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社会ネタ~田村智子の政策動画「非正規から正規への転換は可能なのか」(3分間のショート動画)

      

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 非正規から正規雇用への転換。必要な予算は1.9兆円

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階層と段階の視点⑳ 「可逆操作」をめぐる実践に関わるいくつかの論点  領域普遍性論と発達のズレ、出現順序の普遍、可逆操作は「中核機制」なのか

   「可逆操作」をめぐる実践に関わるいくつかの論点

 領域普遍性論と発達のズレ、出現順序の普遍、可逆操作は「中核機制」なのか

                  

                       山田優一郎(人間発達研究所会員)

 

  本ブログで説明してきた可逆操作は、次のとおりです。 

         

        表1 可逆操作(基本操作、媒介、差物)       

 操作単位ごとの媒介となる活動で外の世界に働きかけ、自らを発達させるための産物を獲得する。基本操作が媒介と産物の間を可逆し、両者は拡大再生産されて発達を遂げる。  

 

①領域固有性論と領域普遍性論

「固有性論か、普遍性論か」という議論を聞いたことありますか。

 

 領域固有性論=ある特定の領域においてのみ成立する発達的な現象や特性のことを指します

 領域普遍性論=ある領域だけでなく、複数の領域に共通して成立する発達的な現象や特性のことを指します。

 

 さて、可逆操作によって階層と段階が区切られる「階層-段階理論」は、どちらの論になるのでしょう。実は、可逆操作を表1のように理解することで、ピアジェ研究の第一人者、中垣(2011)1)の論立てによって、説明することができるようになります。

 

ピアジェの発達理論は、知的操作という特殊な領域での発達を問題にしたという意味では認知発達の領域固有性論ではあるが、知的操作の領域普遍的浸透性ゆえに知的操作を発達段階の中核に据えたという意味では領域普遍性なのである。ピアジェの発達観は、領域固有性と領域普遍性を止揚した弁証法的発達観なのである」

 

 中垣(2011)の上記説明は、「階層-段階理論」におきかえても同じように説明できるものです。もともと「階層-段階理論」は、ピアジェを批判しつつできたものですが、段階論という点では同じなので、「固有性論か、普遍性論か」については、同じように説明することができるのです。

 

 では、上記説明を「階層-段階理論」におきかえてみます。「領域普遍的浸透性」を可逆操作の特性(②)によって説明してみました。

 

①「階層-段階理論」は、表1のように認識・思考の発達によって段階が特徴づけられています。したがって、認識・思考という特定領域固有の発達のメカニズムを明らかにしようとした点においては領域固有性論だといえるものです。

②一方、可逆操作は外の世界へ働きかけ、何がしかを内面にとり入れる際の基本操作であるが故(ゆえ)に、その際は、全領域を総動員しての活動となるが故(ゆえ)に、領域普遍性論だということもできます。

③要するに「階層-段階理論」は、部分の発達と全体の発達を明らかにしようとする発達論であり、「両者を止揚した弁証法的発達観」(中垣2011)に基づいた発達論だということができます。

 

 ほかにもっといい説明の方法があるかもしれませんが、実践的にはとりあえず、このような理解でどうでしょう。

 なぜなら、私たちは①②③のように理解することによって、どちらの立場にたった研究成果も、可逆操作に働きかける際の有効性を判断しつつ実践にとり入れることができるようになるからです。

 

➁領域間のズレ~人は層をどのように認識するか

 発達の段階は、まるで地層のように層になっています。人々は地質学において、地層の解明をどのようにすすめてきたのでしょう。地層の研究は、ある地点の縦軸(ボーリングコア)を採取し、層に含まれているモノを測定・分析します。その際、直接測定・分析したのは縦軸だけなのですが近辺の横軸(面)は、縦軸の結果から「推定」2)するのです。上部の地層のすべてを引っぱがして見ることはできないので横軸(面)の「推定」は仕方のないことです。ところで、「階層-段階理論」では、可逆操作を「各階層・段階で他の諸活動(諸機能)よりも発達にとって重要な役割を果た」す(茂木1978)3)活動として位置づけ、表1では認識・思考の発達をボーリングコアとして取り出し、測定・分析しています。この時、地層と同じように、他の領域の発達、すなわち横軸は地続きとして「推定」できるのです。認識・思考という「知的操作の発達水準によって(他の領域の発達が)完全に決定されているわけではない」(中垣2011)ので、発達の層における横軸の「推定」も合理的なものです。「推定」なので反証があればその領域の「推定」はくずれます。しかし、抜き出した縦軸の階層・段階がなくなるわけではありません。

 

 教育実践は、領域間の連関に注目し、進んだところ(段階)に目を当てて、遅れているところ(段階)に手を当てる実践を展開します。したがって、階層・段階の知識は領域間の発達にズレがあっても、実践にとってなお有効な情報です。進んだ領域と遅れた領域がズレたままでも力を発揮できる活動を組織することができるからです。

 

※私の経験では、「推定」に留まっていることを、その時期にどの子にも必ず現れる行動であるかのように説明してしまうと、違う現実の子がいた時、「あれっ?」となってしまいます。

 

③順序性の普遍

 「階層-段階理論」は、「障害の有無をとわず、すべての人の発達のすじ道は基本的に同じ」(窪島1978)4)としています。これは「すべての人間の無差別平等の権利性に発達研究の側から理論的な根拠を与える」(窪島1978)ものでした。障害児を「異常児」としていた時代、可逆操作によって、障害児とそうでない子の発達の共通性がみつかったのですから、可逆操作の発見は、障害児への差別を克服し、障害児に諸権利を保障していくための画期的な発見だったといえます。

 「階層-段階理論」において、発達は文字通り段階になっています。したがってここでもピアジェの段階論と同じように可逆操作の出現時期は、「段階出現の順序を変更することはありえない」(中垣2011)ので、段階の順序性は、障害の有無にかかわらず共通なのです。ただし、例外の存在を否定することはできません。「カラスは黒い」ということを完全に証明するのは不可能なことです。世界中のカラスをつかまえて確かめることは不可能なことだからです。しかし、人々は「カラスは黒い」と認識しています。可逆操作の発達の順序性も、世界のすべての人がそうだと完全に証明することは不可能です。だから、違う順序で発達を遂げる人が世界のどこかにいたとしても不思議なことではありません。しかし、それでもなお、可逆操作の順序性の普遍が否定されることはないのです。「家」という共通でくくられる普遍の中に物置小屋とか倉庫とか「特殊」5)な「家」が存在するのは世の常であり、可逆操作獲得の順序性についても普遍の中に「特殊」が存在していても不思議なことではありません。それはそれで、その「特殊」なグループの中に新しい法則をみつけ、子どもたちへの実践に寄与できるようにすればいいのです。順序性のことだけでなく、普遍の「推定」が妥当しない子に遭遇したとき、どの学年にも、あるいはどの段階にも存在する「特殊」なグループなのか検討し、そのグループ内に妥当する実践の教訓を明らかにしていく作業こそが子どもの利益につながります。

 普遍の中に潜む「特殊」の出現(発見)によって、もともとの普遍を否定することになると、私たちの認識は不可知論に陥り、発達研究によって明らかになっている先人たちの知見を実践にいかすことはできません。

 

 不可知論=ものごとの本質は我々には知り得ず、認識することが不可能である、とする立場のこと。(「weblio辞書」)

 

④各領域間の「連関」

  「階層-段階理論」では、可逆操作を外の世界へ働きかけ、何がしかのものを内面にとり入れる際の基本操作としています。可逆操作の高次化こそ質的転換期であり、可逆操作は質的転換を実現する中核として役割を果たします。可逆操作をその段階の活動の中核とし、次の段階へ移行する際の中心的な役割を果たす力と位置づけることによって、子どもが活動する際の「連関」を中核である可逆操作と、中核から遠ざかるほど薄くなる周辺の「連関」として、つまり機械的、一律な「連関」でなく、強弱、濃淡のあるグラデーション模様の「連関」としてとらえることができます。グラデーション模様の「連関」である以上、全領域の発達を可逆操作が完全に機制しているわけではありません。したがって、かって(1974年「障害者問題研究」第2号)6)の可逆操作=中核機制は、誤りだったといえます。「機制」を加えると当時の大脳機能局在説とも、現在の局在説とも齟齬が生じます。(末尾資料参照)

 

 教育実践は、発達の各領域間はグラデーション模様の「連関」が存在していると想定(推定したままで)して実践を展開します。実際のところ、私たちは、走る力を育てたいとき、「あそこまで」と認識の力に依拠しながら「走る」学習をします。また仲間と励ましあって、いっしょに育つ授業を展開します。7)そうしないと走る力も育たないのです。コトバを育てたい時、何かが言えることだけでなく、大人と交流する力、対人関係の力も同時に育つような学習を組織します。8)そうでないと、お話できたとしても、生活の場で、人との関係で使えるコトバにはならないからです。赤木(2018)9)は、自閉症の感覚過敏の子を例に、領域間の能力の「連関」を想定することで、子ども理解が深まる例は多いとしています。

 

 友だちとの対人関係の良さから世界がひろがったり、部活動による内面の育ちが思考(勉強)を鍛えることにつながったりと、教育はたえず「連関」を想定して、子どもの可能性を引き出します。各領域間の「連関」を想定することによって、私たちは、子ども理解を広げ、実践の巾を広げ、子どもの可能性を広げることができるのです。

 

 さて、以上であなたも、階層と段階の視点を子どもたちの元へ届けることができるようになりました。もし、よかったら、本ブログで綴られてきた情報をあなたとあなたの職場の実践のためにお役立てください。

 

[参考・引用文献]

1)中垣啓(2011)ピアジェの発達段階論の意義と射程「発達心理学研究」第22巻第4号

2)内山美恵子、池内美緒、木村克己(2011)東京低地と中川低地の沖積層堆積物で作成した水素イオン濃度指数及び電気伝導度「地質調査研究報告」第62巻1/2号、他

3)茂木俊彦(1978)発達理論に関する若干の研究課題について~心理学のアスペクトから~「『発達保障論』の成果と課題」.全国障害者問題研究会

4)窪島務(1978)「発達保障論の成果と課題」.全国障害者問題研究会

5)三浦つとむ(1968)「弁証法とはどういう科学か」.講談社

6)長嶋瑞穂(1974) 個人の系の発達と発達保障.「障害者問題研究」第2号. 全国障害者問題研究会

7)山田優一郎(1986)「走れ!ぼくらの青春特急」.あゆみ出版

8)山田優一郎・國本真吾(2019)「障害児学習実践記録~知的障害児・自閉症児の発話とコトバ」.合同出版 

9)赤木和重(2018)「目からウロコ!驚愕と共感の自閉症スペクトラム入門」.全障研出版部

 

 資料

 

 可逆操作を中核として、他領域との「連関」を中核と周辺との「連関」として、濃淡のあるグラデーション模様の「連関」としてとらえることは、現在の大脳機能局在説とも一致します。

 

――――従来は種々の脳機能の解剖学的局在はあらかじめ決まっており、この脳機能局在はある程度“固定”されていると考えられていた。しかし近年、この考え方の根底が覆り、さまざまな脳機能が解剖学的局在に縛られているのではなく、むしろ脳全体がひとつのシステムとして固有の脳機能を発揮していると考えられるようになってきた。1)

 

 結果、現在の大脳機能局在は、次のように考えられています。

 

 ―――その部分が主な活動場所になっている、喩えて言えばカーニバルのお祭り広場のように、町中が騒いで市民みんなが参加する祭典にも、中心的な活動場所があるようなものだと考えてください。このような厳格すぎない規定で脳の機能局在性を考える。2)

 

 なお現在の局在説理解に至る歴史的経過は、以下のとおりです。3)

 

