「内部矛盾」、それはどこの「内部」なのか
山田優一郎(人間発達研究所会員)
田中は「人間発達の科学」において次のように宣言している。
「教育作用を含む外部要因は、発達の条件であり、発達の原動力は、内部諸矛盾である」(P176)
これが、発達の原動力をめぐる論争における田中の確固たる立ち位置であり「階層-段階理論」の根幹である。
なぜ、根幹なのか。矛盾は、「すべての運動・変化・発展の根本をなす」1)ものだからである。
以下、検討するのは、ただひとつ。田中の内部矛盾についてである。「可逆操作力」と「可逆操作関係」の矛盾を個体内に発生する内部矛盾と同一線上で論じることの是非についてである。
1)古在由重企画、森宏一編(1971)「哲学辞典」.青木書店
1.田中の内部矛盾
「人間発達の科学」における田中の記述は、次のとおり。図は筆者。
――各可逆操作の第1段階の形成期、たとえば次元可逆操作の階層における1次元形成期」において、当該する発達の階層における第1段階の内部矛盾が発生する。(以下、P181)
①ひとつは、前階層第3段階の・・可逆操作関係と、第1段階の・・・可逆操作力との矛盾としての側面である。
図1
➁いま一つの側面は、自然諸力の中に新しい質の可逆操作変数をひとつもった可逆操作力が新形成物として誕生しても、なおその水準で自己運動する新しい質の可逆操作関係は未成立であることに由来する。(矛盾である)
図2
何度も読み返してようやくわかったのは、次の三つである。❶どちらも「内部矛盾」(の発生)であること、❷どちらも、発達の高次化をひきおこす矛盾であること、➌そして、そのどちらもが「可逆操作力」と「可逆操作関係」の矛盾だということ。
「発達の弁証法における矛盾」2)というタイトルのこの論文は、超難解である。私は、数ケ月かかっても最初のページから次に進めなかった。そして、今でもよくわからない。しかし、「わからない」「わからない」と愚痴っているより「わからない理由」を考えるほうが生産的である。以下、“私”が理解不能に陥った理由をまとめた。
2)弁証法=ソクラテス・プラトンにはじまる「概念の真の認識に到達する方法」(「広辞苑」岩波書店)
2.田中は、「内部矛盾の生成には、発達における『対立物の統一と闘争』3)の法則がつらぬかれているとみられる」(P156)とした。では、田中のいう「可逆操作力」と「可逆操作関係」に「対立物の統一と闘争」の法則は貫かれているか。
3)闘争=対立した性質・要素・働きが互いに排除しあい、相手を否定しようとすること。(足立正垣(1984)「唯物論と弁証法」.新日本出版)対立物の定義は後述。
田中は、弁証法で歴史を分析するために使われる生産力を可逆操作力、生産関係を可逆操作関係として発達(人の歴史)を説明する。
生産力、生産関係の定義4)は以下のとおり。
生産力(可逆操作力)=生産において、その社会がもっている能動的な力
生産関係(可逆操作関係)=生産における人間と人間の関係
上記、可逆操作力と可逆操作関係を田中は、次のように説明した。
「発達における段階間の移行は、不断に発展する可逆操作力とそれを実現する可逆操作関係との間の統一と闘争として行われる」(P186)
では、田中が説明するところの上記可逆操作力と可逆操作関係は、対立物なのか。上記「闘争」の定義からわかるように対立してない限り、「闘争」はおこらない。
では、そもそも、対立物とはどのようなものか。
対立物=「一定の質のなかで統一のうちにあって、相互に他を規定しあいながら、同時に他を排除しあっている関係にあるもの」5)
そして、前述の田中の説明は次のようなものであった。
「・・・不断に発展する可逆操作力とそれを実現する可逆操作関係・・」(田中)
田中の説明をそのまま図にすると、図3のようになる。
図3
ここで、早速、「どう理解したらいいのだろう?」と、しばらく前に進めない状態に直面する。なぜなら、田中自身が対立物でないと説明しているからだ。つまり、田中の説明どおりなら、両者とも、ベクトルは+(ポジティブ)であり、「他を排除しあっている」関係にない。図3のように励ましあう関係に対立はなく、そこには統一も闘争も存在しない。「発達における段階間の移行は、・・・統一と闘争として行われる」(田中P186)のであるから、このままでは子どもは発達しないことになる。
