害児教育は「特殊教育」から、まずもって普遍的教育としての「普通教育」(梅根1974)10)へと転換していったのです。現在の障害児学校が教科を基本としているのは、このような歴史的経過によるものです。

 

 実際のところ、ここでいう「基本的に同じ」が、自分のものにならないと、何をするのか、どんな援助が必要かを考える際の最初の手がかり失います。障害児を普通ではない特殊な子とみている限り、人類が積み上げてきた普遍的な教育から遠ざかることになるからです。

 

 「基本的に同じ」が理解できないと、障害をもっていても教育を受ける権利の主体者であるという見方ができず、障害児への権利侵害に鈍感になってしまいます。これでは、大人のひとりとして障害をもつ子どもたちの福祉、教育環境向上のため力を尽くすことができません。豊かな教育活動は、暮らしの環境や教育条件の整備と車の両輪となって前に進みます。また、どんなに障害の重い子にも教育を受ける権利があり、学校の主人公であることが理解できないと、知らず知らずのうちにやってあげている感満載の横柄な支援になってしまいます。障害児を施しを受ける対象と見ている限り、保護者と連帯することも困難になってしまいます。保護者の願いを「わがまま」と受け止めることになるからです。

 

 「基本的に同じ」という見方があってこそ、わたしたちは、子どもから学ぶ支援者として育つことができます。人として平等であり、同じ時代を生きる仲間として、ことばのない子どもの声を聞き、子どもと学びあう関係を築くことなしに障害児の支援はどんな職種でもうまくいきません。

 

 人として同じであるという見方があってこそ、わたしたちは、どんなに大変な子であっても、その子のいいところを見つけることができる教師として育つことができます。

 もし、あなたが、子どものいいところ見つけることが得意な教師なら、子どもは、きっとあなたにこう伝えたいはずです。

「あなたに巡りあえて、私はしあわせです。なぜなら、あなたは、私のいいところをみつけてくれる大切な人だから・・」

 

 このように糸賀・田中らが残した子ども観は、障害をもつ子どもたちの教育、医療、福祉を受ける権利の松明(たいまつ)になっただけではなく、私たちが障害児の支援者として、自分が育っていくための第一ボタンともなるものです。

 

[資料の参考文献] 

1)平成27年度「介護福祉士試験」

2)加藤直樹(1976)「日本の教育8」新日本出版社

3)長嶋瑞穂(1974)個人の系の発達と発達保障 「障害者問題研究」第2号

4)前掲3)

5)清水寛、藤井進、松本宏(1976)戦後日本の障害者教育「日本の教育8」新日本出版社

6)青木継夫編著(1972)「僕、学校へ行くんやで」鳩の森書房.P30

7)全国障害者問題研究会編(1989)「花ひらけ“15の春”-希望するすべての子どもたちに後期中等教育の保障を」全障研出版部. 

8)山田優一郎(1982)ゆき届いた教育条件づくり~.障害児教育実践体系第8巻.労働旬報社.P11

9)天野清(1979)発達の条件と教育の可能性.心理科学研究会編「教育心理学試論」三和書房.

10)梅根悟編(1974)「日本の教育改革を求めて」勁草書房

 

 

 

 

階層と段階の視点⑮ 超訳「新しい発達の原動力」~それはどうしたらわかるのか。それは障害児の教育実践にどんな視点を与えるのか

 「新しい発達の原動力」の実践的理解

               

                    山田優一郎(人間発達研究所会員)

 

 田中が発見した発達をひきおこす原動力の中に「新しい発達の原動力」1)というのがあります。「新しい発達の原動力」とは何か。まず、私が辿りついた結論を紹介します。生後第3の新しい発達の原動力(5才半頃)を例にとると次のとおりです。

 段階表で年令を確認しながら、イメージしてください。

 ①5才半頃に生後第3の新しい発達の原動力が発生する。➁生後第3の新しい発達の原動力は、3次元可逆操作への移行をひきおこす。③3次元可逆操作期において、新しい交流の手段(「書き言葉」)が獲得される。④新しい交流の手段は、「次の階層になると発達を主導」(「理論」P79)する。