1.脳の構造を測る方法は、➊X線CT(Computed Tomography)がはじまりである。1971年に、イギリスのゴッドフリー・ハウンズフィールドにより第一号機が開発されている。日本でも、1975年ごろには、東芝や日立が国内産CTを販売していた。高度成長の最終時期にあり、日本の科学水準はほぼ西欧の水準に追いついていた。X線CTに遅れること数年、➋1975年に応用にいたった脳機能を計測システムが、PET(positron emission tomography)である。➌さらに約15年後、脳構造を計測するMRIを発展させて、脳機能面での計測する fMRI(functional MRI; 機能的MRI)が開発される。(1990)

 

2.非侵襲計測ができることによって、機能局在説にどのような落とし穴があるかについて、再検討が必要となる。

 ある脳部位の除去によって、ある認知機能に障害が生じたという事だけから、その脳部位がその認知機能を担っているという結論を出すのは軽率である。というのは、

①その領域と他の脳部位との”相互作用”が大切なのかもしれない。

②また、その脳部位を介した他の脳領域間での接続が途絶えた事が原因かもしれない。

③もっと素朴には、その除去領域の周辺の接続が切れていることが原因なのかもしれない可能性があるからである。

 

3.ある脳部位が損傷を受けた際に、その損傷部位から、はるかに離れた脳部位でも活動低下(血流量もしくは代謝)が見られることがある。この現象を、遠隔機能障害(Diaschisis)とよぶ。たとえば、ある脳領域が損傷を受けた場合、別半球側の脳部位でも活動低下が頻繁に生じる。この現象は、明らかに、損傷が起きた部位が、他の脳部位と共に働いているという事を示唆しており、損傷部位と認知機能の単純な対応づけをすることに注意を促している。

 

※生きたままの脳をリアルに観察できるようになったのは、fMRI開発(1990年)以降です。それまではガチガチの局在説が主流であり、1970年代~80年代にかけては、まだ、局在説との関係で可逆操作の説明も難しかった可能性があります。

 

[出典]

1)木下学(2022)「脳機能局在論から神経ネットワーク論へのパラダイムシフト」(医学のあゆみVolume 282, Issue 6, 580 – 585)

2)林 隆博(2009) 37. 脳機能の局在性とモジュール理論 - 論文・レポート (crn.or.jp)

3)1~3の出典が行方不明。ただ今、捜索中です。数年前にPCのお気に入りに保管したのですが、いつの間にか消えていました。論文名は「脳のミクロとマクロ~ネットワークの視点」だったような気がしますが、違うかも・・。今のところ証拠(出典元)を提示することができませんので、引用する際はご注意ください。

 

 

階層と段階の視点⑱ 2次元可逆操作期の自己実現~相互浸透によって高次から提供される文化 の継承活動

 2次元可逆操作期は、どんな活動で産物を獲得してきたか~障害児教育実践への示唆        

                    

                       山田優一郎(人間発達研究所会員)

 

はじめに

 本ブログで2次元可逆操作期は、➀想像世界を認識できる力で②眼前にない全体を想像しながら、部分を操作する活動(媒介)によって、③見えない世界への認識(産物)をひろげていく年齢期であった。(表1)

 ここでは、2次元可逆操作期の子どもたちが、いかにして産物を獲得してきたかについて検討した。結果、産物を獲得するための2次元可逆操作の媒介活動は、文化の伝承-継承活動になっていると考えられた。相互浸透によって高次から提供される文化という視点から、障害児の教育実践についていくつかの示唆が得られたので報告する。

                表1             

 

 江戸時代の子どもの遊びで150年以上経過した今も4・5歳児の保育内容になっているてっぱんの遊びが存在する。1)それを表2で示した。

                 表2

 

1.江戸時代、2次元可逆操作期の子どもたちは、どのようにして想像世界を認識できる力を発揮し、見えない世界への認識をひろげていったのか。表2の遊びを例にみていこう。※ここから読み始める人のために以下の「 」内は過去ログからの再掲

 

「おしくらまんじゅうは、見えない後ろにどういう子がいるのか、その後ろは、土なのか、草むらなのか、大きな石なのか、溝なのか空間の全体を想像しながらはじめる。小さい子が後ろにいるのに一気に押すと後ろの子が倒れてしまうからである。後ろに溝があることを想像できないと、どこまでも押し続けケガを負わせることになる。だから、おしりの位置(部分)で押し続けながら、全体の状況を想像し、全体の状況にあわせて自分の体(部分)をコントロ-ルする。だからこそ、安全が担保され、楽しさだけが残る遊びとして何百年も続いているといえる。

 

 廻りっ競(くら)は、街中を走る。同一地点から左右にわかれて走り、同じコースを一回りして先に帰ってきたほうが勝ちというルールである。知らない街ではなく、ご近所の知っているコースを走る。

『横丁に入ってしばらく走ると右手のお寺の境内に入って石畳を進んで、本堂をぐるりと一巡し、再び横丁に走り出て、今度は左におれて原っぱを横切り、崖道を下って町内の裏に出る。そして、さらに出発点に向うために・・・』2)と、見えていない道を想像し、コースの全体を把握する。境内の石畳(部分)ではすべらないように慎重に体をコントロールする。ここで、転んだら結果(全体)がどうなるか想像できるからである。崖道(部分)もコワイケレドガンバッテ走る。ここで歩いたら、結果(全体)がどうなるか想像できるからである。現在のかけっこ(リレ-)も同じである。誰からバトンを受け取り、向こうでバトンをまっているのは誰。うちのチームが、もし一位でボクのところへきたら・・と、まだ現実になっていない世界を想像し、全体の状況をつかんでから、走り出す。もし、後ろから誰かきたらシンドイケレドガッバッテ、一生けん命走る。なぜなら、ひょっとしたらビリになるかもしれないという結果(全体)が想像できるからである。また、もう少しで追いつけそうな時は、ガンバッテ、ガンバッテ走る。ヒーローになれる結果(全体)を想像できるからである。想像力を働かせそれぞれの状況にあわせて体の動きをコントロールする。 

 

 江戸の浮世絵の子どもたちは竹馬で大人たちを見下ろしながら誇らしげに街中を歩いている。竹馬の練習は、前後左右全体を想像しながら練習する。どこへ倒れるかわからないからである。全体へ想像力を働かせながら、手足(部分)をコントロ-ルする。何度も何度も落ちて、落ちてはやり直す。ガンバッテ練習するのは、大人を見おろして街中をかっぽするまだ現実になっていない自分の姿を想像できるからである。

 

 歌あそび・手あそびは、歌全体の歌詞とメロディを想像しなから、声(部分)をだす。全体の流れを想像せずに流れと無関係に声をだしても歌にはならない。また、最後(オチ)までの全体を想像しながら体(部分)を動かし手(部分)を動かす。

 ♪かごめかごめ~と始まったら、最後のオチまで想像してこそワクワクする。♪ずいずいずっころばし、と始まったら、最後が誰にあたるか想像して楽しむ。
 

 作って遊ぶ、描いて遊ぶ活動も同じである。竹トンボは、トンボとして飛ばす全体を想像しながら部分を削る。全体を想像せずに適当に削っても羽は飛ばない。削りはじめた時、すでに全体のイメ-ジができあがっている。どんなものを作るのかわからないのにとりあえず削ったりということはしない。全体をイメ-ジしながら、部分を切り、部分を削る。

  

 ごっこあそびは、ごっこの舞台、登場人物、小道具、自分の役、全体を頭の中にいれて、私(部分)がこうすれば、相手(部分)がこうするということを想像しながら遊ぶ。
  

 昔ばなしは、最初からのストーリー全体を想像しながら、今の場面(部分)を楽しむ。起承転結の全体がわからないと楽しめない。怪談ばなしも、話の流れ全体がわからないと部分だけではちっとも怖くならない。江戸の子どもたちは、祖父母の昔ばなしを聞くだけでなく、大人から聞いた怪談話しを覚え、夏になると子どもどうしが集まり、誰の話しが一番怖かったのかを競いあって遊んだ。それこそ、クライマックスまでの全体を想像しながら、恐怖の頂点に向って、今の場面(部分)を話す。

 

 七夕遊びは、今は見えないお空の全体を想像しなから、飾り(部分)をつくる。節分は、まだそこにはいない鬼を想像しながら豆(部分)を準備する。

 伝承行事は、4・5歳児の見えない世界への認識が広がるように実によくできている。」

 

 いうまでもなく、これらの遊びの原型は江戸時代よりずっと前である。3~7世紀、古墳時代の墳墓からままごとの道具として用いられたと推定される道具が発掘されている。3)

 また、そもそも子どもは狩猟・採取の時代から共同社会の一因として、大人といっしょに仕事をするのが日常生活であったから、4)何かをつくりだす活動は、狩猟・採取時代に起源を見いだすことができる。歌や物語は、口承文化であるから、その起源も江戸よりずっと古い。

 

 けっきょく、何百年と伝承されてきている子どもの遊びは、人間が子どものために延々と継承してきた文化であり、4・5才の子どもは人類の文化を継承することで自らを発達させてきたといえる。みてきたように、表2の遊びはすべて、今、眼前にはない全体の想像ができないと成り立たない活動であった。実際のところ、この力がないと文字の学習にすすめない。(本ブログ⑧)江戸時代、寺子屋で読み書きの手習いが始まったのは6・7才。現在、小学校で文字の学習が始まるのも6・7才である。世界の義務教育の始まりも多くの国で6・7才。つまり、人々はずっと昔から、4、5才児が文字を獲得するために必要な活動を文化として伝承し、文字獲得に必要な力の育ちを待って文字教育をはじめてきたといえる。

 

1)小林忠監修中城正堯著(2014)「江戸時代子ども遊び大事典」東京堂出版

2)中田幸平(2009)「江戸の子供遊び事典」八坂書房

3)相沢哲夫編(1988)「日本人百科全書22」.小学館

4)森山史朗他(1989)実践家庭科教育体系17「子どもの遊びと文化」

 

2.では、4才頃からの活動として、文化といえるくらい長く継承されている活動は他にないのだろうか。社会発展の歴史の中で、もし、そのような活動があれば、その活動は、遊びと同じように見えない世界への認識を広げる活動になっていたと推測できるからである。

 

 兼信・森(1992)5)は、子どもの遊びの発生を次のように記述している。

―――日本で人々の生活の様子がはっきりと確認できるのは旧石器時代後期になってからのことである。この頃は狩猟採取により植物を獲得することが生活の大半を占め、子供は早くから共同社会の一員として大人と一緒に仕事をするのが日常生活であった。縄文時代の末期になると農耕生活に入り労働と余暇の時間の分化が進んでいった。子供は大人の手伝いをしながら遊べる時間も徐々にできていき模倣遊びが発生していったと思われる。

 

5)兼信英子・森智子(1992)「ままごとの研究」.熊本大学教育学部紀要人文科学第41号

 

 縄文時代は、1万年以上続いていたから、人類の長い歴史でみると子どもの暮らしは、遊びより、共同社会の一員として労働に参加していた時代のほうがずっと長い。やがて、農耕が始まっても家族が生きていくために必要な労働力であることにかわりはなく、以後も子どもが家族の一員として働く時代は長く続くことになる。

 江戸から昭和まで続いた丁稚制度において、丁稚たちの最初の仕事は、掃除と子もりであった。つまり、何百年と続いた丁稚制度は、丁稚に採用される年齢(9・10才)までに掃除や子もりは誰もがひと通りできるということを前提にしていた。

 1950年代になってもなお、地方の子どもたちは、家庭の労働力の一部であった。

次は、民族学者、宮本常一(1962)6)の記録である。

「まずしく生きる僻地の村々では、父も母も家を外にしてはたらく。そして、子供の守(も)りはすべて兄や姉があたる。学校教育がおこなわれるようになっても、子供の守(も)りから解放せられることはない」「ふきのとうつみ(秋田県二ツ井町)、栗ひろい(荷上場市)も、子供たちにとってはたんなる遊びではない」

 年長児といっしょに幼児たちもこのような家事労働に加わっている。

 宮本は、続ける。

「子供たちは、家族員として、生産人として訓練させられてゆく。それにはまず親のすることを見習うことであった。子供達に仕事の手伝いをさせるのは幾分かの労力の助けになることをこい願っての意味もあるが、その親たちの持つ生産技術をはやく的確に身に付けてもらうことが親としてのなによりの大きな願いであった」