5)前掲「哲学辞典」
弁証法は自然を試金石としている。したがって、このストーリーは、必然的に難解なものになる。具体的にみていこう。
「いま一つの側面は、自然諸力(子ども)の中に新しい質の可逆操作変数をひとつもった可逆操作力が・・・・・誕生しても、なおその(前の)水準で自己運動する新しい質の可逆操作関係は未成立であることに由来する。(矛盾である)」
上は先に紹介した文章である。
その続きの説明は次のようになる。
「これは、前階層の可逆操作様式が、・・・可逆操作力以上の自然の生産をはじめたことをしめす。」(P181)
生産様式(可逆操作様式)とは、「物質的財貨が、どのように生産されるかというそのしかたのこと」である。生産様式には、生産力と生産関係という二つの側面が含まれる。6)
図4
図4のように「生産力」と「生産関係」は、「生産様式」に含まれる2つの側面である。この関係で、「可逆操作様式(=生産様式)が、・・・可逆操作力(=生産力)以上の自然の生産をはじめ(る)」のである。全くイメージを浮かべることができない。生産力が高まった時は、生産様式もその生産様式になっているのであり、両者を以上、以下で比較することはできないからである。
人の成長には、体重と身長という2側面がある。そのとき、「成長が体重以上の増加をはじめた」といわれたら、多くの人はその意味を解くのに時間がかかるのではないだろうか。要するにイミフ?状態になる。
6)前掲.西本「史的唯物論入門」
(続き)
「すなわち、前階層の・・・可逆操作関係は、一定の操作水準に達し、新しい階層における主導的な交通の手段を媒介とする活動系によって、前記の可逆操作力を生み、第二者との間における定位的な共有を成立させる。」
これも、どうしたことだろうか。定義が明らかにしているように生産関係は、農民と殿様というような人と人との関係である。関係のありようが問題なのであって、可逆操作関係に「一定の操作水準」などは存在しない。人と人との関係で「友だち以上、恋人未満」という言い方をする場合でも、それはふたりの自由に属することであって「一定の操作水準」などという表現はしない。したがってここでも、イミフ状態に陥る。
思うにこの局面における量的拡大は、可逆操作力と可逆操作関係の矛盾の量的拡大であって、人とのつきあい自体が量的に拡大し一定の水準に達するわけではない。したがって、「前階層の可逆操作関係は、可逆操作力との矛盾を拡大し・・」とか、「可逆操作関係は、可逆操作力に照応したものとなり・・」とかしなければ、意味が通じない。
理解に苦しむ文章がまだ続く。私は次の一文で、もう読むのをやめよう、意味がわからない、と考えこまざるを得なかった。実際に私はそうした。
(続き)
「人格の発達力と発達関係も前階層の可逆操作関係を桎梏にかえはじめると推定される」
参考 桎梏(しっこく)=「自由な行動を妨げるもの。束縛」
人格=「人間としての、精神的な高さや深さ」
「現代国語辞典」(三省堂)
「桎梏」が出てくるマルクスの革命前夜の記述は以下のとおりである。
「生産諸力は、その発展がある段階にたっすると、・・・既存の生産諸関係と・・・矛盾するようになる。これらの諸関係は、生産諸力の発展の桎梏へと一変する。そのときに、一つの社会革命の時代が始まる」(マルクス「経済学批判」」武田隆夫他訳.岩波書店)
マルクスは、上記のように前階層の可逆操作関係(=生産関係)が生産力の桎梏へと一変するのは、生産諸力(=可逆操作力)が、「ある段階に達したとき」としている。生産力(可逆操作力)と人格は別物であり、したがって、「人格の発達力」(田中)が可逆操作関係を桎梏にかえはじめると「推定」することは困難である。
その理由は以下のとおり。
マルクスの記述を時系列にならべると次のようになる。
可逆操作力がある段階に達する→可逆操作力と可逆操作関係の矛盾は激化する。→既存可逆操作関係は桎梏へと一変する→(個体のではなく)、社会の革命がはじまる。