 

 なぜ「新しい」がつくのか。新しい発達の原動力がひきおこす、次の段階で「新しい」交流の手段が獲得されるからである。そして、新しい交流の手段は、次の階層で発達を主導することになるからである。

 

「新しい」がつく発達の原動力は、成人までの間に4回発生することが田中によって発見されている。

 

1)田中昌人(1987)「人間発達の理論」.青木書店

 

 以下は、自分自身を納得させるために作成してきたメモです。職場で私自身が説明する機会があるとしたらこのような説明になります。

 

1.教育における「発達の原動力」との区別

 教育における「発達の原動力」は一般的な原動力として辞書に載っています。「活動をひきおこす、もとになる力」(「現代国語辞典」三省堂)。人間の活動には、「動機や意味」(「発達心理学辞典」ミネルヴァ書房)がありますので、教育における「発達の原動力」は、意思発動のもとになる力だといえます。

 

2.子ともの内部でおこる自己運動としての「発達の原動力」

 なぜ、毎年同じ季節に台風がやってくるのか、なぜ、同じ季節に全国の桜が一斉に花をさかせるのか不思議なことです。それと同じように全国の子どもたちが1才半をすぎたあたりからなぜ、ことばをどんどんしゃべり出すのか不思議なことです。日本だけでなく、世界の子どもたちが同じ時期にことばを拡大していきます。この現象は、子どもの内部に同じシステムが存在していると予想するほかありません。地球の内部に台風をひきおこす原因があるように、桜の木の内部に春になったら開花をひきおこす原因があるように、人間の子の内部にもおしゃべりの拡大をひきおこす何らかの原因があると考えられるのです。

 

 以下検討する「発達の原動力」は、前述の教育における「発達の原動力」とはことなり、その子の意思にかかわらず、なぜ、人は誰もが赤ちゃんから大人に育つのか、万人の内部におこる自己運動としての発達を説明する際の原動力のことです。

 

3.世界の子どもたちが同じ時期に同じことができるようになる。この現象の不思議の解明に何人もの研究者が挑戦してきました。京都大学の田中昌人(1932~2005)もそのひとりです。

 

 田中(1980)2)は次のように考えました。

 発達(高次化)の原動力は、

「発達に固有な本質をなす内部矛盾」(田中「科学」1980p155)

 

2)田中昌人(1980)「人間発達の科学」.青木書店。

 

 そもそも、原動力とは「〇〇をひきおこす、もとになる力」(「現代国語辞典」三省堂)なので、必ず〇〇がないと成立しない概念です。したがって、何をひきおこすのかは、原動力を理解する肝(きも)といえるものです。

 まずは、上記田中(1980)の原動力が何をひきおこすのかをみていきましょう。国語辞典の原動力にあてはめると次のようになります。

 

「発達の高次化をひきおこす、もとになる力(=原動力)は、発達に固有な本質をなす内部矛盾である」

 

 つまり、子どもの発達を自己運動としてとらえた時、子どもの内部におこる内部矛盾を原動力として発達(高次化)がひきおこされるのです。

 「もとになる力」(「現代国語辞典」三省堂)なので、発達(高次化)の原動力は、内部矛盾を起点としてひきおこされます。(高次化までの展開は本ブログ⑭)

 段階から段階への高次化であれ、階層から階層への高次化であれ、自己運動としての発達の原動力(起点)は本質をなす内部矛盾です。それを田中は、繰り返し強調しました。

 「発達の原動力を内部矛盾として認識」(「科学」p172) 

 「発達の原動力は内部矛盾である」(「科学」p176)

 「第1にこれらをすすめる原動力としての内部矛盾」(「科学」p188)

 「基本カテゴリーは、発達の原動力である内部矛盾」(「科学」p198)

 

4.では、「新しい発達の原動力」とは何か。田中は次のように説明しています。

 

「(つぎの)階層への移行を達成する発達の新しい原動力」(田中「理論」P17)

 

 以下、5才半頃に発生する第3の新しい発達の原動力を例に内部矛盾がどこで発生し、何をひきおこすのかをみていきます。

              図1

*内部矛盾の発生、発展、消滅は田中昌人「人間発達の科学」P280

 