 

6)宮本常一(1962)「日本の子供たち」日本人の生活全集9.岩崎書店

 

 子どもが、そのほとんどを遊んですごせる時代は、歴史的に見るとつい最近のことなのである。しかしながら、そうではなかった時代も、子どもは、ちゃんと大人に育ってきていたのであるから、家事労働の中に大人へとすすめる力、すなわち、見えない世界への認識を広げることができる活動が含まれていたというほかない。

 では、現在の幼児期の家事労働、いわゆる「手伝い」も、2次元可逆操作期の媒介、「全体を想像しながら、部分を操作する」(表1)活動を含んでいるのだろうか。

 

  昭和62年、鹿児島大学、池山・田ノ浦(1994)7)鹿児島市内幼稚園児(3・4才から入園)を対象にした調査によると当時の幼稚園児たちが、もっとも、興味を示した(実際にしたがる)家事のベスト3は、「弟妹の世話」「食器を洗う」「洗濯ものをたたむ」であった。

 

 小さい子の世話は、おしくらまんじゅうと同じように常に空間全体を把握し自分の体(部分)をコントロールしないとケガを負わしてしまう。眼前にはない見えない背中(あるいは相手の背中)を想像して手と足(部分)を操作しないとおんぶも抱っこもできない。

 

 「食器を洗う」のはどうだろうか。子どもの生活科学研究会(2004)8)によると食器洗いには、次の工程が含まれている。

 内側→ヘリ→外側→糸じり→水道水で洗う。

 つまり、子どもは、最初から今はみえない全体を想像しながら部分を洗う。

 

 洗濯ものたたみも同じである。たたみおわりの全体を想像しながら、部分をたたみ始める。そうでないと、洗濯物はいつまでたってもぐちゃぐちゃである。

 

 なお、上記鹿児島大学調査で、昭和62年当時の幼稚園児たちが実際にしたがっていた家事のベスト10は、次のとおりである。すべて、「全体を想像しながら、部分を操作する」活動になっている。                  

                   表3

 ちなみに、直近ネット調査による幼児が好きな手伝いベスト3は、以下のとおり。9)

  1位「食材の調理」 2位「食卓に並べる」 3位「洗濯物を畳む」

 

7)池山和子、田ノ浦京子(1994)「幼児期のお手伝い~家事行動への興味と親の対応についての調査から」.鹿児島大学教育学部研究紀要人文社会科学編第45巻

8)子どもの生活科学研究会編谷田具公昭、村越晃編(2004)「子どもとマスターする49の生活技術」.合同出版

9)https://naki-blog.com/study/

調査時期:2022年3月3日
調査レポート:https://naki-blog.com/study/survey-report-40

 

 さて、こうして見ると、4才頃からの家事は、今、眼前にはない全体を想像できる力を必要としており、遊びと同じように見えない世界を広げる結果をもたらすことがわかる。だからこそ、家事労働への参加が主であり、遊びが従であった時代も子どもたちはちゃんと大人への道を歩むことができたのである。

 なぜ、4才頃から表3のような家事ができてくるのか。ヴィゴツキ-(2003)10)はその理由を見事に説明している。

「この年齢の子どもは全く新しい活動に移行する。・・・すなわち計画を具体化する可能性が発生する」(ヴィゴツキ-)

 

 眼前にない全体を想像するということは、頭の中で先にイメージをつくる(計画)ということであり、部分を操作するということは、すなわち計画の具体化である。

 だから、幼稚園児たちが家事を「したがる」というのは、子どもの本性なのであり発達を求めている姿だといえる。一方、鹿児島大学調査で親たちに家事手伝いの意義を尋ねたところ圧倒的多くの人たちが「家族の一員としての役割を果たす」(55.4%)と答えている。(池山・田ノ浦1994)親たちの意識も子どもが、共同社会の一員として大人と一緒に仕事をするのが日常生活であった時代(縄文時代)とかわっていない。これもまた社会の構成員として成人している大人の本性だといえる。私たちの社会は、ふたつの本性のおかげで、維持、発展してきた歴史だったのである。

 

10)ヴィゴツキ-著、土井捷三、神谷栄司訳(2003)「『発達の最近接領域』の理論」.山学出版

 

 以上によって、2次元可逆操作期の子どもたちの前にはふたつの文化が用意されていることがわかる。すなわち「遊び文化」と「家事文化」である。なお、2次元可逆操作期は、はじめての「倫理」を継承する時期でもある。(参照:本フログ「『階層-段階理論』による知的発達と人格発達の統一的理解」)

 

3.みてきたように、2次元可逆操作期の子どもたちは、先人たちの文化を継承する活動において産物を獲得してきた。したがって、産物獲得のための媒介、「眼前にはない全体を想像しながら、部分を操作する活動」(A) は高次から提供される。そして、可逆操作の相互浸透モデル11)によれば、(A)の活動量、すなわち、溶媒の呼び込み量は浸透圧(Π)の強さに規定される

 

ファントホッフの法則12)

     Π   V     =   n    R     T   

    浸透圧 容液の体積      物質量 気体定数 絶対温度 

      

     Π(A量)=nRT/V

 

 上記法則により、媒介「眼前にはない全体を想像しながら、部分を操作する活動」量(A) と、産物「見えない世界の認識」量(n)は比例関係にあることがわかる。

 (A)の活動によって産物(n)を獲得し、(n)の獲得によって、(A)の活動はさらに広がる。両者は可逆、循環する自己運動によって発達を遂げる。

      

11)本ブログ

12)野島孝彦著(2012)「はじめて学ぶ化学」.化学同人

 

4.文化の継承であるから、産物(n)の獲得のための媒介活動(A)には何らかの形で大人が関与する。しかし、巡り巡って友だちに触発されてということもあるし、大人も親だけではない。竹馬の作り方を近所のお兄ちゃん(青年)が教えることもあるし、将棋は近所のおっちゃんが教えることもある。今なら、保育所や学校(障害児教育)の先生だって大きな役割を果たす。

 ただし、2次元可逆操作期において、このような人との関係(「可逆操作関係」以下同じ)は、産物(n)獲得のポテンシャルを広げるのであり、産物(n)獲得の媒介となるのは、「眼前にはない全体を想像しながら、部分を操作する活動」(A) である。つまり、誰かに伝授してもらったらひとりでも産物(n)を獲得する活動は可能である。

 

 では、どのような仕組みによって、人との関係が産物(n)獲得のポテンシャルになるのだろうか。

 

 前述のヴィゴツキ-は、この時期(就学前期)に子どもの「興味の入れ換えや切り換えが発生する」13)とした。すなわち、今まで直感的、感覚的な動機で興味・関心をもっていた世界が、自分が暮らしている集団の人との関係によって一新される。「お母さんが誉めてくれるから」「お父さんが喜ぶから」「友だちがしているから」「保育所でお話をきいたから」「誰々君のようになりたいから」

 

 このように今まで直感的・感覚的だった興味・関心は、社会的な意味によって再編される。けっきょく、子どもの側にも人から人へ、古い社会から、今の社会へ、文化を継承する準備ができている時期なのである。

 

 冬の冷たい水は「イヤ!」。そんな理由で水にさわらなかった子どもでも、「家族みんなのために自分の役割を果たす。お姉ちゃんもそうだったから」と、家族との関係で社会的な意味がわかると進んで「お米をとぐ」。そして、眼前にはない白いご飯(全体)を想像しながら、お米をとぐ。今はまだ現実にはなっていない、お父さん、お母さん、お姉ちゃんが、おいしそうにご飯を食べる姿を想像しながら、「ありがとう」といわれる自分を想像しなだら、目の前のお米をとぐのである。

 

 私たちの社会の文化は、こうして継承され、そして、子どもの側もそれまでは興味・関心のなかった世界へ認識を広げていける仕組みになっている。遊びも同じである。それまでの感覚的な好き嫌いを乗り越え、誰かに誘われたり、教えられたり、つまり、人との関係によって遊びの種類を広げ、新しい分野での楽しさがわかり文化の担い手になっていく。

 

13)ヴィゴツキ-著、土井捷三、神谷栄司訳(2003)「『発達の最近接領域』の理論」.山学出版

 

5.江戸時代の寺子屋には、盲児、聾唖(ろうあ)児、肢(し)体不自由児、精薄児等の障害児がかなり在籍していたことが報告されている。(文部科学省「学制百年史」)

鴨井(2019)14)は次のように記述している。

寺子屋では)「6、7才で寺入りし、読み、書き、算盤(そろばん)が教育された。一斉授業ではなく、年齢、学習進度、子どもの必要性に根ざした個別授業が中心であった。」

 しかし、寺子屋の障害児たちは当時の幼児期の遊び(表2)のうち、たとえば、竹馬はできなかったり、おしくらまんじゅうも無理だったり、また、鬼ごっこはできなかったりしたはずである。同じように家事活動も制限されていた。にもかかわらず、寺子屋は相当な数の障害児を受けいれていた15)のであり、日本の寺子屋の歴史は、幼児期の遊びや家事のその全部を経験しなくても、文字学習は可能であったことを示している。

 つまり、残存能力により可能な遊びや家事活動だけでも、3次元可逆操作期へ移行することは可能だったのである。

 もちろん、この事情は今でもかわらない。 

 河野勝行さんは、終戦の前年、母親の過労と栄養不足で超未熟児として生まれ、脳性まひになった。当然、幼児期の活動は多くの制限を受けることになる。しかし、河野さんは、左足にペンを挟んで文字を書き、書物を20冊以上もだす研究者になった。(鴨井2019)

 ここに私たちは、障害によって活動に制限がある子どもたちの可能性を見いだすことができる。

 以上によって、「眼前にはない全体を想像しながら、部分を操作する活動」(A)は、できる範囲の活動で場数をふみ、藤原(2019)16)のいう「世界には部分と全体がある」ことを理解していくことが重要であって、必ずしも「遊び」や「家事」のすべてを経験する必要はないことがわかる。

 

14)鴨井慶雄(2019)「子ども・障害のある人から見た明治150年」.クリエイツかもがわ

15)佐藤陽子(2005)障害児保育―特別な援助を必要とする子どもの保育―の歴史~寺子屋時代から今日まで~.尚絧学院大学紀要51集

16)藤原辰史(2019)「分解の哲学~腐敗と発酵をめぐる思考~」.青土社

 

         障害児教育実践への示唆

         2次元可逆操作期の自己実現

 

 今、2次元可逆操作期の子どもたちの前にはふたつの文化が用意されている。「遊び文化」と「家事文化」である。そして、2次元可逆操作期の可逆操作は、➀想像世界を認識できる力で②眼前にない全体を想像しながら、部分を操作する活動(媒介A)によって、見えない世界への認識(物質n)を広げていくものであった。

 もう、想像世界を認識できる力はすでにもっている。もう、そこにある力を発揮することが自己実現の道である。したがって、教育は「もう獲得されている可逆操作が、もうその力はあるけれど発揮する機会がないところに働きかける」(加藤2018)17)

前述のように上記の媒介(A)と物質(n)は、比例しており、両者は可逆、循環しながら発達を遂げる。

 

 文化の伝授―継承を可逆操作の相互浸透モデル(前回ブログ)によって説明すると次のようになる。 

               

     大きな物質=可逆操作の発揮によってつくられる産物(表1③)

      2次元可逆操作期にあっては、「見えない世界の認識」

       

 拡張=物質粒子か濃度の高い方から低い方へ広がる過程18) 

             図1

1.2次元可逆操作期において、文化を継承する力(溶媒)は拡張により低次から供給される。

2.2次元可逆操作期の産物「見えない世界を認識する力」は、2次元の溶媒の中でうまれる。

 

 浸透圧=水分子が半透膜を通過して浸透するときの圧力。19)