さて、このドラマのどこに個体の人格が登場する場面があるのだろうか。
マルクスの記述からわかるように生産力(可逆操作力)と生産関係(可逆操作関係)の矛盾の拡大によって、桎梏となって変革されるのは、社会の生産関係(可逆操作関係)である。
ここまできて、私はようやく「わかりにくさ」の原因に気がついた。そもそも冒頭に紹介した「発達における段階間の移行は、不断に発展する可逆操作力とそれを実現する可逆操作関係との統一と闘争として行なわれる」(P186)とういうのが、人類史においてあり得ないストーリーだったのである。生産力(=可逆操作力)と生産関係(=可逆操作関係)の矛盾の激化を契機としてはじまる革命において、変わるのは、人(被支配者)と人(支配者)の関係であり、個々人の発達の高次化(段階間の移行)ではないからである。
3.冒頭で紹介したように田中にとっては、高次化を実現する矛盾が二つあり、二つとも「可逆操作力」と「可逆操作関係」である。
そして、第1章では、1次元と2次元、2次元と3次元、3次元と1次変換・・・の矛盾こそが、高次化の原動力であった。
原動力は、活動をひきおこす、もとになる力7)である。前述のように原動力の母となる矛盾は、「すべての運動・変化・発展の根本をなす」8)したがって、1次元2次元の矛盾から生まれる原動力は、何をひきおこし、可逆操作力と可逆操作関係の矛盾から生まれる原動力が何をひきおこすのかは決定的に重要である。
みてきたように千本引きで「可逆操作力」VS「可逆操作関係」の紐がひきおこすのは「可逆操作関係」の発展である。
1次元から2次元への高次化は、別の紐がひきおこす。「可逆操作力」VS「可逆操作関係」の紐(矛盾)によって個体内部の高次化もひきおこされるとしたとき、矛盾の発生、発展、消滅の説明で、全く辻褄があわなくなる。
7)「現代国語辞典」(三省堂)
8)前掲「哲学事典」
具体的にみていく。マルクスの革命前夜からの展開を図にすると次(図5)のようになる。
図5 「生産力」と「生産関係」の矛盾の発生、発展、消滅
さて、図5をみながら、田中の可逆操作力と可逆操作関係の矛盾の発生の説明をみていこう。
「可逆操作の第1段階の形成期、たとえば次元可逆操作における1次元形成期などにおいて、当該する発達の階層における第1段階の内部矛盾が発生する」(P181)
果たしてそうだろうか。
マルクスの説明からすると第1段階(1次元可逆操作)の形成期は、もう可逆操作力(●)は移行の直前であるから、矛盾はマックス、激化の時期である。もうすぐ革命がはじまるのであるから当然である。そして、可逆操作力(●)の第1段階(1次元可逆操作)への移行(●3→●1)とともにもはや既存の可逆操作関係(□3)は桎梏に一変し革命がはじまる。ほどなく、第1段階(1次元可逆操作力)と照応する一変した新しい可逆操作関係(1次元可逆操作関係□1)が形成される。こうして、●3と□3の矛盾は解消され消滅する。しかし、新しい可逆操作関係(1次元可逆操作関係□1)ができると同時に1次元可逆操作関係(□1)と、日々発達を遂げる1次元可逆操作力(●1)との矛盾がはじまる。すなわち、矛盾の発生である。そして再び矛盾はマックスに向って発展する。(図5)
ところが、上記田中の説明では、革命前夜の第1段階の形成期において、矛盾が発生して、徐々に拡大していくことになる。これでは第1段階への革命(移行)に間にあわないし、当面、革命(移行)はおこらない。
田中はここでの矛盾の発生を「第3段階の・・・可逆操作関係と新しい階層の第1段階の・・・可逆操作力との矛盾」(P181)として、すなわち、マルクスの革命前夜の話として展開しているのであるから、これでは、理解しようにも理解しようがない。
生産力と生産関係の矛盾は「生産力はたえず発展するということ、生産関係は固定する傾向をもつ」9)ことによる矛盾である。革命によって、新しい生産関係が形成され、矛盾はいったん解消、消滅するが、「新しい生産関係が形成されると同時にそこから(桎梏が取り除かれたことによって)、生産力はまた著しいテンポで発展」10)しはじめる。すなわち、新しい矛盾はそこからはじまっている。したがって、「1次元形成期などにおいて、・・・第1段階の内部矛盾が発生する」(P181)とした田中の説明は、「これは、いったいどこの矛盾の話なのか」と理解不能に陥る。