 第3の新しい発達の原動力の発生は5才半頃。(田中・清水「探求」P150)3)

 田中のいう発達の原動力は、「発達に固有な本質をなす内部矛盾(田中「科学」P155)でした。なので、5才半頃に発生する原動力は、図1の2次元可逆操作と3次元可逆操作の矛盾から誕生する原動力です。したがって、5才半に誕生する原動力は、3次元可逆への移行をひきおこす、もとの力=原動力(  )になります。ところで、矛盾があるところ、例外なく対立物間の相互浸透が存在し闘争と相互浸透によって、新しい質へ発展するというのが弁証法の根本法則4)です。この法則によれば、次元の階層から、変換の階層への飛躍を実現するのは、3次元可逆と1次変換の矛盾、闘争と相互浸透から生まれた産物であって、5才半には誕生しません。結果、次の階層への飛躍をひきおこすのは、けっきょく3次元可逆と1次変換の内部矛盾から発生する原動力( ◎ )ということになります。(図1)

 

参照

「1次元可逆操作の獲得期には、2次元の、2次元の獲得期には3次元の、3次元の獲得期には1次変換の最近接領域を・・・・・ふさわしいとり入れかたをして運動・実践を産出する」(「科学」P156)

 

3)田中昌人、清水寛編(1987)「発達保障の探求」.全国障害者問題研究会出版部

4)岩崎充胤(1981)弁証法の根本法則と弁証法的カテゴリー.「一橋論叢」第86号第6号

 

5.さて、どうしたらいいのでしょう。①5才半頃に発生する原動力が➁「(つぎの)階層への移行を達成する発達の新しい原動力」(田中「理論」P17)となって、1次変換への飛躍をひきおこすのは不可能なのです。

 

 原動力の定義によって、わかってきたことがあります。それは人間が赤ちゃんから大人になる過程において、発達(高次化)がひきおこされる前には、必ず、それをひきおこす、もとになる力(=原動力)が子どもの内部で発生するというということです。原動力が発生しないとひきおこされるものがないわけですから、質的変化は存在せず、階層も段階も存在しないことになります。しかし、質的変化によって区切られる階層・段階はすでに存在することが田中の論理的説明によって確かめられています。したがって、どの階層・段階にあっても、飛躍・移行がひきおこされる前には必ず発達の原動力が発生しています。だとすれば、なぜ、田中が成人まで4回発生する原動力に限って、特別に「新しい」をつけたかを合理的に説明できればいいのです。

 私は、次のように考えました。

 

 なぜ「新しい」がつくのか。新しい発達の原動力がひきおこす、次の段階で「新しい」交流の手段が獲得されるからである。そして、新しい交流の手段は、次の階層で発達を主導することになるからである。

 

 以上によって、私は冒頭の結論に辿りつきました。もし、このような理解でよかったら「人間発達の理論」における「新しい発達の原動力」は、スッキリと理解できます。

 発達の原動力には、

 1.教育における「発達の原動力」と

 2.発達を自己運動としてとらえた時の「発達の原動力」のニ種類があること。

 「発達の原動力」を2の意味で使う時は、1と違う意味で使うことをまず説明する必要があります。その業界で一般的でない意味で使う場合、使う側に説明責任があるからです。みてきたように2の「発達の原動力」は、子どもの内部にあって、発達(高次化)をひきおこす原動力です。高次化をひきおこす原動力は「本質をなす内部矛盾」(田中「科学」P155)のほかにはありません。高次化への原動力を固体「内部」でおこる矛盾と限定したとき、「内部」外でおこる矛盾は、すべて「外部」になるからです。そして、内部矛盾からうまれる原動力のなかに「新しい」がつく発達の原動力が存在します。なぜ「新しい」がつくのか、「新しい」をつける根拠の説明が必要です。本ブログでの説明は前述のとおり。

 上記、2の「発達の原動力」をまとめると図2のようになります。

               図2

    

        

補足~可逆操作力と可逆操作関係(人と人との関係)の矛盾について

 