 2次元可逆操作の発揮によって、産物が増加してくると、2次元の溶液中にしめる物質の割合は高くなる。浸透圧により、3次元から、2次元へ溶媒が流れ込む。

               図2

3.浸透圧によって、産物獲得の溶媒となる活動(「遊び文化」「家事文化」)は、高次から伝授される。

4.伝授する人は、地域社会を構成する人であり、誰であるかは、問われない。

5.溶媒の流入によってさらに産物(「見えない世界の認識」)を生む土壌が広がる。

               

 

17)加藤聡一(2018)「人間発達研究所通信」V0l34(3 )

18)大地睦男著(1992)「生理学テキスト」.東京文光堂

19)八杉貞雄、可知直毅監修(1971)「生物事典」.旺文社 

 

 以上によって、2次元可逆操作期の障害児教育実践について、次の知見を得ることができる。

 

➀対人最少負担活動の選択

 自閉症スペクトラム症(ASD)児は、人とのかかわりや、コミュニケーションを苦手としている。20)「子どもは2~3歳くらいになると、周りの子どもの存在を意識するようになります。一緒にあそぶのではないとしても、隣であそんでいる子どものようすを気にしたり、まねをしたりしようとします。しかし、自閉症スペクトラムの子どもは同年代の子どもに関心をむけることはありません。保育園や幼稚園の集団生活においても、ほかの子どもたちと一緒に遊ぶ機会が少なく、ひとりあそびをしているのが特徴です。」(榊原2017)21)

 

 人と関わることを苦手とする子どもたちが、残存能力を生かして、自己実現を果たしていくためには、対人活動が最少負担になる活動の選択が求められる。文化の伝授―継承においては、伝授する人が誰であるかは問わない。(図2)

 したがって、➀安心できる人(集団)からの伝授によって、②最少接触時間で継承できて、③継承後はひとりでも完結できる文化を選択することができる。

 このような活動は図2の「工作・お絵かき遊び」「おはなし遊び」の読み聞かせなどで可能である。その際、私たちは短時間・高頻度になる学習システム22)を提案している。(下図右.S=主体)

 

    

 

20)田中哲藤原里美監修(2016)「自閉症スペクトラムのある子を理解して育てる本」.学研プラス

21)榊原洋一(2017)「自閉症スペクトラムの子どもたちをサポートする本」.ナツメ社

22)本ブログ⑫対象性の原理からみえてくるもの「新しい発達の原動力とエネルギー保存則」

 

②感覚許容活動の選択

 熊谷(2018)23)は、感覚過敏が生み出す世界を次のように説明している。

―――感覚過敏とは、人が外部環境にある何らかの刺激によって強い衝撃を受けることから始まる。そして、その衝撃が強すぎて苦痛となる場合は、それを避けるために、たとえば耳を抑えるなどの回避行動が生まれる。しかし、これは刺激を受け入れにくい場合である。逆に受け入れやすい場合は、そこから通常以上の感覚が生まれるわけだから、その世界に没入することになる。

 

 可逆操作の相互浸透モデルにおいて、浸透圧によって高次から流れこむ溶媒は、「眼前にはない全体を想像しながら、部分を操作する」活動である。したがって、遊びや家事の種類は限定されない。運動遊びから伝承行事まで、あるいは、この年齢で可能になるどんな家事(表3)でも産物は獲得できるし、産物の獲得によって、浸透圧が高まり、さらに産物を獲得できる条件が広がる。

 つまり、感覚障害のある子どもたちに苦痛に感じる活動を迫る必要はないという結論に達する。けっきょく、その子の感覚で許容できる範囲の活動こそが、残存能力を生かす道であり、自己実現の道である。江戸時代からそうだったように誰もがすべての文化を継承する必要はないのであるから、みんなと同じことのすべてを経験する必要はないといえる。

 

 こうして、子どもたちと私たちの前には、その子の感覚で許容できる範囲の活動という選択、あるいは、その子にあわせて、子どもといっしょにそんな活動を創り出していくという選択肢が広がる。

 もうすでにはまっている世界があるならばそれがヒントになる。その世界を足がかりに、受けいれ可能な世界を探っていける。

 彼が没入している世界の写真集や図鑑などがあれば、セリフをつけて読み聞かせ、そこから彼が受け入れ可能な世界を広げていける。もちろん、対人関係を苦手としている場合は、➀の原則にしたがい対人最少接触時間で継承できる活動を子どもといっしょに探しにいくことになる。

 障害児の教育は、毎日が子どもといっしょに宝物を見つけに出かける旅だといえる。したがって、障害児学校の教育課程には、文化の伝授者と継承者が自由な旅ができる自由度が求められる。そして、大規模、過密、雑然としている教育環境は、感覚障害をもっている子どもたちの自己実現の道を妨げる。大人たちの責任において落ち着いた教育環境が整備されなければならない。

 

 参考  熊谷(2017)による感覚過敏の種類23)

 聴覚過敏~両手で耳を抑える、大きな音を怖がるなど。

 視覚過敏~新しい場所や視界の変化を恐れるなど。

 その他の過敏~人に触れられるのを嫌がる、水、砂、泥などに触れるのを嫌がるなど。

 固執的行動~出来事の順序や道順にこだわるなど。

 

23)熊谷高幸(2017)「自閉症と感覚過敏」.新曜社

 

③家事文化の継承という選択

 前述のように興味・関心は、2次元可逆操作期に人との関係によって一新される。(ヴィゴツキ-2013)。結果、人との関係を苦手とする子どもたちは、興味・関心をひろげることに困難さを伴っている。しかし、みてきたように人間が家事労働によって発達してきた歴史は、遊びによって発達してきた歴史よりずっと古い。

 

1.家事労働は、家族の一員として、誰かのためにという社会的意味がわかりやすい。したがって、多少の苦手を乗り越えて、認識世界をひろげていける可能性を含んでいる。

2.家事は、台所の蛇口に手が届くようになった年齢、掃除機がもちあげられるようになった年齢、つまり、生活年齢の高さがプラスにはたらく。

3.また、ひとりの年長者からの伝授が可能であり、伝授―継承後はひとりでもできる活動である。結果、多くの家事労働は、対人最少負担活動になっている。

4.そして、それが、家族のために毎日必要とされている家事なら量的な蓄積も進む。

 

 学校では、家での日課となるように、ひとりでできるまでを伝授-継承する活動が可能である。

 

 寺西は(2005)24)は、「お米とぎ」を3才からのお手伝いとした。私たちの経験では、2次元可逆操作期の子どもたちなら炊飯器を使った「ひとりでのご飯たき」学習が可能であった。同じように電気調理器具を使ってなら、3次元可逆を越えると、「ひとりでのカレーづくり」「ひとりでのハンパーグ」など複雑な調理も安全にひとりで完成させるまでの学習が可能であった。私たちは、お家でできることを学習のゴールとしていたので、最終的には、ひとつ(部分)ひとつ(部分)声をかけたり、パート(部分)ごとの分業はせずに、ひとりでできるまでを目標にした。そして、学校でひとりで、できるようになったら、個別に連絡帳で各家庭に連絡した。

 

「カレーをすべてひとりで作ってくれました。母とちがった味のおいしいカレ-がいただけました。」連絡帳(父)

 

「仕事でおそくなりカレーでもつくっといてね、と電話をいれました。7時前に帰宅するとおいしいカレーとサラダ菜ができあがっていました。」連絡帳(母)

 

「とうふステ-キを作ってくれました。祖母も、『こんなにもおいしいごちそうが作れるようになったか』と、喜んでおりました。いろんなことに自信がついてくると思います」連絡帳(母)

 

 彼らは、家族の一員として、縄文時代から続く人間社会の文化を継承した。しかし、それは同時にすでにもっている自分の力を発揮する自己実現の道でもあった。当時の私たちは、家事への参加が、人間のふたつの本性を発揮する活動であることに気付くことはできなかった。

 

24)寺西恵理子(2005)「3才からのお手伝い」.河出書房新社

 

 

 

階層と段階の視点⑰ 可逆操作の相互浸透~ 1次元から2次元へ

         可逆操作の相互浸透

   1次元から2次元へ~障害児教育実践への示唆

              山田優一郎(人間発達研究所会員)

 

「対立要素は、相手に影響をおよぼし、その作用を浸透させあっている。」古在由重企画、森宏一編(1971)「哲学辞典」.青木書店

 

 相互浸透とは何か。岩崎(1981)1)は、自己と他者とのあいだに成り立ち、自己が他者へ浸透し、同様に他者が自己へと浸透する。そして、それぞれにおいて、自己が他者性への契機を含むとした。

 

 一方、田中(1980)2)は、低次の階層の可逆操作は、高次の可逆操作の前提(であり)、低次の階層の可逆操作は高次のものを契機として含んでいると説明している。

 

 今回は、自然界にみられる拡散と浸透の現象から、可逆操作の相互浸透について検討した。結果、いくつかの実践的な知見が得られたので報告する。

 

1)岩崎充胤(1981)「弁証法の根本法則と弁証法的カテゴリー」一橋大学一橋論叢編集委員会編「一橋論叢」第86号第6号

2)田中昌人(1980)「人間発達の科学」.青木書店

 

 はじめに

 

 可逆操作とは何か。

「外界の世界をとり入れ、新しい活動をつくりだし、それを自らの内面にとりこんでいく際の基本操作」田中昌人(1990)「人間発達研究所通信」(6)31.15

 

 本ブログで説明してきた可逆操作、可逆操作関係は、以下のとおり。

 操作単位ごとの媒介となる活動で外の世界に働きかけ、自らを発達させるための産物を獲得する。基本操作が媒介と産物の間を可逆し、両者は拡大再生産されて発達を遂げる。            

               表1 可逆操作

          表2 可逆操作力と可逆操作関係 

  可逆操作関係=媒介活動(表1)の基軸となる人との関係

 

1.可逆操作の相互浸透モデル

 以下、使用することばの定義3)

 溶質=液体にとかされている物質(塩や砂糖など)

      大きな物質  

       

 溶媒=溶質をとかす液体。(代表は、水) 

      

    小さな物質でできている。

       水の分子、イオン、微粒子など

 

 溶液=溶質が溶媒に均一にとけた液体全部(塩水・砂糖水など) 

 濃度=溶液中の溶質の割合

 

 半透膜=ふつうの水を通すが溶質(大きな物質)は通さない性質の膜。 細胞膜・ぼうこう膜・セロファンなど4) (  )内筆者

 

 発達における各段階は半透膜で区切られていると仮定し、上記定義のうち、溶質と溶媒を次のように置き換えて、可逆操作(表1)の産物と媒介の移動を検討する。

 

 溶質→ 大きな物質=可逆操作(基本操作表1➀)の発揮によってつくられる産物

    (表1③)

    1次元可逆操作期にあっては獲得されることば(語彙)      

             

溶媒→ 媒介(表1②)

    1次元可逆操作期においては、「大人との交流」

       

      

可逆操作の相互浸透モデル「拡散」現象によるシュミレーション

 拡散=物質粒子か濃度の高い方から低い方へ広がる過程5)

 

 発達段階の区切りには、年齢差がある。したがって、もうすでに到達していて、活動の真っ盛りにある低次の段階と、まだ活動がはじまっていない高次の段階では溶媒の濃さに相当の差があることが予想される。全領域の活動が常に先行する低次は、常にこい溶媒となり、こい溶媒に含まれる小さな物質は、拡散によって浸透膜をとおり抜け、高次へと移動する。結果、高次の溶媒は、低次の物質を含むことになる。一方、溶媒中の大きな物質は、浸透膜をとおりぬけることができず、低次の段階に留まる。          

                 図1

 以上から、可逆操作の相互浸透を次のように説明することができる。

 ➀各段階の産物は、各段階の可逆操作関係(溶媒)の中でつくられる。各段階の溶媒は、当該段階の全領域の活動によって濃度を増していく。

 ②高次の産物をうむ高次の溶媒は、低次から供給される。

 ③可逆操作によってつくられる産物(大きな物質)は、段階間を通過できず、双方受け入れ不可であり、各段階の可逆操作は対立・排除しあっている。

 ④可逆操作によって、一度獲得された産物は逆戻りできず、不可逆的に獲得される。

 