9)10)前掲.西本「史的唯物論入門」
矛盾の発生、発展、消滅をまとめると次のようになる。
新しい可逆操作関係の形成(□1)によって可逆操作力(●)と可逆操作関係(□)の矛盾は、いったん解消され消滅する。→A
しかし、新しい可逆操作関係(□1)ができる。と同時に可逆操作関係(□1)は固定する傾向を持つので、日々発達を遂げる可逆操作力(●1)との矛盾がはじまる。すなわち、矛盾の発生である。→B
そして矛盾は移行のマックスに向って発展していく。→C
A消滅→B発生→C発展→A消滅・・・、と繰り返される。
この単純な発生、発展、消滅のサイクルが田中にとってはそうならない。以後も超難解な説明が続く。片や自然科学で使われる「内部矛盾」であり、片や社会科学で使用される「~との矛盾」である。どちらも、同じ矛盾ではあるが両者は全く異質なものである。後者の矛盾を前者の矛盾として説明することは誰にとっても困難なのであり、わかりにくい説明になるのはやむを得ないことだったと思われる。
4.もう一度、生産力と生産関係の定義を確認しておこう。
生産力(可逆操作力)=生産において、その社会がもっている能動的な力
生産関係(可逆操作関係)=生産における人間と人間の関係
図6
たしかに生産関係の中もつながりの内部ではある。しかし、個体からみた時、生産関係は、個体の外にあり、そこでおこる矛盾は、個体内の自己運動をひきおこす内部矛盾とは別物である。(図6)
個体の内部矛盾から生まれる原動力によってひきおこされるのは、高次化であるのに対し、生産関係のつながり、つまり個体の外の矛盾から生まれる原動力によってひきおこされるのは新しい可逆操作関係(人と人との関係)である。
田中自身がいっているように両者の関係は、後者が「外部要因は、発達の条件」(田中P176)にあたり、あくまで「発達の原動力は、内部諸矛盾」(田中P176)である。以上の理解で「階層-段階理論」にとって、何の不都合もないように思われるのだがどうだろう。
5.ところで、交流の手段(ことばや文字の獲得)は「可逆操作力」と「可逆操作関係」の矛盾から生まれるのだろうか。結論は、NOである。
なぜ、毎年同じ季節に台風がやってくるのか、なぜ、同じ季節に全国の桜が一斉に花をさかせるのか不思議なことである。それと同じように地球上の子どもたちが、なぜ同じ時期にことばをしゃべり、なぜ、同じ時期に文字を書き始めるのか不思議なことである。これらの現象は、子どもの内部に同じシステムが存在していると予想するほかない。地球の内部に台風をひきおこす原因があるように、桜の木の内部に春になったら開花をひきおこす原因があるように、人間の子の内部にもおしゃべりができたり、文字がかけたりする何らかの原因があるハズである。すなわち、交流の手段(ことばや文字など)の獲得も子どものうちにある内部矛盾のなせる技であり、子どもの内部におこる自己運動の結果とするほか、同じ年頃に一斉におこる現象を説明できない。したがって、世界の子どもたちが、同じ年令期におしゃべりをし、文字が書けるという現実を、現実のまま受け入れるならば、交流の手段の獲得もそれを達成する「原動力は、内部諸矛盾」(田中P176)であり、可逆操作関係などの外部要因は、交流の手段獲得の条件、すなわち「発達の条件」(田中P176)であると結論づけることができる。
可逆操作力と可逆操作関係の矛盾の拡大によって、ひきおこされるのは、人と人との関係の発展であり、個体内部でおこる発達ではない。さらに人と人との関係が発展することと、関係の中でどのような交流手段を使うのかも、同一ではない。(次回、補足資料追加予定)
まとめ
以上、「階層-段階理論」の根幹をなす、(個体内の)内部矛盾に「可逆操作関係」を含めること、あるいは内部矛盾と外部の矛盾を同一として扱うことの問題とそこから引き起こされる説明の混乱を指摘した。