 ついでに、みだしの矛盾が何をひきおこすのかをみていきます。まず、生産力と生産関係のことをふりかえります。(ブログ⑭参照)

 

 「生産力」とは、「生産において、その社会がもっている能動的な力」5)のことでした。そして、「生産関係」は、「生産における人間と人間の関係」6)です。人間の本性の発揮として日々高まっていく社会全体の生産能力、それに対し固定した傾向をもつ生産関係。この矛盾の激化は何をもたらすのか。それは、進歩した生産力に照応した「新しい生産関係7)への発展です。

 原動力の定義にあてはめると次のようになります。

 

「新しい生産関係への発展ひきおこす、もとになる力は(=原動力)は、生産力と、生産関係の矛盾である」

 

 以上を可逆操作力と可逆操作関係におきかえてみます。

 

「新しい可逆操作関係への発展をひきおこす、もとになる力(=原動力)は、可逆操作力と、可逆操作関係の矛盾である」

 

 可逆操作力と可逆操作関係の(内部はつかない)矛盾を原動力として可逆操作関係の発展がひきおこされます。なので、ここでの矛盾は、直接高次化をひきおこす矛盾ではありません。しかし、高次化と無関係かいうとそうではなくて、可逆操作関係は可逆操作力の高まりを「促したり、ぎゃくに・・・おくらせたりして」8)発達に作用します。内部の条件は、「内部諸条件を介して」(「科学」p172)発達に作用する仕組みになっているからです。子どもは、可逆操作関係のなかで、認識・思考と一体のものとして人格の芽を自分のなかに育てます。各段階で育つ人格の芽は、さらに可逆操作力(認識・思考)を高めていく環境を整えます。(本ブログ番外③参照)

 

5)西本一夫(1967)「史的唯物論入門」.新日本出版社

6)前掲5)

7)前掲5)

8)中原雄一郎(1965)「弁証法唯物論入門」.新日本出版社

 

資料

       「新しい発達の原動力」と障害児の教育実践

 

 田中が発見した新しい発達の原動力はリアルに子どもの姿として観察できるものでしょうか。学校教育はすでに診断が確定し、何年も経過した子どもたちが入学してきます。私たちに必要な情報は、遅れがあるかどうか、どのくらい遅れているかという情報ではありません。今どんな世界にいて、何ができて何ができない段階なのか、今持っている力を知るための情報です。そして、子どもが次に認識・思考できるのは、どんな世界なのかについてわかる情報です。

 

 山田(2021)は、自然界の法則「対称性の原理」によって、生後第2の新しい発達の原動力を「三項関係」の成立、生後第3の新しい発達の原動力を「全体も部分も見る力」と推定しています。(本ブログ⑩⑪)

 雲をつかむような話では、職員集団の共通理解が得られず、階層と段階の視点を教育実践に役立てることはできないと経験のなかで痛感してきてきたからです。みんなが理解し、納得し、合意できる話でないと実践はうまくいきません。とりわけ後述の新しい交通手段の獲得は、長期の実践を必要としており、職員集団の知恵を結集し、人がかわってもとりくみを継続できる体制がどうしても必要です。

 

 さて、1908年のビネーが公表した知能検査以来、世界の研究者たちは人間の子が何才でどんなことができるのかを延々と研究してきました。次の階層への道をつくり、次の階層では発達を主導する力を生み出すもとになる力は、予後に重大な影響を与えます。なので、研究者たちは、見逃さず発達検査の項目として残しています。

 

▲山田(2021)が推定した生後第2の新しい発達の原動力、「三項関係」の成立は、「新版K式発達検査法」9)の次の検査で誰でもリアルな子どもの姿としてみることができます。また、日常生活でも観察できます。  

 

「指さしに反応」(10ケ月越)~検査者の指さしに反応して、指さしたほうを見る。

 

▲同じように生後第3の新しい発達の原動力、「全体も部分も見る力」の誕生も「新版K式発達検査法」の次の検査で誰でもリアルな子どもの姿としてみることができます。絵を提示しての説明なので工夫すれば、どこでも、観察できます。 

 