3)野島孝彦著(2012)「はじめて学ぶ化学」.化学同人

4)八杉貞雄、可知直毅監修(1971)「生物事典」.旺文社

5)大地睦男著(1992)「生理学テキスト」.東京文光堂

 

可逆操作の相互浸透モデル❷「浸透圧」によるシュミレーション

 浸透圧=水分子が半透膜を通して浸透するときの圧力6)

     ←の方向へ移動する時の力

               図2 

 1次元可逆操作の発揮によって、産物(語彙)が多くなると、1次元の溶液中にしめる物質の割合は高くなる。

 

 ⑤浸透圧によって、溶媒は高次から低次へ移動する。

 ⑥溶媒の流入によって、産物をうむ土壌が広がる。

 

6)八杉貞雄、可知直毅監修(1971)「生物事典」.旺文社

 

2.可逆操作の可逆性

 1次元可逆操作期は、産物(語彙量)の蓄積によって1次元の濃度が高くなり、浸透圧によって、2次元から、「大人との交流」が呼び込まれる。「大人との交流」によって、さらにことばの拡大を進める条件が整う。両者の比例関係は浸透圧を計算することによって説明できる。

 

➀1才から4才までの語彙量は図5のようになっている。

 2才を越えるとことばの拡大が一気に進み、2次元可逆操作(4才頃)に移行する。

              図3

 

②高次の段階から呼び込まれる「大人との交流」活動量、すなわち、溶媒量は浸透圧の強さに規定されている。(図2)。そして、浸透圧は、ファントホッフの法則によって計算できる。 

 ファントホッフの法則7)

    Π    V     =  n     R       T   

   浸透圧 容液の体積      物質量   気体定数   絶対温度 

    (Pa)  (立方メートル)  (mol)  (8.31) (℃+273)

    

     Π=nRT/V

 

 では、語彙量=物質量nとして、ことばが急拡大する2才を境界に、1才~2才間の浸透圧と、2才~3才間の浸透圧のトータルを比較してみる。

   

   語彙量は一語を1molとし、体積は計算していくための仮定数値

   n=語彙量 絶対温度8)=体温36°+273 気体定数8.319)

   溶液の体積 1㎜角積木 7個×7個×8個=392㎜

 

 1才~2才間の浸透圧 増加語彙数291語

       物質のモル数 = 291 mol

       体積 = 392 m3

       絶対温度 = 309 K

       気体定数 = 8.31 J/(mol·K)

 

 浸透圧 Π= nRT/V

 291 mol ×8.31 J/(mol·K)×309k ÷392 m3≒ 1906 Pa

 

2才~3才間の浸透圧  増加語彙数700語

          物質のモル数 = 700 mol

      体積 = 392 m3

      絶対温度 = 309 K

      気体定数 = 8.31 J/(mol·K)

     

    浸透圧 Π= nRT/V

    700 mol ×8.31 J/(mol·K)×309k ÷392 m3≒ 4585 Pa

 

 2才~3才間は、それまでの2倍以上の浸透圧で溶媒(「大人との交流」)が流れこむ。それは、増加した語彙量も2倍以上だからである。つまり、語彙量と「大人との交流」は、比例している。

         

           大人との交流⇔語彙量

            

 両者が比例しているという法則によって、私たちは、この時期の子どもたちに見られる現象、いわゆる第1反抗期の意義について知ることができる。第1反抗期は「1才~3才頃の幼児期みられる、・・・・親のいうことを聞かなくなる」(「発達心理学辞典」ミネルヴァ書房)現象である。

 子どもたちは、この反抗によって、溶媒(「大人との交流」)の呼び込み量を増やして語彙を拡大している。(図3)すなわち、なんでも「イヤ!」の反抗は、困ったことではあるけれど、ことばを急速に拡大しながら、2次元可逆操作期へ向かっていく、たくましい姿だと理解することが可能である。

 

 また、大人との交流⇔語彙量という比例関係から、「階層-段階理論」における可逆操作(表1)の媒介(=溶媒)と産物は可逆し、循環しながら発達をとげることが自然現象のひとつとして説明できる。そして、ファントホッフの法則は、可逆操作の媒介を欠いた活動が可逆、循環する発達の自己運動のサイクルにならないことも示している。

 

7)野島孝彦著(2012)「はじめて学ぶ化学」.化学同人

8)絶対温度=どんなに努力してもそれ以上は下げることができない限界の温度が-273°そこから1°Cずつ刻んでいく温度。単位はK(ケルビン)。したがって、Kと°Cの関係は、°C+273=K 

9)気体定数=8.31                        

  圧力を計算するために現実には存在しない理想気体になる定数

 

          可逆操作の相互浸透 

  障害児教育実践への示唆

     1次元可逆操作から、2次元へ

 

 相互浸透は、自己が他者へ浸透し、同様に他者が自己へと浸透し、それぞれにおいて、自己が他者性への契機を含む。(岩崎1981)

 みてきたように、1次元の溶媒の中にある小さな物質は、拡散によって2次元へ移動し、大きな物質n(産物)がたまると浸透圧により2次元から1次元へ、溶媒が移動する。1次元の物質は2次元世界を形成する土壌となり、2次元からの溶媒(「大人との交流」以下同じ)は、1次元世界を形成する契機となる。なぜ、2次元からの溶媒が1次元世界を築いていく契機を含んでいるのか。それは、いうまでもなく、大人の立ち振る舞いが、1次元の子が欲しくてたまらない、ありあまるほどのことばを伴っているからにほかならない。 

 

 以上によって、1次元可逆操作期の教育実践について次の知見が得られる。

 

1.常同行動によって発達するか。この問いに対して、可逆操作の相互浸透の原則からは、次のように説明できる。

 常同行動はたいていの場合、前の段階の活動であり、1次元の産物をうまない。したがって、1次元の濃度が高まらず、2次元から溶媒の流入が生じない。結果、常同行動によって発達を遂げるのは困難だといえる。

 つまり、今、持っている力を発揮していく自己実現のためには、何らかの大人の介入、支援が必要不可欠だということを示している。また、常同行動は、楽しみということだけでなく、どうしたら自分の力が発揮できるのか、わからない状態だと見ることもできる。

 上記の理由から、常同行動を中断し、ことばを理解できるという、すでにもっている力(表1「基本操作」)を発揮できる活動の場がどうしても必要となる。一方、その間、常同行動が中断できればいいのであるから、普段の常同行動をあえてやめさせる必要はないこともわかる。産物が蓄積されて、溶媒を呼び込むことがうまくできるようになれば、自然とそちらが主流になることが予想されるからである。

 

2.1次元可逆操作期においては、喜んでする活動であっても、ひとりでの活動は、溶媒のない活動となり、産物をうまない。前述のように産物の誕生は、可逆操作関係(溶媒)を必要としている。産物がうまれない状態では、1.と同じように1次元の濃度が高まらず、いつまでも、2次元からの溶媒の流入が生じない。結果、たとえ、音(おと)としてのことばがいえたとしても、暮らしのなかで使える生きた語彙(産物)を蓄積することはできないといえる。

 

 中内敏夫(1983)10)は「学力とは何か」との問に次のように答えている。

―――カゼをひけばカゼグスリとよばれているものを飲めば良いという学力は、うそではないのだから、ひとつひとつとってみればこれで結構現実的な能力として有効に働くだろう。しかし、それは現実認識の能力としては、深いものとはいえない。その学力の浅さとそこからくる弱点は、その認識対象としている現実の状況が激変する転換期にはっきりあらわれてくる。なぜそうすればよいのかという「理」(「なぜなら・・」筆者)の部分を含まないやり方や身のこなし方の学力には、一歩先の未来を予測する能力も、一歩前の過去を記憶する能力もない。だから次に現れてくる環境に適応することができない。

 

 要するに変換可逆操作期における媒介「なぜならば・・」と考えることを欠いた教育は、子どもたちにかなりのリスクを負わせることになる。

 

 1次元可逆操作期のことばの獲得でも同じことがいえる。媒介、「大人との交流」を欠いた状態でのことばの獲得は、生きた力にはならない。実際にことばでのやりとりはできないのにコマーシャルが歌える子、場面に関係なく特定のフレーズを繰り返す子、つまり、コミュニケーションにならないことばをもつ子が、私たちのまわりには結構いる。まさに中内(1983)のいう「環境に適応することができない」ことばである。1次元可逆操作の溶媒、「大人との交流」の中で、ことば(産物)を獲得していく、その過程こそが未来を切り開くことばをうむといえる。

 

3.1次元可逆操作期の幼児は、高次から移動してくる溶媒、「大人との交流」によって、産物を獲得する条件が広がる。なぜ、「大人との交流」が溶媒となるのか。それは、前述のように大人の立ち振る舞いが、1次元の子が欲しくてたまらない、ことばを伴っているからであった。だとすれば、この時期の子ども同士の交流は「大人との交流」を補完すると思われる。年上年齢児ならどの子も大人ほどでないにせよ、1次元の子が必要としていることばを伴って交流できるからである。

 

 さらに、変換可逆操作期以降の年上年齢児との交流は、「大人との交流」と同等の質をもっているといえる。なぜなら、「なぜ、泣くのだろう。空腹なのか、おしっこなのか。あるいは、遊び相手になってほしいのか・・」、「どうしたら喜ぶのだろう。こうしたらどうか。なぜならば・・・」と、論理的に思考を巡らせながら、大人と同じ質で交流できるからである。

 

4.ただし、障害によって他者と交流手段に制限がある時、その時は文字通り「大人との交流」が必要だと思われる。少しの動きから、子どもの意図を読み取ったり、聞き取りにくいことばも理解しようと努めたり、いわゆる大人の対応がないと交流そのものが実現できないからである。

 大人の対応がないまま、交流がひろがらないと、次のような負の連鎖に陥ることが予想される。

 溶媒が不足する→産物がうまれず、1次元の濃度が高まらない→2次元からの溶媒の移動がおこらない→産物がうまれない。→溶媒の流入がおこらない。→溶媒が不足する。

 

 小さい糸口で交流を実現しようとする時、その時はもはや大人の対応が必要不可欠なのであり、おしゃべりができる子ども集団の刺激を受けて何とかなるものではない。

 

 ヘレン・ケラーの幼少期、彼女がすべての物には名前があることがわかった瞬間の記録が残されている。11)

 

 ―――井戸小屋に行って、私が水をくみあげている間、ヘレンには水の出口の下にコップをもたせておきました。冷たい水が湯飲みを満たし、(あふれる)冷たい水の感覚が彼女をびっくりさせたようでした。(私は)ヘレンの自由な手のほうに

「w-a-t-e-r」と綴りました。彼女はコップを落とし、くぎづけされた人形のように立ちすくみました。

 

 “私”というのは、ヘレン・ケラ-の家庭教師サリバンである。サリバンの大人としての機知によって、ヘレン・ケラ-の他者との交流は一変する。

 

 ―――それから、地面にしゃがみこみその名前をたずね、ポンプやぶどう棚を指さし、そして突然ふりかえって、私の名前をたずねたのです。 

 

 知性の世界へ、ヘレン・ケラーが他者との交流の大河をつくりだす発端は、サリバンとの交流によってつくりだされた。

 

 「クシュラの奇跡」の母親は、クシュラの笑顔に親しみ以上のものがあることに気がついた。それは、懸命に探し続けているものが突然見つかった時のサインであった。もうこれだけで交流が進む。クシュラは1日14冊の読み聞かせ、すなわち「大人との交流」によって奇跡をおこした。12)

 

 1次元可逆操作期以降の段階にありながら、交流手段に制限がある時、交流がひろがる契機もまた、可逆操作の媒介、「大人との交流」によって、なのである。

 

5.自閉症スペクトラム症(ASD)児は、通常、3才ころまでには見られる発語(産物)が見られないことで障害が顕著になり、初語がでたあともなかなか語彙が増えていかない。13)したがって、可逆操作の相互浸透モデルからは、媒介、「大人との交流」を呼び込む力が弱い子どもたちだといえる。障害によって、自分の力で媒介を呼び込むことが困難なのであるから、当面、大人が入り込み媒介となって産物を獲得していくことになる。すなわち、1次元可逆操作期のASD児もまた自己運動が可逆、循環しはじめるまでの産物の獲得には大人の助けを必要としている。