加藤(2017)11)がいうように、また田中自身がそうしてきたように内部矛盾と、外部要因となる矛盾は明確に区別される必要がある。12)思うに弁証法による記述は、記述して真実が担保されるわけではなく、再度、現実世界による点検が必要だと思われる。そうしなければ、子どもの発達の事実とちがう結果になるからである。個体の「内」と、個体と他者とのつながりの「中」は同一ではない。同じ年頃に現れる高次化は内部矛盾によって、実現されるというのが、自己運動で発達を遂げる子どものリアルな姿である。子どものリアルな姿に則らない説明は、それを弁証法で説明したとしても、むしろ、弁証法だからこそ子どもの現実とのズレが明瞭になる。けっきょく、「外」の矛盾である「可逆操作関係」の矛盾を、個体「内」の「内部矛盾」にしたことによって、発達の現実とズレが生じ、結果、必要以上に説明が難解なものになり、そして読み手の理解を妨げているというのが、私の感想である。
それにしても、この本は通常は知ることができない一般的でないことばで埋められている。一般的でないことばを使用する際は、使用する側に説明責任がある。自分だけのルールによる、自分が決めたことばの説明抜きの使用はコミュニケーションを不可能にするからである。13)使用する道具(ことばの意味)を明確にし、他者と共有できるようにしないと「ほんとうのこと」であっても「ほんとうのこと」として伝わらない。私の経験では、ことばの定義が不明確な文章は学習の素材どころか、議論の対象14)にもならない。そして、人を遠ざける。たとえ「ほんとうのこと」であったとしても、人を遠ざける。15)
11)加藤聡一(2017)「可逆操作の高次化における階層-段階理論」~三つの法則性と区別連関.人間発達研究所紀要第30号
12)中村隆一(1990)は、早くから、田中が「対立しながら、他を抜きには存在し得ないう互いの結びつきを明確にしていない」ことを指摘していた。(「人間発達研究所通信」NO29)中村の指摘は、田中58才の時のものである。みてきたように田中が47才の時の論文で説明した可逆操作力と可逆操作関係は、対立物になっていなかった。中村の指摘は、「階層-段階理論」全体の核心をつくものであったが、田中はどう応えたのであろうか。中村が指摘した対立物(の相互浸透)を明確にしないままの論の展開は、その後も続き、新しい発達の原動力の説明でも苦労する結果を招いている。
13)加藤直樹(1990)は、「階層-段階理論」を念頭に「発達理論を学ぶと子どもが見えなくなる」という声を紹介している。(「人間発達研究所通信」NO29)
14)「発達の弁証法における矛盾について」の論文は、1979年、雑誌「唯物論」に掲載されたものである。田中は、その道の専門家である弁証法的唯物論の研究者たちに批判検討をお願いしたかったのだろう。しかし、唯物論の研究者たちは、指摘しなかった。それは、論文の意味を理解するための中心概念、「可逆操作」の定義がされていないことによるのではないだろうか。「可逆操作」の定義がないと、他学問領域の研究者たちは、可逆操作力も可逆操作関係もよくわからない。世界を認識するための言葉の厳格な意味を問い続ける彼らは、使用されていることばの定義が不明確な論文を批判検討の対象にしない。だから、「指摘しなかった」のではないだろうか。しかし、聡明な田中は、指摘がなくても、早晩気づいていたのではないかと、私は思っているのだがどうだろう。
15)内田樹(2022・3・4ツイート)「発信者にとっては、『届く言葉』とはどういうものかを真剣に吟味することが優先的な課題となる。『正しいこと』であれば、必ず届くという楽観はたぶん許されない」
資料
「発達における段階間の移行は、不断に発展する可逆操作力とそれを実現する可逆操作関係との間の統一と闘争として行なわれる」(P186)
上記の文章は、田中、47才の時のものである。
それより、少し前45才の時、「質的変化への転化は、この内部矛盾の発現にほかならない」(P155)としている。したがって、田中にとっては早くから可逆操作力と可逆操作関係の矛盾は、高次化を実現する内部矛盾だったと思われる。