「絵の叙述(じょじゅつ)」(6:0越)~背景と人物が描かれた「絵の内容を叙述し、表現する能力を見る」9)ためのものです。背景だけみていたら、人物が語れないし、人物が「いる」ことだけ見ていたら叙述ができない仕組みになっています。

 

*ただし、私たちがこのような方法で把握した新しい発達の原動力は、私たちが認識した仮説的なのものにすぎません。やがて、実践の中で子どもからの点検を受け、確かめられ、あるいは修正されることになります。本質の認識過程は「現象→本質→現象」と、ひと巡りして、ひとまずの完了となるからです。したがって、実践による検証が必要です。以下の実践で検証してください。

 

9)嶋津峯眞監修生澤雅夫編集者代表(2003)「新版K式発達検査法」.ナカニシヤ

10)前掲9)

 

 以上によって田中が発見した「新しい発達の原動力」は、障害児の教育実践に新たな糸口を提供してくれます。

 

1.次元、変換の階層の前で何年も立ち止まっている子がいる時、生後第2、第3の新しい発達の原動力の発生を確認してみます。確認できれば、次の階層へ飛躍するポテンシャルが存在していると見ることができます。

 ポテンシャルが存在していると確認できれば、ポテンシャルはあるのになぜ何年もそこに留まっているのか、何が困難をもたらしているのか、どんなことに困っているのかについて検討することができます。

 

2.その際、もし、よかったら可逆操作の内訳(図3、4)を子ども理解の一助にしてください。

 今、どんな世界にいて、何ができるのか→①基本操作、

 何を吸収する時期なのか→③産物、

 どんな活動で吸収するのか→➁媒介。

 

①~③のすべてがわかる仕組みになっているからです。

 

3.すでに私たちは、各段階の高次化の仕組みから、教育の基本を知ることができました。教育は「もう獲得されている可逆操作が、もうその力はあるけれど発揮する機会がないところに働きかける」(加藤2018)11)のが基本であり、障害児教育は、子どもが持っている可逆操作をうまく発揮できずにいる状態の時、子ども自身が困っているところに手を当てる教育ということでした。(本ブログ⑭)

 では、「新しい発達の原動力」は、障害児の教育にどんな視点を与えるのでしょう。なぜ「新しい」がつく原動力が存在するのか。それは、前述のとおり、新しい発達の原動力がひきおこす各階層の第3の段階において新しい交通手段に関与する力が獲得されるからです。

 

 「連結」の第3段階、「次元」の第3段階において新しい交通手段(ことばの理解・文字)の獲得がうまくいかない時、ヴィゴツキ-(2015)12)の次の指摘が重要です。

 

知的遅滞の子どものために・・・・盲人用の・・点字や唖児のための手話法に匹敵するようなものが創り出さねばならない・・・・すなわち、発達の回り道の体系が創り出されねばならない」

 

11)加藤聡一(2018)「可逆操作の高次化における階層-段階理論」は学校教育にどう向き合うか(2)人間発達研究所通信 No.155号 

12)司城紀代美(2015)「ヴィゴツキ-障害学における知的障害の心理機能」.宇都宮大学教育学部紀要第65号第1部別冊

 

ⅰ.次元の階層の前で立ち止まっている子

 何年もことばの理解がすすまない時、「ことばで何回いわれてもムリっ」という子どもの声がきこえたら手話にかわるものを子どもといっしょにつくり出す道を探っていきましょう。子どもにあわせて、交流の仕組みを子どもといっしょにつくっていきます。

               図3

 音声言語の獲得が困難な子のコミュニケーション手段として手話があるように指さし、身振り、物(外へいきたい時、靴をもってくるなど)で交流できる生活をつくっていきましょう。

 次元階層の前の段階で交流の手段を子どもにあわせてつくり出していく教育は、今、もっている可逆操作(「自分と人とモノとつながる力」)を実らせていくことにほかなりません。子どもが、すでにもっている力に依拠します。モノを子どもの操作の対象とするだけでなく、コミュニケーションとしても使えるようにしていきましょう。指さし、肩をたたく、手をひっぱるなど体(モノ)で伝える学習をしていきましょう。指さしだけでも、指さしを環境(モノ)とセットでコミュニケ-ションの手段として使えることができれば、かなりのことが伝わり、伝えることができます。何かをつくったり、難しい運動はできなくても、今、持っている力で回りと交流しながら生きていく毎日は、自己実現の日々だといえます。