 

 2017年、国立生育医療研究センターの診療部グループ(立花良之医長)は、早期の自閉症児への療育介入によって、その後の社会生活予後が改善される可能性があることを明らかにした。(同年11月16日付同センタープレスリリース)

 一方、私が所属していた実践集団は、1980年代後半、中学生になったひとりの自閉症児の変化によって、偶然にも、いやがらない程度の「介入」が人間関係を広げるという実践的な教訓を得ていた。14)以後、ことばの学習は、短時間、毎日の介入(学習)になるよう校時表をくみたてた。私たちの実践からは、すでに獲得している産物(語彙)のアウトプット学習によって、自己運動としての媒介の呼び込みが徐々にはじまることが示唆されている。15)

 

6.障害のない子どもたちは、相互浸透のシステムによって、産物(物質n)を蓄積し、子どもは自分の力で溶媒、「大人との交流」を呼び込む。そして、2才までに獲得される語彙数は約300(図3)である。以後、それまでの2倍を越える浸透圧で「大人との交流」を呼び込み、一気に語彙数をふやし2次元可逆操作へ向う。2才をこえるとなぜ大人を呼び込む量が多くなるのか。それはいうまでもなく、「大きい・小さい」に象徴される形容詞の獲得によって二語文がふえ、より効率よく、溶媒を呼び込むことができるからである。そして、多くの子が「大きい・小さい」を2:3才越16)で理解している現実からすると、約300の名詞や動詞を獲得してきたその過程、「大人との交流」の中に「大きい・小さい」がわかるシステムはすでに組み込まれていたと考えるほかない。以上から、産物(物質n)⇔「大人との交流」の自己運動が加速する2才までに必要な産物(物質n)は、約300の語彙ということを仮説的に見積もることができる。

 

 自己実現の道は、子どもたちも、私たちも、いつからでも、一歩ずつ歩いていける。こうして、私たちは、現在、1次元可逆操作期にいる子どもたちの「未来を語りあう」17)ことができる。                    

 

10)中内敏夫(1983)「学力とは何か」岩波新書

11)アン・サリバン著、槇恭子訳(1973)「ヘレン・ケラーはどう教育されたか」.明治図書

12)ドロシー・バトラー著、百々佑利子著(2006)「クシュラの奇跡―140冊の絵本との日々」.のら書房

「クシュラは、複雑な障害をもって生まれた。染色体異常で脾臓・腎臓・口腔に障害があり、筋肉麻痺であるため2時間以上寝られず、3才なるまで物も握れず、自分の指先より遠いものはよく見えませんでした。

 複数の医師から、精神的にも身体的にも遅れていると診断されました。

 しかし、生後4ケ月から両親が一日14冊の本を読みきかせることを実行したところ、5才になる頃には、彼女の知性は平均よりはるかに高くなっていました」(東京大学大学院教育研究科市川伸一ゼミの本書紹介)

13)榊原洋一(2017)「自閉症スペクトラムの子どもたちをサポートする本」.ナツメ社

14)山田優一郎・國本真吾著(2019)「障害児学習実践記録~知的障害児・自閉症児の発語とコトバ」.合同出版.

15)前掲14)

16)嶋津峯眞監修生澤雅夫編集者代表(2003)「新版K式発達検査法」.ナカニシヤ

17)「教えるとは、未来を共に語ること、学ぶとは、真実を胸に刻むこと」(ルイ・アラゴン

 

 ※もっとうまく説明できる方法があるかもしれません。工夫してお使いください。

 

 

 

 

 

 

階層と段階の視点⑯ 図解 量から質への転化(原動力の発生)~飛躍に必要な「量」は可視化できるか

   量から質への転化(原動力の発生)

 

                                                                             山田優一郎(人間発達研究所会員)

 

「発達段階を示す質の存続と結合した量の規定性について、漸進的に行なわれる量的蓄積をもとに、一定の限度をこえると新しい質の獲得にもとづく飛躍的移行が進む」

           田中昌人(1980)「人間発達の科学」.青木書店

「対立要素は、相手に影響をおよぼし、その作用を浸透させあっている。対立要素の一方が他を圧倒する影響・作用をおよぼすことで、事物はこれと異なる新たな事物に転化する」古在由重企画、森宏一編(1971)「哲学辞典」.青木書店

 

「相互排除の側面が、相互浸透の側面を否定して、古い媒介関係の揚棄をもたらす」

 岩崎充胤(1981)「弁証法の根本法則と弁証法的カテゴリー」一橋大学一橋論叢編集委員会編「一橋論叢」第86号第6号

 

揚棄(ようき)~弁証法における重要な概念。あるものをそのものとしては否定しながら、一層高次の段階において、これを生かすこと。(「広辞苑」.岩波書店

 

  飛躍に必要な「量」は可視化できるか

    1次元から2次元へ。「大人との交流活動(媒介)」量の検討

 

 以下、フェルミ推定によって、1次元可逆操作期から2次元へ移行するために必要な「大人との交流活動」時間量(一日当たり)の推定を試みる。

  ※「大人との交流活動」(表1)

 

 フェルミ推定=正確に割り出せない数値を「だいたいの数」として導き出す手法。フェルミ推定では仮説をたてることでおおよその値を推定する。1)

 

 1次元可逆操作と2次元可逆操作の内容は、以下のとおり。

                表1

 

1.厚生労働省の「人口動態統計」の最新データ(2020)によると、現在出生率のピ-クは、30才~34才である。そして、そのうち一番大きなグループは、第1子の出産であった。(43%)

2.一方同省の「出生に関する統計」(2021)によると30才7ケ月で第1子を出産した女性が第2子を出産するまでには、平均2年の間隔があく。

3.したがって、ここでは、多くの子が1次元可逆操作期のはじまりである1才半を子ひとり対大人という環境で2次元可逆操作へと進んでいると仮定した。

4.次の生活記録から、3.で仮定した平均的な1才半児のおおまかな大人との交流時間を推定できる。※食事時間は、保育園のいわゆる「給食時間」の半分とした。(1対1対応可能なため)

 

「生後1才半のスケジュールと1日の過ごし方!授乳期間や睡眠時間の変化について1才半の1日の生活リズム」(2021年9月8日)2)

         夫婦+1才半女児世帯 母専業 夫は自宅で自営

 上記記録から、第1子をもつ、親の生活時間は次のようになることがわかる。

 子どものおきている時間-昼寝時間-空白時間(ひとり時間)=世話している時間

 世話している間、大人は子どもの表情、ことば、しぐさに何らかの反応することが常であるから、世話している時間は、イコール子どもとの実質的交流時間といえる。

 また、食事やお風呂など幼児が生きていくために必要とされる時間は、必然的に実質的な交流時間であり、逆に親が生きていくために必要な家事などの時間は、基本見守りであり積極的交流にならない時間である。つまり、幼児が生きていくため必要な介助を受ける時間は、どの子も享受している大人との交流の必要最少時間(A)であり、幼児の活動可能時間-(引く)親が生きていくために必要時間=最大交流時間(B)となる。そして、幼児の標準的な大人との交流時間(C)は、両者の中間に存在する。

      A<C<B

 この法則はどの子、どの親にとっても共通であることから、親の家事などと区別されている「子どもの世話」時間の平均は、その年の標準的な「大人との交流」活動時間であったと仮定することができる。実際、いわゆる野性児として育ち人間の「大人との交流」活動時間が0分、すなわち必要最少時間(A)に満たなかった野性児たちは、2次元可逆操作へ進めていない。3)

5.前述のように厚生労働省の「人口動態統計」の最新データ(2020)によると出生率がピークとなる年令階級は、30才~34才の年令期である。そして、その多くは第1子であった。よって、この年の30才代女性の生活時間調査は、他の年令階級に比べて、1才半児の母親の生活時間の特徴をもっとも反映したものになっていると想定できる。

6.NHK放送文化研究所の「国民生活時間調査」(2020)によると、出生率がピークであった30代女性の「子どもの世話」にあてる時間の行為者平均は、6時間10分である。個別には、夫の育児参加時間、同居大人の有無によって交流時間は変わる。しかし、平均するとこの時間であり、1才半児が次へ向って育っていくための標準的な大人との交流時間だったと推定できる。

7.6.の結果をもっとも古いNHKの調査によって検証してみる。NHKの「国民生活時間調査」は、1995年からのものが公開されている。1995年の出生率のピークは、25才~29才。そのうち、73%が第1子である.(厚生省「人口動態統計」)したがって、1995年の20代女性の生活時間は、他の年令階級に比べて、1才半児の母親の生活時間の特徴をもっとも反映したものになっていると想定できる。では、今から28年前の20代女性の「子どもの世話」にあてる時間の行為者平均はどのくらいになっていたのだろうか。同じ「生活時間調査」によると、5時間49分であった。

8.結果、1才半(1次元可逆操作期)を迎える子どもの標準的な「大人との交流時間」(一日当たり)は、今も昔もおおまかに6時間(±α分)だったといえる。

 

 以上から、1次元可逆操作期の子どもたちは、ざっと1日約6時間×約910日(2年6ケ月)=5460時間の大人との交流活動量によって、原動力を発生させ、2次元可逆への質的転換を実現していると推定できる。つまり、こうして質的転換に必要な活動量の目安ができる。

 この目安によって、1次元可逆操作期の子どもたちの教育実践の見直しが可能となる。

 

➀ひとつは、授業を中心とした学校生活が可逆操作発揮の媒介「大人との交流活動」になっているかという視点での見直しである。

 障害の重い子どもたちの授業風景としてよくみられる、横一列にならび、子どもが順番にひとりずつ前へ出て学習するやり方では、ひとりの子が可逆操作を発揮できる量が圧倒的に不足する。ひとコマの授業でひとりの子と交流ができるのは数分となるからである。つまり、2次元可逆操作期以降の子には妥当な授業方法であっても、1次元可逆操作期の子どもたちの授業では、妥当しないことがありうる。また、ひとりでなんでもできる年齢になると、食事やお風呂など生きていくために必要とされる時間=実質交流時間とならない。学校やお家の暮らしの中で、あえて大人の世話が必要となる時間をつくり、必要最少時間(A)と同程度の時間の確保が必要だと思われる。

 

②もうひとつは教育内容、教材の見直しである。

 教育ー学習ルートによって発達の自己運動を支援しようとするとき、学校で新しいことばを獲得したとしても、それだけでは、自己運動として回転していくための活動量が不足する。一語文の子に「最近接領域となるニ語文を」ではなく、どのような教材でどのようなことばを獲得したら家族との交流が広がるか、つまり暮らしの中で使えるか、という視点での見直しが必要だと思われる。前述のように障害のない子どもたちの1次元可逆操作期は「子どものおきている時間-昼寝時間-空白時間(ひとり時間)=世話している時間=実質交流時間」であった。学校の中だけでの見直しでは、量的蓄積は進まない。

 私の経験では、本人の要求が実現できるもの、たとえば「パン」ということばや、サインで(毎朝のことなので)家族との交流が広がる。また、「指さし」4)ができるようになり、絵本による交流が可能になっただけで、交流がひろがった。それまでどうして遊んだらいいかわからなかった父親が、娘と絵本でいっしょに遊べることがわかり毎日定時に帰り、絵本で遊ぶようになったからである。

 いずれも1次元可逆操作期の子どもたちである。ただし、ふたつのケースとも、まず、学校で力をつけて、それが呼び水となって家族(大人)との交流がひろがったケースであった。

 

 今、すでにもっている可逆操作を発揮する活動の場をひろげることは、どの子にとっても可能性が開かれている自己実現の道である。自分の人生を切り開くだけでなく、家族の生きる力を励ます。

 

「ことばがふえていくのはほんとうに親としてもうれしく楽しみなことで、さとみの”ひと言”が、どんな苦労をもふきとばす力をもっているとしみじみ感じます。だからこそ、生きていけるのだとも。」(1987・7・8 連絡帳 母親)