なぜ、田中は、可逆操作力と可逆操作関係の矛盾を内部矛盾としたのか。これは、天才、田中の「弘法にも筆の誤り」なのか、時代の制約だったのか。それとも、私の誤解なのか。最後の説の可能性も大なのだが、せっかくここまできたので、時代の制約説1)にたって、田中の弁護を試みたいと思う。以下、ふたつの資料を検討した。
①1960~70年代、弁証法や唯物論を学んだ多くの人たちが教科書にしたのは、大月書店のマルクス・エンゲルス選集だったと思われる。(勝手な推測)例の有名な文章が載っているのは同選集の補巻3である。古い書籍(1951年版)を図書館から取り寄せると次のようになっていた。
「社会の物質的生産諸力は、その発展のある特定の段階で、それらが従来その内部で運動してきた現在の生産諸関係と、あるいはそれの法律的表現にすぎないところの所有関係と矛盾するようになる。これらの諸関係は、生産力の発展諸形態からその桎梏に急変する。そのときに、一つの社会革命の時代が始まる」(P3)
上記のように1951年の出版物では、「その内部で」、さらには、「運動」とあり、物質内部の細胞運動を連想させる。この一文から、生産諸力と生産諸関係も、物質、あるいは固体の自己運動における同じ「内部矛盾」と読み取った研究者がいても不思議ではない。ひょっとしたら、田中もそのひとりだったのかもしれない。
➁しかし、驚くことに①の発刊から58年後2009年第46冊「経済学批判」(岩波書店)に収録されている同じケ所の一文はかなり違ったものになっていた。
「社会の物質的生産諸力は、その発展がある段階に達すると、いままでそれがそのなかで動いてきた既存の生産諸関係と、あるいはその法律的表現にすぎないところの所有関係と矛盾するようになる。これらの諸関係は、生産諸力の発展諸形態からその桎梏へと一変する。この時、社会革命の時期が始まるのである」
「その内部」が「そのなかで」にかわり、どの「なか」なのかは、「いままで」動いてきた「なか」なのであとに続く「既存の生産諸関係」の「なか」だとわかる。つまり個人内部ではなく、外にある生産関係の中なのである。
また、自己運動としての内部矛盾とまぎらわしくなる「内部」が消え、運動も細胞の運動ではなく、「動く」に変更され、意思を持った人が動くことの意味になり、固体内部の自然現象としての自己運動とは区別できるようになっている。
以上、田中が可逆操作力と可逆操作関係を個体内の内部矛盾と同じように説明した理由を勝手に推測した。そこには、1970年代2)という時代の制約があり、当時の翻訳本の訳し方に影響されたのではないかというのが、私の結論である。どんな理論も時代的制約から逃れることはできない。しかし、それでも、なお、おそらく「階層-段階理論」はゆるがないものと思われる。3)「内」と「外」の説明の一部を弁証法の定義どおりに展開すれば、首尾一貫したわかりやすいものになるからである。なにより、発達を自己運動として、自然の摂理として、誰もが通ってきた道として説明できる。さらに、可逆操作力と可逆操作関係というアイテムによって、知的発達と人格の発達の関係も、自然を試金石とする弁証法で説明できるものになっている。弁証法で説明できるということは、自然を学問の対象とする物理の法則「対称性の原理」によっても記述できるものになるからである。
1)加藤直樹(1990)は、階層-段階理論を念頭に「発達理論の研究がある制約を現段階では持っている」可能性を指摘している。(「人間発達研究所通信」NO29)
2)荒木穂積(2015)は、1970~80年の間に「『階層-段階理論』の基礎をなす概念の多くが提起」されたとしている。(立命館産業社会集第51巻第1号)
3)しかしながら、発達の事実についてではなく、説明については若干の修正が必要だと思われる。
▲読んでいただいた皆さんへ
田中昌人の「人間発達の科学」も超難解です。わかりにくさの原因は、私にあるのではなく、著者にあるという前提にたって、収録されている論文の一部を検討しました。私のほうの誤解、まちがいがあった時は、その都度修正削除の予定です。ご指摘をいただけると有り難いです。