 

参考:この段階の障害児学校(知的障害)における教育について、山田(2019)13)は、校時表フリー、キーパーソン制などを提案しています。

 

13)山田優一郎(2019)「コトバを準備する時期の教育をどうするか~『自傷行為』からの考察」 山田優一郎、國本真吾(2019)「障害児学習実践記録」.合同出版

 

ⅱ.字を書くことが、何年もうまくいかない時 

 変換の階層前(3次元可逆操作期)にあって、文字を書くことが何年もうまくいかない時、それはもう、子どもが困っている状態です。新しいアプローチで文字、あるいは文字に匹敵するものを子どもといっしょにつくっていくことに挑戦してみましょう。 

               図4

 私たちの経験では、子どもといっしょに文字や文字に「匹敵するもの」をみつける過程において、子どもは、「(これっ、不便だよ)」「(やっばり難しいよ)」と、表情や態度で教えてくれます。そして、一定期間の実践を経て、やっと「(これならできるよ)」というものに辿りつきます。もう3次元可逆操作期に到達しているのに何年も「できないよ」とサインをだしている子どもの気持ちを忖度し、子どものあわせたアプローチで書いたり、読めたり、計算したりできる道をさぐっていきましょう。書き言葉は、どんな字であれ、世の中のことを文字や記号で表現していく行為そのものが次の階層へ飛躍する力を育てます。

 

 その際、障害児学校は、障害をもたない子どもたちが小学校1、2年生で読み書きの学習にどの位の学習時間を当てているのか参考にする必要があります。私たちの実践では、新しい交流の手段(ことば、文字など)獲得には、それなりに力を集中する必要があり、週1回の授業だけでは困難でした。「何年もうまくいかない」原因のひとつに学習量が不足していたということがあったのです。その場合、一日の学習時間を長くするのでなく、短時間毎日となるように工夫することが大切です。

 

 ずっと昔のことですが、3次元可逆操作期(推定)にいながら、字が書けない子を担当したことがあります。自転車で駅周辺の繁華街を動き回っていて、良く、私が同僚たちと居酒屋に入るところで「おおっ」と声をかけてきてくれました。「いっしょにはいるか?」と冗談で誘うと、ことばがないので手をふって「いやいや」という表情をして、また自転車にのって去っていきます。今思うと大人の冗談もわかる子でした。でも、字が書けないのです。当時、私たちが辿りついた「点字に匹敵するもの」は数字の印鑑でした。それで足し算引き算ができるようになりました。もう30年ほど前のことです。今なら、字は書けなくても計算の学習ができるソフトがあります。科学の進歩は知的障害児に「点字に匹敵するもの」(ヴィゴツキ-2015)をつくり出す可能性を飛躍的にひろげています。

 

ⅲ.なぜ、通常なら子どもが自然の環境のなかで獲得していくものをこのような特別な支援を必要としているのか、それもきっと子どもなりの事情があるのです。どの子も、(子どもをとりまく)「現実のすべてが、かれの心理発達の源泉」14)とはなりません。すでに何年も階層の前で留まっている場合、ことばのある環境、文字に接することができる環境だけでは、何らかの事情で音声や文字をうまくとり込むことができなかったのです。ひとりひとりの事情にあわせて、学習―教育のルートでの特別な支援を求めている子どもたちだといえます。子どもの声に耳を傾けながら、緻密で丁寧な教育によって、子どもにあわせた交流の手段をつくっていきましょう。

 

 けっきょく、子どもたちも私たちも飛躍への道は、今持っている力を発揮することからです。

 誰でも、どこの世界でも、「千里の道も一歩から」。

 子どもたちも、そして、私たちも、今できる力で人や物と関わりながら、今日を生きること、その一歩、一歩が千里への希望だといえます。

 

14)エリコニン著駒林邦夫訳(1964)「ソビエト児童心理学」明治図書