 

 1才半の段階で大人の世話を受けながらも、コミュニケーション手段が乏しく一日あたり、実質1時間の交流時間しかもてなかった時、量的な側面からの試算では2次元可逆操作へ、次の原動力の発生までに約15年かかることになる。次の原動力発生までの時間をシュミレーションすることで私たちは、可逆操作の量的蓄積がいかに重要かを知ることができる。

 

「現れていない段階の課題を考えるのではなく、もう獲得されている可逆操作が、もうその力はあるけれど発揮する機会がないところに働きかけるのが教育の基本」

                   加藤聡一(2018)「人間発達研究所通信」V0l34(3 )

 

1)永野裕之監修(2022)「世界でいちばん素敵な数学の教室」.三才ブックス

2)生後1歳半のスケジュールと1日の過ごし方!授乳間隔や睡眠時間の変化について1歳半の1日の生活リズム | yunoto (luria4.jp)

3)オオカミ少年、犬少女。人間社会から隔離された環境で育った世界10人の野生児たち : カラパイア

4)指さしができてはじめて1次元をこえていることがわかった事例。

 山田優一郎、國本真吾著(2019)「障害児学習実践記録~知的障害児・自閉症児の発達とコトバ」.合同出版

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

読後感想 田中昌人著「人間発達の科学」の「矛盾」について(続き) ~「内」と「外」、新しい発達の原動力への影響

 「新しい発達の原動力」

   ―――その話しが難しすぎる原因を考えてみた

            

                    山田優一郎(人間発達研究所会員)

 

はじめに

 前回までのブログで見てきたように田中は、能力である交流(交通)の手段の発展を「外部(人と人との関係)」の矛盾として説明した。それは、歴史的な制約があってのことだった。

                図1

 図1の「内」と「外」の誤認は、その後も深刻な影響を与えることになる。「新しい発達の原動力」の説明で、困難な説明を余儀なくされることになったからである。究極の合理的説明の方法である弁証法のひとつの誤認は、そこだけには留まらない。田中の場合も次のように「新しい発達の原動力」の説明において弁証法の原則に合致しない結論に辿りついている。

 

[Ⅰ]「内」と「外」の誤認(これは歴史的制約)1980年「人間発達の科学」

[Ⅱ]各層の第2段階に発生した原動力によって新階層への質的転換が実現するという結論が導きだされた。1985年「京都大学教育学部紀要31号」P50

 

 弁証法では、すべての発展は、矛盾を母とする原動力が引き起こす。

「(矛盾は)、弁証法における基本カテゴリーであり、すべての運動・変化・発展の根本をなす」1)

 そして、「自然は弁証法の試金石である。」(エンゲルス2)

 したがって、第3段階にある対立物ー矛盾ー原動力ではなく、第2の段階の矛盾から発生する原動力によって、新階層への質的発展があるとする[Ⅱ]の結論は、残念ながら弁証法が描く自然の姿ではない。質的転換は、各段階の対立物の相互浸透の結果、「一方が他を圧倒する作用を及ぼすことで、新たな事物に転化する」3)仕組みになっているからである。             

 

 自然の姿ではないことの説明は、職場ですぐに質問がでる。何となくの違和感、直感からくる疑問であり、これも自然なことである。

 

「1次元から2次元、2次元から3次元、子どもにとったらみんなはじめての新しい発達の原動力でしょう?」

「なんでここだけ何年も前の力が原動力になるんですか?」

 

 もし、実践上の必要から新しい発達の原動力を職場で説明しようとする人がいたとしたら、私たちが、職場で長い間、「可逆操作というのは、何と何が可逆しているんですか?」「どうしたら、わかるんですか?」という質問に立ち往生してきたように、おそらくたいていの人は、新しい発達の原動力でも職場の仲間たちの上記質問に答えられない。

 以下、新しい発達の原動力の発生の事実そのものではなく、その記述(説明)について検討した。          

 

1.前回ブログでも指摘したように弁証法の根本法則の誤認は、たとえ弁証法によって説明したとしても、現実の自然の姿とは異なる結果になる。

 自然の姿でないものは、どうしても、他者には伝わりにくい難解なものになる。それは、どんなに工夫しても辻褄があわない結果になるからである。

 具体的にみていこう。

 

 1985年。新しい発達の原動力について、田中の説明は次のとおりである。

 

「1種類または2種類の変数の可逆操作から、同一単位の多変数の可逆操作になるという、いわば量による階層内の質への転化を基本とするだけではなく、発達における飛躍を達成し、次階層での発達を主導する新しい交流の手段をともなった新しい質の発生でもある」(京都大学教育学部紀要31号P50)4)

 

①新しい発達の原動力は、「1種類または2種類の変数の可逆操作から、同一単位の多変数の可逆操作になるという、いわばによる階層内の質への転化」を実現する。これは、田中が第1章で説明してきた「量的変化から、質的変化への移行の法則」5)の説明である。したがって、すべての質的転化に貫かれている法則であって、新しい発達の原動力についてだけ「新しい」をつける根拠にはならない。むしろ、「階層内の質への転化を基本」としつつ、それだけでなく、「飛躍を達成」することにおいて新しい発達の原動力は他と区別される。みてきたようにこの結論は、各段階の対立物の相互浸透の結果、「一方が他を圧倒する作用を及ぼすことで、新たな事物に転化する」という弁証法の原則に合致しない。つまり、 自然の姿ではない。(末尾に参考資料あり)

②また、1、2、3と階層内で「質への転化」を遂げていくすべての活動が「飛躍を達成」するための量的拡大になるという意味なら、「階層内のすべての活動の量的拡大によって・・・」としなければ意味が通じない。意味が通じたとしても、また別の問題(③)が出てくる。

③たとえば、可逆操作力と可逆操作関係の矛盾で交流(交通)の手段(ことば→書き言葉)の変化を説明したとき、「関係」のところにいれたことばの活動は、固定する傾向をもつことになる。そうでないと日々進歩する可逆操作力との矛盾が生じないからである。つまり、ことばの量的拡大はすすまないことによってのみ可逆操作力との矛盾が拡大する。結果、「いわば量による階層内の質への転化」はおこらないことになる。(図2)

                図2

        

④けっきょく、新しい発達の原動力は「階層内の質への転化」「飛躍も達成」する。すると今まで階層内の移行を実現してきた「普通」の原動力は、第3の段階では消えることになるのだろうか。つまり、これまで「質への転化」をなし遂げてきた原動力との整合性が問われることになる。

 

 以上、新しい発達の原動力の説明の困難さ(わかりにくさの原因)は、弁証法の原則と合致しない結論を弁証法によって説明することの困難さであり、前述の[Ⅰ]をそのままでは避けられないものだったといえる。田中は、以後も苦しい説明を余儀なくされる。

 

1)古在由重企画、森宏一編(1971)「哲学辞典」.青木書店

2)エンゲルス著、寺沢恒信訳(1970)「空想から科学へ」.大月書店

3)前掲1)

4)田中昌人(1985)「発達における階層間の移行についてⅢ~次元可逆操作の段階から変換可逆操作の階層へ」.京都大学教育学部紀要31号P50

5)田中昌人(1980)「人間発達の科学」.青木書店

 

2.新しい発達の原動力の「重層構造」による説明

 冒頭論文から2年後(1987年)の書籍6)で田中は、新しい発達の原動力について、次のように説明した。

 

「かって、発達における階層の導入について述べて以来、階層内の三つの発達段階の第2の段階から、第3の段階に移行するところに、第3の段階を形成するとともに新しい交通(交流)の手段を発達させつつ次の階層を主導する❸発達の基本矛盾が、重層構造をもって発生することを述べた」(「理論」46P)

 

 これも難しい説明である。とても、職場の人たちに読むようにすすめることはできないし、読んだらわかる、ともいえない。

 

 原動力は、活動をひきおこす元になる力なので、5才半の原動力を例にとると、「第2の段階から、第3の段階に移行するところ」(5才半頃)」に発生する新しい発達の原動力は、❶「第3の段階を形成する」活動をひきおこし、❷「次の階層を主導する」力(書き言葉)を「発達」させる。そして、❸その「発達の基本矛盾」が「重層構造をもって発生する」

 

「第3の段階を形成」は、5才半の原動力を例にとると3次元可逆操作期のことである。そして、そこでは書き言葉が獲得される。

 新しい発達の原動力が、新階層への「飛躍を達成」(前述85年論文)するという説明は消えた。つまり、田中自身の「かって」の主張とは異なる。そして、上記の❶❷は、「2次元可逆操作期に自制心が育つ」というようにどの段階でもいえる当然のことをいっているにすぎない。たしかにこの説明で、ここまで発達を遂げてきた原動力との整合性はとれることになるのだが、「だったら、ほかの原動力と同じ」という結論になってしまっている。もちろん、「新しい」をつける根拠にはならない。

②今回の説明で新しく使われているのは、❸「重層構造」である。たしかに、新しい発達の原動力を生む「基本矛盾」に限り「重層構造」をもっているのであれば「新しい」をつける根拠となる。

 矛盾が層になっていれば、ひとつの矛盾から段階間の移行と、次の階層への飛躍という二つの質的転換をなし遂げる二つの原動力がうまれる可能性がある。では、重層構造をもつ矛盾は存在するのだろうか。結論からいうとそのような矛盾は存在不可能である。理由は、以下のとおり。

 

 矛盾の概念は「有と無・人間と人間でないもの・白と白でないもの、というものであり、二つの対立する概念の間にはその中間にあたる概念はない」(「哲学事典」)7)白と黒なら、反対の概念なので灰色という中間がある。だから並べると層になる。しかし、矛盾は反対概念とちがい、「有か無」であり中間がないのを特徴としている。いうまでもなく、重層というのは、「いくつもの層になって、重なっていること」8)である。矛盾そのものが、中間がなく層にならない以上、「重層構造」をもってしても、ひとつの矛盾から発生した原動力が二つの質的転換を成し遂げることはない。

 

 こうして、新しい発達の原動力は、「重層構造」によっても、説明に成功しているとは言い難いものになっている。

6)田中昌人(1987)「人間発達の理論」.青木書店

7)古在由重企画、森宏一編(「哲学辞典」).青木書店

8)「現代国語辞典」.三省堂

 

まとめ

 何がコトを難しくしているのか、原因がわかれば解決できる。実践者に伝わることばで説明することができれば、田中の大発見、新しい発達の原動力は子どもたちの元へ届く。その時は、きっと誰もが職場で語れるようになる。仲間たちに伝われば、実践に生かせる。

 

資料

1.田中は、1979年までに次の発達の事実を発見している。

 

(ⅰ)階層は主導的な交通の手段で区切られる。

 

各第1段階の可逆操作が成立するところでは、新しい交通の手段が主導的な交流の手段としての位置をしめる。」(「科学」P157)

 

(ⅱ)新しい交通の手段の萌芽は5才半に発生する。

 

第3段階の形成期にはいったときに、次の新しい交通の手段としての機能が萌芽しはじめる。」(「科学」P159)

 

(ⅲ)飛躍と移行では矛盾の質が違う。次のような違いである。(図は筆者)

 

「ひとつは、前階層第3段階の・・可逆操作関係と、第1段階の・・・可逆操作力との矛盾としての側面である。」(「科学」P181)

               図1

  A

 

いま一つの側面は、自然諸力の中に新しい質の可逆操作変数をひとつもった可逆操作力が新形成物として誕生しても、なおその水準で自己運動する新しい質の可逆操作関係は未成立であることに由来する。」(「科学」P181) 

                図2

  B

 

 次元→変換への発展を例にとると次のようになる。

                図3            

2.田中が矛盾AとBを区別した理由は、前述の(ⅰ)、階層は主導的な交通の手段で区切られるという発見があったからである。だから、Bとは違うと考えた。しかし、田中の発見は、厳密には次のような発見であった。

各第1段階の可逆操作が成立するところでは、(前段階でうまれた)新しい交通の手段が主導的な交流の手段としての位置をしめる。」(「科学」P157) 

( )内が抜けたのは、能力である交通の手段の発達を「外部(関係)の矛盾」で説明したことによって必然となる結果だった。なぜ、必然だったのか。

 

①すべては、「可逆操作力」と「可逆操作関係」の矛盾を「内部矛盾」としたことから始まる。 

      

 ② ①によって能力である交通の手段の発達を「関係」(間柄)の所へいれることになる。

 ③「関係」は構築される(生まれる)と、すぐにそこから主導的な関係になるが、ことばや書き言葉などの交通の手段は「関係」(間柄)ではなく能力なので、その力が主導的な役割を果たす時期と、その力が誕生する時期は区別される。

 ④ ①②によって、③の区別が困難になるのはやむを得ないことであり、結果としてその階層において主導的な交通の手段は、実際は新階層の第1段階ではなく、前の階層の第3の段階で生まれているのに、階層は新しい交通の手段で区切られることになった。そして、新しい交通の手段の「萌芽」は、第2段階の後半に発生することを発見していたことから、新しい交通の手段の「萌芽」、すなわち第2段階の後半に発生する原動力によって階層への飛躍を実現すると考えたのではないだろうか。

 

 ①の誤認を修正し、ことばや書き言葉は能力であるからこれらの発達を「内部矛盾」として説明すれば解決できることであり、田中が下記(経過)のⅢのように説明を修正したのは当然のことだったと思われる。但し、矛盾の重層構造については、本文指摘のとおり。

 

  「新しい発達の原動力」の説明の経過(まとめ)

資料2

 

▲読んでいただいた皆さんへ

 今回は、田中昌人の「新しい発達の原動力」について、わかりにくさの原因は著者にあるという前提にたって、書籍、論文の一部を検討しました。なぜ、理解することがこんなにも難しいのか、今回の検討で自分なりにはようやく納得できました。私のほうの誤解、まちがいがあった時(誤字・脱字含む)は、その都度修正削除の予定です。ご指摘をいただけると有り難いです。

 

 

 

 

 

読後感想 田中昌人著「人間発達の科学」における矛盾についてついて(補足)~古い交流(交通)の手段「桎梏」(しっこく)論は誤り

「関係」の発展と、つながる「手段」の発展 ――前回ブログの後半で、気がついたことをまとめてみた

             

                   山田優一郎(人間発達研究所会員)

補足の前座(前回の続き)

 個体の「内」と、個体と他者とのつながりの「中」は同一ではないわな。「内」と「外」なんやから。そして、つながりの「中」のことでも可逆操作関係がかわるということと、関係の中でどんな交流手段が使われるのかは別の話しやね。関係の発展とつながる手段の発展の違いは図にするとよくわかる。

         「関係」の発展と、つながる「手段」の発展

  えらい、ちがいやな~

 

 だから、関係の発展と、つながる方法(交流の手段)の発展とは別の原動力がひきおこすことになってる。で、弁証法では、「関係」(A)の発展は、可逆操作力(=生産力)と可逆操作関係(=生産関係)の矛盾による発展ということになっているんや。これが社会科学でいう「~との矛盾」や。

 

 ほなら、(B)をひきおこす矛盾は何やね。

 

 残るはひとつしかない。自然科学でいうところの「内部矛盾」というやつや。両方ごっちゃにしたら、エライことになるぞ。目の前でおきている現実とちがう結論になるんや。

 

 なんでやね?

 

 下図のように「内部矛盾」と「外部(関係)の矛盾」では、質的変化をひきおこすシステムがちがうんや。一方は自然科学でいうところの「内部矛盾」やし、もう一方は、社会科学でいうところの、普通の「矛盾」やから、ちがってあたりまえ。

 

 さっきからいってる、その××科学というのは、何やね。

 

 かんたんにいうと、自然科学というのは、自然がつくりだしたものについて研究する。社会科学というのは、人間と人間の関係から生み出されたものを研究する。

 

 ふ~ん。だから発展の仕組みは、ちがうんか。

 

 そのとおり。

             「内」「外」矛盾の対比図

 で、最初の話しにもどると、「外部(関係)の矛盾」を「内部矛盾」としてしまうと、能力の発達の説明は、上の図の「間柄」のところに(能力)をいれるしか道がなくなる。

 

 上へいくのはそこしかないんやから、しょうがないんちゃう?

 

 そこなんやけど。そうなってしまうと弁証法によって発見されているルールと食い違いが出てくるんや。よく、みてや。能力と能力の対立からは、日々進歩と日々進歩なので、ちっとも矛盾はおこらへん。矛盾がおこらないと発達もせ~へんのや。

 

 えらいこっちゃがな。

 

 関係(A)が発展することと、そこでどんな交流の手段(B)(=能力)を使うのかが、ごっちゃになるのは、「内」と「外」のまちがいがあると避けることができない。というか、それしか道がのこされていなかったともいえる。しかし、相手はギリシャ時代からの伝統を誇る弁証法やから、結果は、見事に現実の子どもの姿とは、ちがう結果になるんや。

 

 へえ~。そんなもんかいな。

 

 ほら、もう時間や。はよう学校いかな、遅刻するで。

 

 どんな子やねん。

 もう、ええわ。

 

ブログ番外④の補足~前段階の古い交流(交通)の手段は、「桎梏」(しっこく)になるのか

 

「階層-段階理論」では、次のように説明する。

 

「子どもが以前に獲得したその(前段階の古い)『交通の手段』を用いるだけでは、自分自身の力をのばしていくことはできない。その意味で『桎梏』となる」

 

 桎梏(しっこく)とは、「自由な行動を妨げるもの.束縛」(「現代国語辞典」.三省堂)のことである。たとえば、書き言葉(文字など)獲得期において「(前段階の古い)交通の手段」、ことばは「桎梏」になるという。

 さて、そのような現実はあるのだろうか。

 世界の多くの国々で義務教育の始まりは6・7才である。世界の各地で書き言葉は、教育によってこの時期に獲得される。

 

 小学校1年生の授業風景はどうだろう。小学校2年生の授業風景はどうだろうか。先生と児童のことばのやりとりは、書き言葉獲得の「桎梏」になるのだろうか。現実をみれば、書き言葉の獲得にとって、ことばは、「桎梏」どころか必要不可欠なものだということがすぐわかる。

 以下は、群馬県教育委員会が提供している小1、「ひらがなをかこう」2時間目の授業紹介である。1)

 

「きょうは、ひらがなを書こう、ということで勉強していきたいと思います。」

 

 「ぜんかいは、あ、い、う、え、お の読み方について勉強しましたね。

 そして、鉛筆のもち方、姿勢、そしていろいろな線を書きました。きょうは、いよいよひらがなをかきます。」

 

「今日勉強したいひらがなは、(文字を示して)、て、く、つ、の三文字です。

それでは、さっそく書いてみましょう。」

 

(黒板を指さして)「このような四つの四角があることに気づきますね。このことを1の部屋2の部屋、3の部屋4の部屋というような言い方をします。それではさっそく て の字を書いてみたいと思います。て の字は1の部屋からスタートします。1の部屋から右上にあがるように書き、中心の線のところをとおり、最後、こうして とめます。」

 

「みなさん、書いてみましょう。」

 

書けるのを待ってから)

「どうですか?(まちがいの手本を書いて)このような て の字を書いている人はいませんか?」

 

 ここで、「先生、これでいいですか?」と自分のノートを見せる子がいるかもしれない。字を書き始めたばかりの子どもたちは、ボクもボクもと次々、先生にみてもらいたがる。まちがいを指摘されたいからではなく、誉めてもらいたいからである。

 

 もう、これで、書き言葉の獲得には、ことばを理解し、ことばを発することが必要不可欠だということがわかる。おそらく、寺子屋の「手習い」から学校教育の「授業」まで、昔も今も書き言葉の獲得期にことばのやりとりなしでは、文字の学習は進まなかったのではないだろうか。

 

 大人のように読み書きができるようになりたいというのは、子どもの内からわきおこる自然の摂理である。ところがその時、「ことばを用いるだけでは、自分自身の力を伸ばしていくことはできない」と感じる子どもはいるのだろうか。逆である。みてきたように子どもたちは、まだことばを必要としている。

 

 「自然は弁証法の試金石である。」(エンゲルス2)

 

 この局面におけることば「桎梏」論は、子どもたちの現実(自然)を反映していない。以下、なぜ、こんな結果になったのかをみていく。

           

           「内」「外」矛盾の対比図

 田中は図右「外部(関係)の矛盾」も「内部矛盾」(「科学」P181)とした。それには、時代的な背景があってのことであった。3)

 結果、図の「間柄」4)のところに能力である「ことばの段階」をいれることになる。これで、書きことばの段階への発展が説明できるからである。

 すると、どうなるか。

①対立物は、日々進歩する能力と日々進歩する能力になり、矛盾はおこらない。したがって、発達はしないことになる。

②図右で示しているように「外部(関係)の矛盾」における矛盾の拡大は、可逆操作力と可逆操作関係の矛盾の拡大である。そして、「間柄」のところにいれたことばの活動は、固定する傾向をもつことになる。そうでないと日々進歩する可逆操作力との矛盾が生じないからである。つまり、ことばの量的拡大はすすまないことによってのみ矛盾が拡大するという大変な事態に陥る。

③さらに桎梏の対象になるのは、2次元可逆操作期における人と人との関係であり能力ではない。発達における能力は、一度獲得したら不可逆的に獲得される。弁証法では、図で示されているように大切に育ってきた能力は、桎梏の対象にならない仕組みになっている。桎梏になるのは、関係(間柄)である。

④そもそも笑顔、喃語、ことばなど交流の手段は、日々進歩していく能力であり、「間柄」のところにいれることはできない。それはなぜか。能力は、「ものごとを成し遂げることのできる力」5)であり、立場の違いとして示される関係(間柄)ではないからである。「おはしをもてる間柄」「歩ける間柄」「ことばを話せる間柄」などという日本語は存在しない。なぜなら、おはしを使えるのも、歩けるのも、ことばが話せるのも「ものごとを成し遂げることのできる力」(=能力)だからである。

⑤同じ理由で書き言葉も、世界の子どもたちが同じ年令期に獲得する能力であり、字がかける関係(間柄)ではない。「書き言葉の段階」として表現される能力である。

 

 自然を試金石とする弁証法の核心部分のまちがいは、子どもの現実(自然)と大きくかけ離れた結果を導く。その結果が、ことば=「桎梏」だったといえる。

 

おわりに

 みてきたように関係(「間柄」)のところに「能力」をいれざるを得なかったのは、「内」と「外」の誤認からくる必然的なものだった。(「前座」)

 そして、それは時代的な背景があってのことだった。

 きっと、「階層-段階理論」は、田中が生きた時代の時代的制約を乗り越えることができる。ことばから書き言葉への移行も、田中自身が「科学」第1章で説明してきたもうひとつの「必須矛盾」(図左)6)によって説明可能だと思われるからである。

 

1)YouTube授業「ひらがなをかこう(2)」国語/小1 群馬県

2)エンゲルス著、寺沢恒信訳(1970)「空想から科学へ」.大月書店

3)本ブログ番外④

4)「関係」は=「間柄」と同義である。(「現代国語辞典」.三省堂

5)前掲4)

6)「当該可逆操作の操作変数をもうひとつ増やしたものを発達にとっての必須矛盾として・・たとえば、1次元可逆操作の獲得期には2次元の、2次元の可逆操作の獲得期には3次元の、3次元可逆操作の獲得期には、1次変換の・・・ふさわしいとりいれかたをして運動・実践を産出する」

 田中昌人(1980)「発達の科学」.青木書店.P155~156

 

▲読んでいただいた皆さんへ

 前回から、田中昌人の「人間発達の科学」について、わかりにくさの原因は著者にあるという前提にたって、収録されている論文の一部を検討しています。今回の検討で長いあいだ抱いていた違和感がストンッと胸に落ちました。私のほうの誤解、まちがいがあった時(誤字・脱字含む)は、その都度修正削除の予定です。ご指摘をいただけると有り難いです。